学習通信060308
◎仲間以外はみな風景……
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電車
仲間以外はみな風景。そう言ったのは社会学者の宮台真司さんである。どんなにたくさんの人の中や公共の場にいても、若い人たちの目には、自分のすぐ横にいる仲間や友だち以外は電柱やガードレールなどの風景にしか映っていない、という意味だ。きわめて信頼性の高い「若者の法則」だと思う。
もちろん、電車の中でもこの法則は通じる。たとえ満員電車に乗っていても、若者にとっては家具や植木鉢と同じ車両にいるという感覚しかない。だから、平気で化粧もすれば弁当も食べる。部屋の中で、「机が見ているから恥ずかしくて化粧ができない」と言う人はいないだろう。それと同じことだと考えれば、「どうして電車であんな傍若無人なふるまいをするのか」という謎も解けるのではないか、と思う。
ただ問題は、この「若者の法則」は若者が勝手に決めてしまったもので、社会全体のものではない、ということだ。全員がこれを共有し、「電車や公園でもまわりの人間はいないものとして行動してよい」ということになれば、それぞれが勝手なことをやればよいだけなのだから摩擦も起きない。直接、自分に迷惑や被害が及ばない限りは、「見えないようにする」ことですべてをすませるわけだ。しかし、まだ多くの大人たちにとっては、若者が電車で化粧をしたり恋人とベタベタしたりするのは「みっともない」「不愉快だ」と感じられる。そのギャップが問題なのだ。
では今後は、たとえば電車の中などでは、どちらを標準ルールとすればよいのか。「それぞれが他人の目を意識せずに好きなことをする」という若者ルールの方か、それとも「他人の目がある公共の場では、やってはいけないことがある」という大人ルールの方か。
私自身は若者ルールにシフトしていくのも仕方ないではないかと思う一方で、「それは意外にむずかしいことかもしれないな」と感じている。なぜなら、「他人の目を意識しない」ことは簡単だが、「自分も他人を意識しない」ことはかなり高度なテクニックを要するからだ。
最近、「電車や駅でいちばん暴力的なのは五十代男性」という調査結果が新聞に載っていた。酔っ払ったり仕事で疲れたり、と理性や意志の力が弱まっているときに、電車で他人にぶつかったり駅員に何かで注意されたりすると、つい大声をあげたりなぐりかかったりしてしまう。そんな大人がけっこう多いらしい。つまり、他人に対して寛大になったり、すべては風景≠セとその言動をいっさい無視したりするのは、実は意外にむずかしいのだ。自然に周囲を無視できているように見える若者も、実はエネルギーを使っているのかもしれない。
今の若者たちが四十代、五十代になり、仕事や家庭でのストレスがたまってくる年代になっても、電車で「自分は自分、他人は他人だよ」と思い続けられるだろうか。みんなが好き勝手に食べたり歌ったり踊ったり着替えたりしている車内で、すべてを見ないふり≠オてすませることなどできるだろうか。「自分はやりたいことやるけれど、他人がそうするのは耐えられない!」と。キレる大人≠ェ続出、などということにはならないだろうか……。そう考えると、他人をまったく意識しないという若者ルールの実行には、大人ルール以上の理性や意志の力、ある種のトレーニングが必要、ということがわかるだろう。
それでも若者たちは、「好きなことしていいじゃないか」と言うだろうか。「だいじょうぶ。問題なんて起こさないから、電車の中でもみんなが他人を気にしないでそれぞれ好きなことやろうよ」と言いきれる若者は、そもそもそれほど逸脱したことをしないような気もする。たとえば、よく問題になる電車内での携帯電話の使用にしても、多くの若者はメールだけかごく小声で会話している。大声でしゃべっているのは、たいてい大人だ。電車の中でひとりひとりが個室にいるかのようにやりたいことをやり、それでも車両全体では静けさや安全が保たれている。ちょっとSFじみているが十年後には日本中の電車でそんな光景が見られるようになるのかもしれない。
(香山リカ著「若者の法則」岩波新書 p102-105)
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自己表現と他者理解の能力
日本の子どもの事実や、それについてのさまざまな議論に接するとき、私の頭にしばしば浮かんでくる一つの短い文章がある。それは、クルプスカヤが、一九二七年に書いた、「芸術教育の課題について」(榊利夫・公子翻訳『家庭教育論』所収、一九六四年、青木文庫)という評論である。
このなかで、クルプスカヤは、「人びとの相互の結合、相互間の密接な関係、おたがいを徹底的に理解できる能力が、集団主義実現の不可欠な前提条件のひとつである」と書いている。
