学習通信060309
◎歴史を究極において規定する要因……

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赤ちゃんから思春期まで見通した共同の子育てを
 ●新婦人「子育て交流会」をふりかえって
 米山淳子(新日本婦人の会事務局次長)

──以上略──

〈子どものシグナル見えますか〉

 広木(広木克行神戸大学教授)先生は「子どものシグナルみえますか?」と題して講演。少年事件や不登校問題の研究を通して、「子どもは紫露草のような存在で、この社会の腐敗、危機に一番早く反応する。子どもたちは、事件、不登校や学級崩壊などを通して、シグナルを出している」と指摘し、相次ぐ少年事件から引き出した教訓を三点にまとめて話されました。

 一つは、競争の低年齢化がすすんでいること。いまの子どもたちは、競争で差別され、親友との関係を通して自我を形成するという大切な時期を奪われている。少年事件の低年齢化の背景には、競争の低年齢化という問題がある。

 二つめは、家庭が「生活家族」ではなく「教育家族」に変質させられていること。家庭では勉強のことやテレビ、ゲームを禁止する言葉があふれ、いつも子どもは否定され「だめな自分」と感じさせられている。子どもが家庭で自分の役割をもち、「おまえがいるからわが家はすてきだよ」と感謝されると、子どものいい面も見え、子どもも親から愛されていると実感できるはず。「教育家族」では、わが子しか見えない、さらにわが子も見えなくなることを自覚する必要がある。

 三つめは、競争と管理が強まる学校現場で、教師にも子どもが見えにくくさせられていること。個人の尊厳を大切にする教育ではなく、国家や企業に都合のよい人材≠ニして、子どもたちを教育する動きがすすめられるなか、心ある教師らはみな心を痛めながらも努力しており、親も教師も思いは同じ。

 そして「家庭でも学校でも社会でも、子どもの尊厳を尊び、子どもを第一に考えることが大切。子育ての様々な運動のなかで、父母・教師・専門家たちがもっと手をつないでいくことで、見通しが見える方向へとレベルアップしていく。その輪を一回りも二回りもひろげていこう」とよびかけられました。

 〈子どもはいつも未来志向〉

 村山(村山士郎大東文化大学教授)先生は、実際、いまも毎日のように子どもの事件が報道されているが、少年犯罪で警察に世話になった子どもたちは一四万四〇〇〇人、学内外で暴力行為をおこなった子どもたちが三万六〇〇〇人、不登校で苦しんでいる子どもたちが一二万六〇〇〇人、いじめで苦しんでいる子が三万人、犯罪の被害にあった子どもたちは一七万人と、数字に出ているだけでも約五〇万人の子どもたちが、直接的に苦悩と悲しみをかかえていることになると話しました。

そしてその周りにも、「夜眠れない」「朝、食欲がない」「なんでもないのにいらいらする」「何もやる気がしない」などと感じている子どもが少なくなく、学校に毎日登校し、家庭のなかでも特別大きな問題を表に出さない子どもでも、「二割から三割の子どもが不調を訴えている」と、子どもたちが苦悩している実態を指摘します。

──以下略──

(「前衛」日本共産党中央委員会 2005年11月号 p170-171)

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さあ、どう子離れするか

 親にとって子育てというのは、人生を出発点からもう一度生きてみるようなものではないだろうかと、随所で考えてきた。自分自身の幼いころのあの日この日を、何十年のタイムトンネルを越えて手元に引き寄せ、なぞっていく。その時点で私の場合は、子どもと自分が一体化してしまったのかもしれない。子どもが三歳のときにはこちらも三歳の言葉で話し、幼稚園に入ると幼稚園児の心になり、小学生になれば小学生の目の高さで物を眺めた。

 祭りには子どもに稚児の装束をつけ、神輿をかつがせて、最初から最後までついて歩き、自分が神輿をかついでいる気分ではしゃいだ。縁日で金魚つりをし、一番熱中したのは私であった。学校の運動会では、観覧席から応援しているだけでは気がすまず、自分もフィールドに出て親子競技に汗を流した。

 要するにこちらの精神年齢の低さを、最初からもろに露呈していたわけである。そこには、権威をもった親と保護される子どもという構図は成り立っていなかった。子どもと一緒にままごと遊びを楽しむ傍ら、当然こちらの人生もリアルタイムで同時進行していた。

 人間としても職業人としても未熟なまま、常に新しいことへの挑戦を続けてきたのだから、子どもの前で格好をつけている余裕はなかった。

 職業人としては、一貫して自分の好きな仕事に没頭することができ、これ以上の条件は望めない境遇でいたが、どんな人間にとっても、その人生においてシビアな場面がまったくないことなどはあり得ないわけで、そんなとき子どもの存在は大きな支えになった。だからトータルで見ると、こちらから子どもにしてあげたことより、子どもから与えられたものの方が大きいという感じがする。

