学習通信060315
◎赤ン坊はカワイイ……

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 自然をつくった者は、子どもにそういう活動源をあたえると同時に、それがあまり有害なものとならないように注意をはらい、子どもにあまり大きな力をあたえないで活動させている。

しかし、子どもは、自分のまわりにいる人を心のままに動かすことができる道具のように考えるようになると、こういう道具を好きなようにもちいて、自分の無力をおぎなう。

こうなると、子どもは扱いにくくなり、暴君になり、命令的で、意地悪で、手がつけられなくなる。この進化は生まれながらの支配欲によるものではなく、この進化が子どもに支配欲をあたえるのだ。

他人の手で行動するというのは、さらに、舌を動かしさえすれば世界を動かすことができるというのは、どんなに愉快なことであるかを知るには、それほど長い経験を必要としない。

 成長するにしたがって人間は力を獲得する。もっと落ち着きができて、騒々しくもなくなる。反省力もついてくる。魂と肉体はいわば均衡状態におかれて、自然は自己保存に必要な運動だけをわたしたちにもとめるようになる。

しかし、命令したいという欲望は、それを生じさせた必要とともに消え去るものではない。支配は自尊心を呼び覚まし、それに媚び、さらに習慣が自尊心をつよめる。こうして気まぐれが必要に代わり、こうして偏見と臆見が最初の根をおろす。

 ひとたび原則がわかれば、わたしたちはどこで自然の道からはずれたかをはっきりと知ることができる。そこで、自然の道にとどまるにはどうしなければならないかを見ることにしよう。

 子どもはよけいな力をもっているどころではない。自然がもとめることをみたすのに十分な力さえもたないのだ。だから、自然によってあたえられたすべての力、子どもが濫用することのできない力を、十分にもちいさせなければならない。第一の格率。

 肉体的な必要に属するあらゆることで、子どもを助け、知性においても力においても子どもに欠けているものをおぎなってやらなければならない。第二の格率。

 子どもを助けてやるばあいには、じっさいに必要なことだけにかぎって、気まぐれや、理由のない欲望にたいしてはなにもあたえないようにすること。気まぐれは自然から生ずるものではないから、人がそれを生じさせないかぎり、子どもがそれになやまされることはないのだ。第三の格率。

 子どものことばと身ぶりを注意ぶかく研究して、いつわることのできない年齢にある子どものうちに、直接に自然から生ずるものと臆見から生じるものとを見わけなければならない。第四の格率。

 これらの規則の精神は、子どもにほんとうの自由をあたえ、支配力をあたえず、できるだけものごとを自分でさせ、他人になにかもとめないようにさせることにある。こうすればはやくから欲望を自分の力の限度にとどめることにならされ、自分の力では得られないものの欠乏を感じなくてもすむようになる。
(ルソー著「エミール 上」岩波文庫 p82-84)

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第8講 形からわかること

 前回、「信号」ということが出てきました。クジャクはその「目玉模様」でオスの能力をあらわしていて、メスはそれをうけとっている。目玉模様の多いほど、実際にオスは「優秀」なんだという。
 「どうして目玉模様?」
 と、人間である私が思ってもしかたない。それが信号として「効果的」だったということなんでした。

 形を見ると「感じる」ものがあります。あるいは「わかる」気がしたりもする。ある形を好もしいと思い、ある形を嫌がったりもする。しかし、どうしてそうなるか? これはよくよく考えるとナゾなんですよ。

 たとえば、赤ン坊の顔ってカワイイですね。人間の赤ン坊だけじゃなく、いろんな動物の赤ちゃんの顔、それぞれカワイイです。なぜなんだろう?
 なぜそのカタチをカワイイと思うんだろう?
 どういう傾向があるか、どんなプロポーションか、それはわかる、感じてますから。でもどういうカラクリになってるのか?

