学習通信060317
◎道草も……

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 生徒を管理するのがきらいだった元高校の先生。修学旅行などでは、時間通りに集まらない生徒を置き去リにし、「約束が守れなかったのだから、自分の責任で帰って来い」というような、当時でも、今ならなおさら問題になる先生だった。

 いま、六十歳すぎ。その先生が嘆く。子どもの連れ去リ、殺害などが相次いで発生、大人の管理、監視が強まらざるを得ない社会状況になり、それがエスカレートしていることが気になるのだ。子どもたちは、こころ騒ぐような道草体験もないまま、ただ黙々と家路を急ぐ。そして声をかける他人を決して信用してはいけない。「無邪気な子ども心が消えてしまう」と、先生は心配する。

 確かに、子どもをめぐる事件が多発する中で、大人の監視は強まっている。地域住民による登下校時の見守り隊をはじめ、何かことがあった時の駆けつけボランティア、そして、子どもが発する電波で異常を感知する街角見守りロボットや、監視カメラ、親の携帯電話に不審情報のメールが届くシステムも。その一方で、大人の目が届かない子どもたちだけの純粋な集団社会は確実に減っていく。

 四六時中、大人の手のひらで踊る幼児や児童たち。集団の中でこそ生まれる、けんかや我慢、いたわりの心など社会性はどう育つのだろう。道草も、子ども集団も保証できる、そういう本来の安心・安全な子ども社会をつくり出せない我々大人の側の責任を思う。(後藤定司)
(「京都新聞夕刊」 2006.3.16)

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人間的関係の結びにくさ

 しかし、それでは、子どもたちは、なぜ、人間が人間になっていく上で、最も基本的とおもわれる自己表現と他者理解の活動を人間的に体験しにくくなっているのであろうか。

 このように問題をたてると、どうしても、子どもをめぐる人間関係に大きな問題が起きていて、その結果、子どもの自己表現や他者理解の営みに問題が生じているとしか、考えようがない。子どもの自己表現や他者理解の能力だけに問題が生じてきているとは考えられない。

 ここで、生まれたての赤ちゃんの姿を思いうかべてみよう。
 生まれたての赤ん坊は何につけても泣く。おなかがへってミルクがほしい時にも泣く。おむつが濡れて気持ちが悪い時にも泣く。ずっと寝ていて位置をかえてほしいとかだっこしてほしいというときにも泣く。

 赤ん坊が泣くと、母親や、父親やまわりのおとなは、「今はおっぱいがほしいのかな」とか、「今はおむつをかえてほしいのかな」とか、「今はだっこしてほしいのかな」とか、泣くという表現の奥にあるその赤ちゃんの要求を読みとって、そしておっぱいをやったり、おむつをとりかえたり、だっこしたりというふうに反応を返すわけである。このように、表現をうけとめてくれ、要求を読みとってくれて、反応を返してくれるおとなとの関係の中で、だんだん赤ちゃんは、自分の要求をはっきりさせていくし、要求を表現する手段、表現方法も分化させていく。

 この生まれたての赤ちゃんの例ひとつとってみても、人間が自分を表現し、その表現を豊かに発展させながら、自分をつくっていくためには、その表現を受けとめ、その意味をくみ取ってくれ、反応を返してくれる他者を必要とすることがわかる。それはもちろん、いつもぴったり読み取ってくれるということではなく、誤解するときもあり、対立することもあるという関係だが、そういう他者との関係があって初めて、子どもの自己表現は展開していくのである。

 したがって、子どもの自己表現が「荒れ」たり「閉じ」たりしてきているということは、子どもが、その表現をていねいに受けとめ、その真意を読みとり、反応を返してくれる他者に、なかなか出会いにくくなっているからだと考えないわけにいかない。

 他者理解の問題についても同様である。他者を理解する力は、具体的に他者と交わるなかで、共感したり、対立したりしながら、育っていくものである。そうだとすれば、やはり、子どもをめぐる人間関係に大きな問題が生じており、そのために、子どもたちは、他者を深く理解する経験をもちにくくなっており、他者理解の能力を十分に獲得しきれないでいると考えないわけにいかない。