これを、私たちは、民主的な人間と社会の実現のための根本的条件と読みかえて、受けとめてもよいであろう。
そして、クルプスカヤは、おたがいを「徹底的に理解できる能力」を育て、おたがいの「密接な関係」を実現するためには、子どもたちに、自分を表現する機会を豊富に経験させることが大切であると言っている。
彼女は、当時のソヴィエトの家庭や学校が、「子どもの自己表出をおさえよう」としており、その結果、「子どもは、年をとるにつれて、生き生き≠ニしたところが少なくなり、真情を述べる度合も少なくなっていく」と批判している。それにたいして、「青少年が自分の思想、感情をもっとも完全かつ多面的に表現できるよう努めるべきだ」と主張している。
そして、「人間は自己を表現しながら成長していく」「表現は思想をかたちづくり、感情を深めてくれる……」と言っている。
同時に、クルプスカヤは、「自分を表現する能力はことがらの一面であり、もう一つの面として、他を理解する能力が必要です」と言っている。そして、「他を理解する」には、お互いの「内的体験」が通じあわねばならず、そのためには、自分で多くのことを体験することとともに、「ほかの人びとの経験を摂取する」体験をもつことが大切であるとしている。
要するに、クルプスカヤは、ここで、狭い芸術教育の課題を論じているのではなく、人間が人間として成長していくためには、自己を表現し、他者を理解するという経験が不可欠であるということを指摘しているのである。
このことは、クルプスカヤが言ったからそうだというようなことではなく、いつの時代においても、人間が、生き、成長していくうえでの、本質的な事実である。自己を表現し、他者を理解するということを抜きにして、人間が生きる、成長するということは、そもそもありえない。
そうだとすれば、私たちは、日本の子どもの現実を論じようとするとき、人間が生き成長するうえでの最も基本的な営みである自己表現と他者理解の活動が、どのように子どもたちのあいだで展開されているかを検討することが重要だということになろう。
(田中孝彦著「人間としての教師」新日本新書 p12-14)
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芸術教育の課題について
今日の教育の現代的課題のひとつは、集団的に働き、生活することを子どもたちに教えることです。資本主義から社会主義に移りかわる時代には、わけてもこの課題は絶大な意義をもっています。
わたしたちは、この八年間に多くのことをまなびました。いまではわたしたちは、以前よりはるかに明瞭につぎのことを理解しています。資本主義から社会主義への移りかわりは、生産手段の社会化を意味するだけでなく、それと並行して、人びとの心理ぜんたいの改造、資本主義のつちかった個人主義者を集団主義者にかえることも意味しています。この集団主義者は「じぶん」を集団とむすびつけ、この融合にまったく新しいよろこび、新しい幸福を見出し、それぞれの問題を全体の観点からあつかうことができなければなりません。
また、人びとの相互の結合、相互間の密接な関係、おたがいを徹底的に理解できる能力が、集団主義実現の不可欠の前提条件のひとつであることをはっきりつかまなければなりません。
人びとの交際の手段はことばです。そしてわたしたちは、わが革命がはなす能力をどれほどぐんと高めたかを、現に目にしています。かつて大衆は、じぶんの考えをことばで表現することにかけてはほんとに下手でした。いいかえれば、人びとははなすことができなかったのです。だが現在では、大衆はりっぱにしゃべっています。なんとたくさんのことを革命はおしえてくれたことでしょう。革命後の時代はしゃべることをおしえてくれました……いかなる自衛軍といえども、もはやけっしてこれを変えることはできません──人びとはしゃべることをおぼえ、それによってよりよく相互に理解することをまなんだのです。
でも、ことばは人びとの唯一の交際方法ではありません。「冷やかで、ふびんなるは、わが貧しきことばなり」です。
人間のことば(言語)が発達していなかったころは、表現できるのはほんのわずかのものでした(未開な原始的人民の場合)が、しかしじぶんの考えを表現する他の方法──身振り、表情、イントネーション──が発達していました。リズムのかたちをとったイントネーションは音楽に成長し、表情、身振りはリズミカルな運動に、つまり踊りに成長しました。わたしは芸術にはあまり縁がないのでよく知りませんが、それでも、文化のひくい諸民族の音楽や踊りの研究、芸術一般の研究が、音楽・踊り・歌の実体に照明をあてたように感じます。おそらく、このことについては芸術史がものがたっているでしょう。
