学習通信060316
◎小便から爆薬……

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中世の「科学」

 ギリシャの自然哲学者の考察は、西欧では約一四〇〇年後のルネサンスまで忘れ去られていました。キリスト教会が勢力をふるった中世では、神に挑戦するかのような科学的思考はきびしく取り締まられたためです。

 このような、考えたり、試したりすることが禁じられた時代では、人々は、占いや神のお告げなどの超自然的な力を信じる傾向があります。その中で、怪しげな「科学」も流行したのです。その一つが、先に述べた占星術です。

 科学は、誰でも、どこでも、いつでも、同じ現象が再現できねばならないものです。ところが、一般に「××術」と呼ばれるものは、誰か特殊な能力をもった人だけが使え、必ずしも同じ結果が再現できません。だから、「××術」は、科学とは縁もゆかりもないものが多いのです。しかし、まだ物質の成り立ちや運動についてよくわかっていなかった中世では、「××術」や怪しげな「科学」そのものが、すべて無意味であったともいえません。というのは、そこで行われた実験を通じて、科学が芽生えるきっかけともなったからです。

錬金術

 その代表が「錬金術」です。鉛や鉄のようなありふれた金属(「卑金属」と呼ばれました)に、薬品をかけたり、溶かしたり、鍛えたりして、金(「貴金属」)に変えようという試みです。むろん、それが可能なら人もうけができますから、紀元三〇〇年ころに始まり、その後一四〇〇年以上もの間、人々は錬金術に挑戦してきました。天才ニュートンも錬金術に夢中になったそうです。

 錬金術が生まれた背景には、粘土から陶器を作ったり、鉱石から銅や鉄や金を抽出したり、砂からガラスを製作したり、穀物からお酒やパンを製造したり、という化学変化を利用する技術を人々が獲得していたことがあります。火にかけたり、酵母を加えると、より便利で、より高級なものを作ることができることを経験的に学んでいたのです。ならば、鉄が金になるかもしれない、と考えるのも自然なことでした。だから、錬金術の技術を集大成した本が、早くも紀元三〇〇年ころに現れています。

 錬金術のもう一つの背景には、一神教であるキリスト教に感化されず、多神教思想である神があらゆる場所に宿るという考えがありました。大宇宙(マクロコスモス)と地上の世界(ミクロコスモス)は、互いに照応関係にあり、すべてが関連し合っているとも考えていました。つまり、すべての物質は「円環」(リング)のようにつながっていると信じていたのです。時代がもつ思想や考え方が、人々の行動に大きな影響を与えているのです。それは現代でも同じです。

 結局、物質は異なった原子からできており、化学反応では原子の組み合わせは変わっても、原子そのものは変わらないことがわかって、錬金術は一八世紀には終息しました。しかし、鉄を金に変えることを目標として、さまざまな化学実験の技術が開発されました。その結果として、化学反応のしくみが明らかになり、錬金術が不可能であることが証明されたのです。だから、錬金術は化学という学問の母といえるでしょう。
(池内了著「科学の考え方・学び方」岩波ジュニア新書 p90-91)

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小便から爆薬を作る発想

 小便を原料にして爆薬を作る。これは江戸時代に、越中(今の富山県)の五箇山地方の村民が行なった、現代の科学者も顔負けの驚くべき発想で、大変な錬金術であった。

 これについては、拙著『発酵』(中公新書)にも「奇跡の発酵」として触れたが、加賀藩前田の殿様までが五箇山地方の人たちに頭を下げたほどの発想であった。今から四〇〇年前、慶長一〇(一六○五)年のことである。その驚くべき発想は、発見された古文書で分ったのである。

 それは、正に奇跡的発想である。ここで、当時の五箇山地方の風景を想像してみてほしい。おじいちゃんとおばあちゃんが、囲炉裏(いろり)でお茶を飲んでいる。この囲炉裏には仕掛けがあって、炉周辺の床下に二間(約三・六メートル)四方に儒状(すりばち)状の穴が二つ掘ってある。

 その大きな穴に稗殼(ひえがら)を敷きつめ、土、蚕の糞、鶏糞、ソバ殼などをどんどん入れていく。そして最後に小便を大量に掛ける。

 穴の中にそれらを大量に仕込み終わったら、穴の入口を閉じて、そのまま五〜六年間置いて発酵させるのである。寒い冬でも、上の囲炉裏で火を焚いているので、地面は暖かい。

 五〜六年経ったら、村人たちは穴の入口を開けて、中から発酵物を取り出す。それをまず大きな桶に入れ、水を多目に加えて上から棒でかき回し、しばらく置いてから桶の下にある呑口という出口の栓を切ると、そこから水に溶けた発酵物が水と一緒に出てくる。それを小分けし、煮つめる。途中で灰汁を加える。物を燃やしてできる木灰に水を加えた上澄みが灰汁である。それをさらに煮つめて、最後に布で漉(こ)す。これを自然乾燥させると白い結晶が残る。