 子育てに終止符を打てる時期は、それぞれの親子によって違うのだろうが、いまやわが家の娘たちは、「うちの母親は寂しがりやだから、私たちがついていてあげなくては」と考えている。わが家ではもう「親育て」に移行してしまったようである。

 すべてなまのまま取りつくろわずに見せてきた私の生き方の中から、少しでもましな部分は参考にし、そうでない部分は反面教師として、子どもたちがこれからの人生を歩んでいってくれればいい。あとは、子どもへの精神的依存の大きな私が、どれだけすっきりと子離れできるかが、残された課題である。
[「読売新聞」1988・7・4、11、18]
(米沢富美子著「人生は夢へのチャレンジ」新日本出版社 p194-198)

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人間の生活の基本としての仕事と子育て

 人間は、親から産まれ、成長し、仕事に就き、結婚し、子どもを産み育て、やがて老い、死んでいく。同じことを、子どもが繰り返し、孫が繰り返す。こうして、人間は、生き、歴史を創り、そのなかで人間性を発展させていく。

 ところで、このように人間が生き、歴史を創り、人間性を発展させていくうえで、最も基本的な活動は、いったい何か。

 F・エンゲルスは、『家族・私有財産・国家の起源』の「序文」のなかで、つぎのように書いている。「……歴史における究極の規定要因は、直接的な生命の生産と再生産である。しかし、これ自体はまた二種類のものからなる。一方では、生活手段すなわち衣食住の対象の生産と、それに必要な道具の生産であり、他方では、人間自身の生産、すなわち種の繁殖である」(岩波文庫)。

ここで、エンゲルスは、二種類の「生産」、すなわち、「生活手段……の生産と、それに必要な道具の生産」と、「人間自身の生産」とを、人間が生き歴史を創っていくうえでの最も基本的な活動としているのである。これを、私たちは、「仕事」と「子育て」(子産みを含む)といい直しても、さしつかえなかろう。

 エンゲルスが指摘しているように、仕事と子育ては、人間が生き歴史を創っていくうえでの、最も基本的な二つの活動であるといえる。このことは、エンゲルスが書いているからそうだというようなことではなく、私たちが日々の生活のなかで実感していることである。もし仕事と子育てが充実していないとすれば、趣味の世界でいくら自己実現を図ってみても、生活の空虚さを払拭しきれるものでないということを、私たちはよく知っている。
(田中孝彦著「子育ての思想」新日本新書 p9-10)

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 唯物論の見解によれば、歴史を究極において規定する要因は、直接的生命の生産と再生産とである。だが、この生産と再生産はそれ自体また二重の性質のものである。

一方では、生活手段の生産、つまり衣食住の用品の生産とその生産に必要な道具の生産、他方では、人間自体の生産、つまり種の繁殖、それである。

特定の歴史的時期と特定の国との人間がそのもとで生活している社会的諸制度は、両種の生産によって、つまり一方では労働の発展段階によって、他方では家族の発展段階によって、制約される。

労働がまだ未発達であればあるほど、労働の生産物の量が、したがって社会の富が限られていればいるほど、社会秩序は、それだけますます圧倒的に血縁紐帯(ちゅうたい)によって支配されるものとして現われる。

しかし、この血縁紐帯をもとにした社会の編成のもとで、労働の生産性がますます発展し、それにつれて私的所有と交換、富の差、他人の労働力を利用する可能性、それとともに階級対立の基礎がますます発展してくる。

これらの新しい社会的要素は、幾世代にもわたって古い社会体制を新しい状態に適応させようと力をつくすが、両者の非両立性は、結局、完全な変革をまねくにいたる。

血縁団体に立脚する古い社会は、新しく発展してくる社会諸階級とぶつかって爆破される。

古い社会にかわって、国家に統括された新しい社会が現われてくるが、この国家の下部単位は、もはや血縁団体ではなくて、地縁団体である。

すなわち、この一社会では、家族の秩序がまったく所有の秩序によって支配され、これまでの文書にしるされた歴史全部の内容をなしているあの階級対立と階級闘争とが、いまや自由にくりひろげられる。
(エンゲルス著「家族・私有財産・国家の起源」新日本出版社 p12)

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◎「もし仕事と子育てが充実していないとすれば、趣味の世界でいくら自己実現を図ってみても、生活の空虚さを払拭しきれるものでないということを、私たちはよく知っている」と。