 「なんでかって、そりゃ、そういうふうになってるからさ」とすましてしまえない。なんで我々は美人を美しいと思い、赤ン坊をカワイイと思うのか?

 赤ン坊が「カワイク」出来てるのは、赤ン坊が保護を必要とするからだ。それを見たりさわったりすることが、快感であるようにできていて、積極的に保護したくなる。

 美人の美しさも、多くはこの赤ン坊のかわいらしさと重なっている。肌がなめらかで、目が大きくてキラキラしていて……。

 しかし、こういう自明なことをナゼかと考えていくと、自分が疑問としていること自体がウヤムヤになってきます。甘いたべものはなぜ甘いのか?

 甘ければ食べるから、甘い。つまり必要なものをとりやすいように甘く感じるように、体がそういう具合にできているらしい。とすれば、やっはり「そうなってる説」か。

──略──

 形を見ただけではわからないことがある。これは目の持っている欠点だ、と先生はおっしゃいます。目で見えるからといって、後ろのシステム、見えないシステムまで目でわかるというわけにはいかない。

 「形とか色というのは非常におもしろい面がある。それをもって学問を構築できるかというと、実は正直にやるとできない。システムは形からは出てこないんです。しかし、システムが出てくると、今度は形が位置づけられる」

 私は、人間の顔っていうのに興味を持っているんですが、似たような感想を持っていたんです。顔からは形や色で、非常に多くの信号が送られてきている気がする。ところが、これを「人相学」みたいなことでまとめられちゃうと、どうも違う。

 冒頭に書いたように、私は「なぜ赤ン坊がカワイク見えるのか?」というところに興味があるんで「目の下にホクロのある人は、涙もろい」っていうのは面白くない。それを言うなら「なぜ、目の下にホクロのある人を、人相見は涙もろいと言うのか? またそれを人はナットクするのか?」ということに興味があるんです。

 手相っていうのが、もっと端的ですが、手のしわの一本が、命の様子をあらわしてるっていう。あるいはあらわしてるのかもしれないけど、しわと運命の関係というのは、ついに「証明」できません。

 「だから、僕はなぜああいうものを全く信じないかというと、逆に言えばそっちの理由なんです。いかに形のほうからシステムを推論するのが危ないか。本来はわからない。

 あらかじめシステムが与えられているから、そこに位置づけされるんです。ただ、形のほうからシステムは全くわからないかといえば必ずしもそうじゃない。そこがまた、難しいところです。

 オスのマウスは神経成長促進物質が、顎下腺にある。同じような顎下腺を持っている動物が、全然別なグループにいる。これは同じ物質があるんじゃないか、というのは完全に想像です。調べてみたら当たったというんです。そうやって少しずつ知識が進んでいくんです」

 なぜ、赤ン坊はカワイイのか? なぜ美人はキレイなのか? って同義反復みたいなギモンは、つまり、形からシステムを推論しようとしていたことなのかもしれませんね。

 あんまり関係ないんですが、美人がキレイに関しては、ひとつだけハッとしたことがあったんです。これはもう『顔』(筑摩書房)って本で書いたことですが、東大工学部の原島博先生が、院生二十二人分の顔を電算処理して、「平均顔」というものをこしらえた。

 二十二人には、いろんな顔の人がいたと思うんですが、この平均顔が非常にととのってたんでした。つまり平均の顔が「美人」だったんだ、と私は奇妙な感動がありました。

 何に「感動」したんだろ? と思うんですが、私は「オモシロイ」と思ったところには何か重要なヒミツがかくされてると考えてるんで、これは何かの糸口に違いない、と思ってます。
(養老孟司、南伸坊「解剖学 個人授業」新潮文庫 p94-103)

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◎「命令したいという欲望は、それを生じさせた必要とともに消え去るものではない……支配は自尊心を呼び覚まし、それに媚び、さらに習慣が自尊心をつよめ……こうして気まぐれが必要に代わり、こうして偏見と臆見が最初の根をおろす」と。