 この結晶が塩硝で、実は黒色火薬の主成分なのだ。これに木炭と硫黄を加えて火を点けると、勿論、爆発してドガーンといく。

 今から四〇〇年も前の江戸時代初期、化学の「か」の字も知らない、微生物学の「び」の字も、発酵の「は」の字も知らない五箇山地方の村人たちは、どうやって、小便から発酵法によって爆薬を作るという、奇想天外な、奇跡的な発想をしたのであろうか。

 まずその仕組みを説明しよう。小便の主成分は尿素、これが土の中の微生物で発酵すると、アンモニアになる。これを微生物は酸化し、水素を取って酸素を付けるから、一酸化窒素になる。発酵微生物はこれをさらに酸化して、過酸化窒素にする。これが土壌に含まれている水と化合して、硝酸ができる。ここまでが五〜六年もかけてやってきた発酵である。つまり、小便を土壌微生物で発酵させて硝酸を作っていたのである。

 それを掘り出し、水に溶かし出してから、煮つめて濃縮し、灰汁を加えたが、灰汁の主成分は苛性カリで、このカリが煮つめられてできた濃硝酸と反応して硝酸カリウム、つまり火薬の主成分となったのである。

 五箇山地方の人たちは、これを加賀百万石の前田藩に納めていた。前田の殿様は、この五箇山地方には誰も近づかせなかった。他国の隠密にでも見つかってしまったら、機密が流出してしまうからである。一方、村人たちは手厚く保護され、それ相応の待遇を得ていたようである。

 このような発想の原点は何だったのであろうか。

 鉄砲が種子島に伝来したのは一五四三年のことである。当然、弾も火薬も一緒に伝えられただろう。鉄砲はそのまま残るが、弾と火薬は使えばなくなってしまう。弾丸は鉄でできているから鍛冶屋が作れるが、火薬はそうはいかない。慶長一〇年といえば、鉄砲が伝来して五〇年以上過ぎ、そろそろ火薬がなくなってしまう時期である。その時期と合わせるように、五箇山地方で火薬が作りはじめられているのである。

 私は調べてみたが、中国にも朝鮮半島にも、鉄砲の本場のポルトガルにも、小便を発酵して火薬を作っていたことを示す文献はなく、この驚くべき日本人の発想は、日本独自の、世界に冠たるすばらしいものなのである。

 この爆薬の発酵生産は、いったい誰が最初に、どういう発想から行ったのだろうか。当時の科学力では、ほとんど不可能であり、ひょっとして宇宙人が来て教えてくれたのだろうか。まさか、そんなはずはない。発想の原点というのは、実は小さな発見なのである。どんな小さな出来事にも興味を持つこと、そして、自然の中で起きている何かを見逃さないことが大切なのである。

 この発想の出発点を私なりに、さまざまな角度から、ありとあらゆる可能性から推測してみると、これはどうやら堆肥から発想したものではないかという考えが出てきた。堆肥は農作物の屑や稲藁、籾殻などを積み重ねて、それに糞尿も撒いて発酵させたもので、植物にとっては、とても栄養源となる肥沃な土であるので、当時はこれを重要な肥料として当たり前に作っていた。とにかく、いろいろな物をどんどん上から被せていって発酵させるが、堆肥の下の方では、恐らく、囲炉裏下の穴で起っているような反応が起っていたであろう。

 そしてある時、たまたま五箇山地方の人が、風呂場か釜場の焚き口から灰が出たので、それを堆肥に加えた。するとその灰が雨で溶けて、苛性カリになった。堆肥の下の方に行き、発酵によって出来ていた硝酸と反応して硝酸カリウム(塩硝)になった。

 さて、ある日、村の何人かがこの堆肥を据り出して田や畑に施し、どんどんそれを堀り進めて底の方まで行った。すでにそこには硝酸カリウムが濃く出来ているところである。ここで誰かが「一服入れようか」と言って、煙草を一服。そして煙管(きせる)から火をポトンと堆肥に吹き落した瞬間、ドガーンといったのではないだろうか。

 びっくりした彼らは、「どうしてこんなことが起こったんだろう」と興味を覚え、そこで、よし再現してみようと思った。それからというもの、発想に次ぐ発想で、結局、囲炉裏の下に辿り着き、それが藩主まで喜ばす爆薬の製造につながったのだろう。発想次第では、小便まで錬金術の対象となるのだ。
(小泉武夫著「発酵は錬金術である」新潮選書 p83-87)

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◎「錬金術が生まれた背景には、粘土から陶器を作ったり、鉱石から銅や鉄や金を抽出したり、砂からガラスを製作したり、穀物からお酒やパンを製造したり、という化学変化を利用する技術を人々が獲得していたことが……」と。