だから、わたしたちが子どもに芸術教育をほどこしたければ、この歴史をよくしらなければなりません。この芸術史は子どもの芸術教育にまったく新しい態度をとることをわたしたちにおしえてくれるでしょう。
子どもは一歩一歩しかはなすことをおぼえていきません。子どもの単語のたくわえはながい間とぼしく、はなしの組みたても貧弱ですが、それでも体験の力はつよく、すでに子どもは一定の考えや感情をもっています。子どももイントネーションや表情や身振りを用います。しかもそれらは、大人よりも子どものほうがはるかに強く発達しているのです。
子どもの交際志向は、自己表現をおぼえていくにつれてますます伸びます。七歳から一二歳ぐらいの子どもの特徴は、社会的な本能が発達することです。じぶんの考えや感情を表現する能力がだんだんついていきます。
ふつう、家庭や学校は子どもの自己表出をおさえようとするものです。そのため子どもは、年をとるにつれて「生きいき」したところが少なくなり、真情をのべる度合いも少なくなっていくのです。子どもに音楽、踊り、詩朗読をおしえるのに、なにか別のことに力をいれていることがしばしばあります。すなわち、じぶんの思想や感情をあらわすのではなくて、真似ごとになっています。しかも大多数の場合、大人の表現に子どもを真似させることになっているのです。
ことばがゆたかになるにつれて表情、身振り、イントネーションを抑制していくのは正しいでしょうか? 正しくありません。大人の場合にも、こうした自己表出形態は相互間のよりよい理解をたすけてくれます。聴衆をもっともよくつかむ講師は、どんなひとでしょうか。抑揚もなく、能面のように無表情で、直立不動のまま、棒よみ式にしゃべる講師でしょうか、それとも表情ゆたかで、目をかがやかし、顔や身振りにじぶんの思想・感情をたたえたような講師でしょうか?……
もちろん、問題はわざと声を上げ下げしたり、紋切型の芝居じみた身ぶりをしたり、演壇を動きまわったりすることにあるのではありません。はなしをきいている労働者・農民は、身振りや抑揚にたいしても、ことばにたいしてと同じく、のべられる恩情・感情にふさわしいものを要求するのです。しかし、後者のような講師のほうが前者より何倍も迫力をもっていることは疑いありません。音楽、踊り、芝居は、わたしたちの内的体験に呼応しておれば、しばしばわたしたちの心をがっちりつかむものなのです……
じぶんたちの思想をことばでいいあらわすことのむずかしさをとくに感じるのは革命期です。わたしたちの芸術におけるこの欠陥は、新しい表現形式の探求をよびおこしました──もっとも、大成功とはいえませんでしたが……
青少年がじぶんの思想感情をもっとも完全かつ多面的に表現できるようにつとめるべきでしょうか? そうすべきだとおもいます。けだし、表現は思想をかたちづくり、感情をふかめてくれます。人間は自己を表現しながら成長していきます。歌、踊り、身振りをつうじてじぶんの内的体験を表出することによってよりよくじぶんを意識するように、人間はしゃべったり、書いたりするなかでじぶんの思想をよりよく意識するのです。「じぶんを知れ」というむかしの人の格言は、自己探究ではなくて、ほかでもなく表現過程におけるこの自己認識を指していたとわたしにはおもわれます。
芸術教育の場合は、歌・リズム・音楽・踊りによる自己表現の自然的成長をおさえないように、発達した複雑な大人の表現諸形態を子どもにおしつけないように、とくに注意することが重要です……
大人は往々にして子どもの知覚の性格、子どもの自己表現の性格、子どもそのものを理解できません……。
たとえば大人は、子どもにとっては、内容と形式をきりはなすことができないということを理解しているでしょうか。子どもがおとぎ話をきくさまはどうでしょうか。みなさんが子どもにおとぎ話をくりかえしてはなすさい、単語一つでも勝手にかえることはできません。最初のはなしで、むすめが水色の着物をきいたことになっておれば、もはや絶対に「むすめはピンクの着物をきていた」なんてはなすことはできません……
子どもは形式と内容をぜんたいとして知覚しているのです。文化性のひくい人間の場合にも、おなじようなことがみとめられます。わたしは日曜学校で教養の未熟な人たちをみてきたのですが、このような人たちにとっては同じことをくりかえしてはなすのが信じ難いほどむずかしいのです。それは、読んだことの内容がある程度利口な大人に理解できないからではなくて、一語一語そのままはなそうとするからなのです。かれにとっても、形式と内容はきりはなすことができないのです。
