学習通信060320
◎社会を新しくつくりうる力量……

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教育

 教育については、ひじょうにさまざまな受けとりかたがされています。狭義では、教育ということばはふつう、幼児や青少年の行ないにたいする大人の側からのあれこれの計画的、系統的な働きかけというふうに理解されています。ふつう教育者にみたてられているのは、両親または両親にかわる人びとです。富裕な人びとはじぶんのかわりに女中、保母、男女の家庭教師をやといいれました。

 教師も教育者だとみられています。しかし、一部の教師はおもに学科を教えるだけで、教育のためには、つまり行ないの監督のためには、べつに特別の役職がつくられてきました。「視学官」「学級指導員」「女子学級指導員」、あるいは俗にいわれる「学級夫人」がそうです。

 だか、教育をするのはたんなる個々の人間ではありません。家庭ぜんたい、学校組織ぜんたいが教育をするのです。

 教育をするのは公衆であり、社会施設であり、あらゆる周囲の環境であり、全社会機構です。諸事件も教育の役目をはたします。子どもだけでなく、大人も教育されます。

 したがって「教育」ということばは、しばしば、もっと別の広い意味でつかわれます。よくこういうことがいわれます。「実生活がかれを意思のかたい人間にそだてた」とか、「かれは極度に困難な条件のなかではぐくまれた」、あるいはまた「街頭の子ども」とか「地下室の子ども」、「時代の子ども」とか「革命のむすめ」とかいったものが、それです。

 エンゲルスの「フォイエルバッハ論綱にかんするテーゼ」によれば、マルクスとエンゲルスはこう考えていました。すなわち、人間は環境と教育の所産であり、したがって、変化した人間はことなる環境と変化した教育の所産である、と。

しかし、いぜんの唯物論的学説のあたえた定義は、マルクスとエンゲルスにとっては不十分におもわれました。かれらは、それにこうつけくわえたのです。「環境そのものがまさに人間によって変えられるということを、そして教育者じしんが教育されなければならないということを」忘れてはならない、「環境の変化と人間活動の変化との合致は、ただ変革的実践としてのみとらえられ、合理的に理解されうる」ということを忘れてはならない。
(クルプスカヤ著「家庭教育論」青木書店 p33-35)

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第二節 理論と実践とをきりはなすことはできない

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「対象的真理が人間の思考に帰するかどうかという問題は、なんら理論の問題ではなく、実践的な問題である。実践において人間は自分の思考の真理性、すなわち現実性と力、現世的性格を証明しなければならない。思考を実践からきりはなしておいて、その思考が現実的か非現実的かといってあらそうのは、まったくスコラ的な問題である。」(第ニテーゼ)

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 理論を実践からひきはなすところにそもそもまちがいがあるのです。「対象的真理が人間の思考に帰するかどうかという問題」、すなわち人間が客観的な実在(対象)についてのただしい認識(真理)をもてるかどうかという問題にしてもそうです。それは「なんら理論(観想)の問題ではなく、実践的な問題である」のです。傍観者的な態度で議論してみたって結着のつく問題ではありません。

工場のたれながした廃液が水俣病をひきおこしたのか否か、という問題をとってみましょう。「ゼッタイにそうとは考えられません」と資本の側はいいはっています。それならば、当の廃液のなかでとれた魚を、まず資本家自身が食いつづけてみるがいい。そうしたらその考えが真理かどうか──現実の力をもってこの世に通用しうるかどうかが、いやおうなしに証明されるでしょう。

「実践において人間は自分の思考の真理性、すなわち現実性と力、現世的性格を証明しなければならない」とマルクスが書いているとおりです。

 しかし、かれらは絶対にそうしようとしません。逆に廃液処理の記録や分析・実験のデータをおしかくしてしまうのです。ところが傍観者的な評論家は、それを追求しようともせず、またみずから調査・研究・実験の労をとろうともせず、「水俣病の原因は廃液中の水銀であるかもしれないしそうでないかもしれない。真相は神のみぞ知るのであります」などといってすましている。こうした主張のことを不可知論というのでしたね。

 「この論争にはイデオロギーがからんでおりますから、どちらの考えが現実的かという争いは、しょせん水かけ論争となるでありましょう」なんていう評論家もいます。そういういいかたができるのは、そもそも思考と実践とをきりはなしているかぎりにおいてです。廃液のなかに住む魚をたべて発病したおおくの住民の悲惨な実践、良心的な科学者による調査・分析・実験等々の実践──これらをふまえるかぎり、結論はあきらかなはずです。それをぬきにして議論するならば、もちろんそれははてしない水かけ論争、永遠に結着のつかぬスコラ論議となるほかはないでしょう。