人間的結びつきへの子どもの要求

 はじめに述べたように、日本の子どもの現状をどうみるかということでは、さまざまなとらえかたがありうる。私は、人間が人間として生き、成長していくうえでの最も基本的な営みとして、自己表現と他者理解の活動があるとして、その視角から、子どもたちの生活を検討することが重要であると考えた。

 日本の子どもたちの自己表現には、「荒れ」と「自閉」の傾向がみられ、自由で人間的な表現の体験をなかなかもちにくくなっている。また、他者と深く交わりながら、他者を人間として理解することも、困難になっている。日本の子どもたちは、一般的に言って、こうした問題をかかえているといわないわけにいかない。

 もちろん、子どもたちの自己表現と他者理解の活動だけに問題が生じてきていると考えるのは正確ではない。その背後には、当然、人と人との結びつきを切り裂くような現在の日本の社会の問題がある。しかし、それはどういうものであり、なぜそのような社会になっているかということまで突っこんでのべるには、別の準備もいるし、一人でやりきれるものではない。

 ここでは、人と人とを切り裂く力が強力に働いている現在の日本の社会の中で、子どもをめぐる人間関係に重大な問題がおこっており、子どもの発達の最も基礎となる自己表現と他者理解の人間的展開がさまたげられているという分析にとどめておきたい。

 しかし、人間というものは、生きて成長していこうとする限り、自分を表現したい、他者を理解したい、お互いに人間的に交わりたいという欲求を捨てるわけにいかない。お互いを切り裂く力が強ければ強いほど、その欲求はかえって強まるといってよい。そして、そのことは、「新人類」などと言われる今日の子どもたちにおいても例外ではない。

 このように考えると、私たちが、子どもの人間的な発達をうながしていくうえでの直接の切り口は、今日の子どもたちのさまざまな生活表現のなかに人間的な交わりの欲求、自己表現と他者理解の欲求を読みとり、子どもをめぐる人間関係の質をどう豊かにするか、おとなの側からその質をどう転換していくかというところにあることになる。

 たしかに、今日の子どもたちが直面している問題は、人間関係の問題だけではなく、自然との関係の問題も非常に大きい。しかし、子どもが自然と人間的な関係を回復していくためにも、子どもは、自然とかかわる楽しさに共感し、自然とかかわることの大切さを深く理解している他者によって、支えられはげまされることをまず必要としているといえる。

 地域では、地域のおとなと子どもの関係の質をどう転換するのか。家庭では、親と子の関係の質をどう転換するのか。学校では、教師と子どもとの関係の質をどう転換していくのか。そして、子ども同士の関係の質をどう転換するのか。なによりも、今、それが問われているのではないだろうか。
(田中孝彦著「人間としての教師」新日本新書 p21-25)

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結局、全部で十六人の方がたに、その分野の最前線の状況を話していただいたのですが、こうして、自然科学の第一線を訪ねた目であらためて自然を見ると、自然の全体像が、二〇世紀の人間の自然認識の到達点として、たいへん鮮やかに浮かび上がってきます。

 その全体像というのは、やはり、すべてのものに歴史があり、すべてのものが関連しあうということで、たいへん弁証法的ですし、また、人間の生命も、人間の精神も、物質であるDNA・タンパク質や脳髄・神経細胞を基礎にして解明できるという点で、きわめて唯物論的なのです。かつてエンゲルスが言ったように、唯物論と弁証法が自然の全体像のなかに生きいきと脈打っていることをあらためて実感しました。

 これは私なりにつかんだ自然の全体像ですが、それぞれの方が、自分が生きているこの自然というものが何であるかという全体像を、ぜひ、大学での生活の間につかむ努力をしてほしい。

自分なりに自然の全体像をつかむことは、私たちがこの地球で生きてゆくうえで、世界にたいする見方、そのなかでの自分の位置についての見方を豊かにすることに、必ず役立つことであります。

この課題をひとつ、学問に取り組むにあたっての大きな命題として、大学生活をすごしてほしい、そのことを、まず要望したいと思います。
(不破哲三著「日本の前途を考える」新日本出版社 p30-31)

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◎「今日の子どもたちが直面している問題は、人間関係の問題だけではなく、自然との関係の問題も非常に大きい」と。