寓話や詩を言いかえる場合は、いっそう事態は手におえません。文化性のひくい人は、できるだけ精確におなじことばで内容をつたえようとやっきになるだけでなく、リズムまでも再現しようとつとめるのです。内容復習のとき生徒が詩形式で説明しようとしたことが、いくどもありました……
芸術的自己表出の面で子どもたちをよく観察しなければなりません。子どもたちの場合、諸形象は全一体として、不可分のものとしてうけとられますが、これは絵画にもよくあらわれます。子どもはけっして、頭や手といった個々の部分を描きません。子どもは印象づけられたとおりに、風景や輪舞を全光景として描こうとつとめるのです。
こういうわけなので、初等学校の授業はすべて芸術的要素でつらぬくと同時に、しかも、さまざまな芸術形式を個々の対象・個々の芸術分野に分離しないようにすることがぜひ必要だとわたしは考えます。このような分離は生理的に熟してくる中等学校の段階でやるのが適当です。このころになると、子どもたちは分析、分解、分化、没頭を要求するようになります。この時期に芸術がとくべつの意義をもつのは、ほかでもなく芸術によって、成長期の子どもはよりよくじぶんを理解することができるからです。
しかし、じぶんを表現する能力は楯の一面であり、もう一つの面として、他を理解する能力が必要です。それには相互の内的体験が通じあわなければなりません。ほかの人を理解するためには、じぶんで多くのことを体験しなければなりません。みずから強い情緒を体験したこともなく、じぶんで考えたこともない人は、ほかの人を理解することもできません。
だが人間は、じぶん一人でも、ほんとにささやかではあってもある程度までは成長することができますが、この場合でもその経験は他の人びとの経験によって豊かにされなければなりません。成長しつつある子どもにマッチし、親近感があり、比較の材料になる他人の経験は、子どもを前進させてくれます。摂取吸収するこの他人の経験が広範であればあるほど、そこから子どもの得るものは大きく、子どもはより集団的な人間として成長してゆく。
ほかの人びとの経験を摂取するよう子どもにおしえることは不可欠です。ここでも芸術は、非常に多くのものをあたえることができます。他人のはなしをきくことだけではなくて、その抑揚や歌にも耳をかたむけ、その顔から読みとり、その動作、身振り、絵図から読みとることもまなぶようにしなければなりません……
ウラジミル・イリーチにかんして、かれは労働者・農民に耳をかたむけることができた、ということがよくいわれます。だがかれは、耳をかたむけただけでなく、はなす人のそれぞれの抑揚、身振りまでもうけとめ、これによって相手の気分、まじめさの程度などをはかっていました。
ほかの人の内的体験の知覚という点では、どのように子どもに教えたらよいのでしょうか。わたしの感じでは、そのための土台は強い集団的な体験です──身近な分りやすい歌をいっしょにうたったり、いっしょに集団的な運動(遊戯)をしたり、集団朗読をしたりすることです。もちろん、これだけではなく、うたいながら集団労働をしたり、集団的によろこんだり、すべての子どもがなんでもいいからある一つの情緒にひたったり、といったこともあります。
七歳から一二歳までの子どもの場合は、集団的な情緒をつよめることがとりわけたいせつです。この年齢の子どもには、社会的な本能、つまりなんでもいっしょにやろうとする志向がとてもはっきりあらわれてきます。ここでも芸術は大きな役割をはたすことができます。
初等学校はつよまった社会的本能に強固な土台をあたえなければなりません。そうすれば、過渡的年齢の子どもに特有のものごとに没頭する傾向が、はやくも強固な社会的・集団主義的慣習にもとづいて伸長し、それによってこの傾向はもっとも正常にすすむようになっていくでしょう。
芸術教育と関連して、熟慮を要する問題が多々でてきています。新しい方法が必要です。子どもが芸術をつうじて、よりふかくじぶんの思想感情を意識し、いっそう明確に考え、いっそう深く感じるように、手をかしてやらなければなりません。ほかの人びとを認識することによって、集団といっそう密接にまじわることによって、集団をつうじてほかの人びとといっしょに成長することによって、奥ぶかいすばらしい体験にみちたまったく新しい生活をめざしてともにすすむことによって、この自己認識ができるように子どもに援助してやらなければなりません。(一九二七年)
(クルスプカヤ著「家庭教育論」青木書店 p90-97)
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◎「日本の子どもの現実を論じようとするとき、人間が生き成長するうえでの最も基本的な営みである自己表現と他者理解の活動が、どのように子どもたちのあいだで展開されているかを検討することが重要」と。