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「社会生活は本質的に実践的である。理論を神秘主義へさそうミステリーのすべては、人間の実践のなかで、またこの実践をとらえるなかで、合理的に解決される。」(第八テーゼ)

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「環境と教育とをかえることについての唯物論的教説は、環境が人間によってかえられるのだということ、教育者自身が教育されねばならないということをわすれている。したがってどうしても、この教説は、社会をふたつの部分──そのうちの一方は社会を超えた高みにある──におけることになる。

 環境の改変と人間の活動、または自己変革とがひとつのことだということは、ただ革命的な実践としてだけとらえられ、合理的に理解されうる。」(第三テーゼ)

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 さて、実践をただしくとらえ位置づけるかどうかということは、人間と人間の社会についてのとらえかたを決定的に左右するものでもあります。「社会生活は本質的に実践的である」からです。「神のみぞ知る」といった神秘主義に人をつれこむ不可知論のミステリーが実践のなかでキレイサッパリ解決されるということについてはすでにのべたところですが、では、人間と人間の社会の問題についてはどうでしょうか。

 人間は環境と教育によって左右されるものであり、したがって人間をかえるためには環境と教育をかえねばならない、と説いたのは、フランス唯物論者のエルベシウス(一七一五年〜一七七一年)でした。空想的社会主義者のロバート・オーエン(一七七一年〜一八五八年)も、この考えかたをうけつぎました。なるほど、これは唯物論的な観点です。しかし、では、その環境をかえるのは、いったいだれでしょう。ほかでもない人間です。かえられるべき古い環境の産物である人間です。──これはちょっとしたミステリーですね。

教育をかえるにしても、そのためには教育者自身がかえられねばならない。エルベシウスやオーエンは、このことを問おうとしません。そして、自分たち哲学者・思想家は、社会のなかにありながら、それから超然として真理を認識できている別格の存在であって、だから社会は自分たちのいうところにしたがえばよいのだ、というのです。

 古い唯物論のもっていた観照的な性格が、ここにはっきりとあらわれています。「生徒は生徒、自分は自分、とはなれて」いる「学校の倫理の先生」の態度、という漱石のことばがおもいあわされるでしょう。「この教説は社会をニつの部分──そのうちの一方は社会を超えた高みにある──にわけることになる」とマルクスがいっているのは、こうしたことをさしています。なるほど、これでは「神秘主義」への誘惑に弱いな、という気がしてきませんか。

事実、空想的社会主義者のサン・シモン(一七六〇年〜一八二五年)やシャルル・フーリエ(一七七二年〜一八三七年)の場合には、このことがはっきりとあらわれました。かれらは、独特の宗教を説いたり──サン・シモンの場合──、奇妙な神秘的空想をほしいままにしたり──フーリエの場合──する予言者としてふるまうにいたったのです。

 「環境の改変と人間の活動、または自己変革とがひとつのことだということは、ただ革命的な実践としてだけとらえられ、合理的に理解されうる」──このようにマルクスは第三テーゼをしめくくっています。自分用の覚え書きですから、ちょっとわかりにくい表現であり、公表にあたってエンゲルスは、「または自己変革」ということばを削除し、「革命的な実践」というところを「変革的な実践」というふうに書きなおしていますが、かみくだいていえば、環境がかわることによってこそ人間もかわるのだということと、人間の活動が環境をかえ、自分自身をもかえるのだということとを、統一してつかまねばならない、というのです。

そして、この統一は、労働、生産、産業という真に変革的・革命的な実践のなかにしめされている、というのです。ほかでもない人間の活動であるそれらの活動が、人間をかえ環境をかえていくのであって、そこにはなんの神秘もありません。この統一はまた、古い社会秩序の打倒という意味での革命的実践のなかにもはっきりとしめされています。

「革命が必要なのは、支配階級を倒すにはそれ以外に方法がないからというだけではなく、倒すほうの階級がただ革命のなかでのみ古い汚れをわが身からぬぐいさって、社会を新しくつくりうる力量を身につけうるようになるからだ」(『ドイツ・イデオロギー』)ということばをかみしめてみましょう。
(高田求著「マルクス主義哲学入門」新日本出版社 p276-281)

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◎「実践をただしくとらえ位置づけるかどうかということは、人間と人間の社会についてのとらえかたを決定的に左右するもの」と。