学習通信060323
◎社会を変革する最も有力な手段……

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 旧式の教育をつづけることはできません。新式の教育が必要です。ブルジョアジーは道徳教育を重視しています。ブルジョアジーは国際道徳教育会議をひらいています。これがはじまったのはまだ戦前でしたが、現在ではこの会議はとくに重視されています。

 これらの会議で論議されたのは、ブルジョア的道徳の規範をつくる問題、ブルジョアジーお気にいりの精神で個性を発展させる問題でした。

 マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』において、永遠の道徳・個性にかんするこうした論議の下心をみごとにあばきだしました。かれらは、道徳の崩壊とか個性の崩壊とかいう嘆息によって、ブルジョアジーが労働者階級の注意を階級矛盾の自覚から、階級闘争からひきはなそうとやっきになってきたことを指摘しています。エンゲルスはすでに初期の著作のなかで、資本主義社会の体内で賃労働者階級がうまれるが、この労働者階級のところでは労働の諸条件および全環境の影響で新しい高度なモラル、集団主義的、共産主義的道徳がしあげられていくということを、比類なくはっきりと示しています。

 資本主義諸国のプロレタリアートは、つぎの世代をプロレタリアートの精神で教育するという点で、学校をつうじて影響力を行使することはほんとにわずかしかできません。学校は──支配階級の手中に、ブルジョアジーの手中ににぎられているからです。

 だがプロレタリアートは、おのれの教育理論をもっています。その基礎はマルクスによってきずかれています。イギリスにおける工場制児童労働を研究し、ベラーズやロバート・オーウェンが考え、実行したことを調査して、マルクスは教育と生産労働との結合の必然性を基礎づけ、擁護するようになりました。マルクスはこういっています。

「くわしくはロバート・オーウェンを研究すればわかることだが、将来の教育──社会的生産を増大するための一方法としてのみならず、全面的に発達した人間を生産するための唯一の方法として、特定の年齢以上のすべての児童のために生産的労働を知育および体育と結びつけるであろうところの将来の教育──の萌芽は、エ場制度から発生したのである」。

 マルクスがこのような型の教育をどれほど重視していたかは、『ゴータ綱領批判』からも明らかです。そこでマルクスは「少年時代から生産的労働と教育とを結合することは、今日の社会を変革するもっとも強力な手段の一つである」とかいています。

 マルクスはこうした教育方法の性格をも指摘しました。大工業生産の発展傾向を分析して、マルクスは全面的な総合技術教育の必要を指摘しているのです。

 大工業生産の発展は、ブルジョア的学校を総合技術教育の方向に刺激しますが、しかしブルジーアジーは、この教育がおのれの支配にとどめをさすことになるということを理解しています。だからブルジョアジーは、いぜんとしてこれまでの型の学校を維持せざるをえないのです。労働者が権力をにぎって、はじめて、総合技術教育を実施することができるようになります……
(クルスプカヤ著「家庭教育論」青木書店 p42-44)

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 ブルジョアが失うのを惜しんでいるこの教養とは、大多数の人間にとっては、機械に仕上げられる教育なのだ。

 だが、自由、教養、法などについての諸君のブルジョア的観念を尺度にしてブルジョア的所有の廃止をはかるというやり方で、われわれに論争をしかけるのはやめてくれたまえ。諸君の観念そのものがブルジョア的な生産諸関係や所有諸関係の産物なのだ。同様に、諸君の法も、諸君の階級の意志を法律に高めたものにすぎず、その意志の内容は、諸君の階級の物質的生活条件のうちに与えられているのだ。

 諸君の生産諸関係や所有諸関係は生産の進歩につれて過ぎさってゆく歴史的関係であるのに、それを永遠の自然法則や理性法則に仕立てあげる利己的な考え方、これは、諸君ばかりでなく、過去に没落したすべでの支配階級が共通にもっていたものである。諸君が古代の所有について理解していること、封建的所有について理解していることを、ブルジョア的所有となると、もう諸君は理解できないのである。

 家族の廃止! どんなに急進的な人でも、共産主義者のこういう恥しらずな意図には憤激する。

 現在の家族、ブルジョア的家族はなにをもとにしているか? 資本を、私的営利をもとにしている。完全に発展した形では、この家族は、ブルジョアジーにとってしか存在していない。そして、プロレタリアのよぎなくされた無家庭と公認の売春とがその補足物となっている。

 こういう補足物がなくなるのといっしょに、当然、ブルジョアの家族もなくなる。そして、この両者は、資本が消滅するとともに消滅する。

 諸君は、親が子供を搾取するのをやめさせようとしているというので、われわれを非難するのか? われわれはそういう罪をおかしていることを認める。

 だが、と諸君は言う、君たち共産主義者が家庭教育を廃止して社会教育と代えるのは、最も親密な関係を廃止するものである、と。

 でも、そういう諸君の教育も、やはり社会によって決定されてはいないだろうか? 諸君が教育を施すその社会的諸関係によって、学校などをつうじておこなわれる社会の直接、間接の干渉によって、決定されてはいないだろうか? 社会が教育にはたらきかけるのは、なにも共産主義者が発明したことではない。共産主義者は、ただこのはたらきかけの性格を変えるだけである。ただ教育を支配階級の影響からひきはなすだけである。
(「共産党宣言」ME8巻選集A 大月書店 p82-83)

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 もう十分だ! 半ブルジョアのアリソンは、狭い視野からの表現の仕方ではあるけれども、労働者の道徳的発達にたいする大都市の悪い結果を、われわれにもらしている。もう一人の、完全なブルジョアで反穀物法同盟のお気にいりの男、アンドリュー・ユーア博士は、別の側面をもらしている。

彼は、大都市における生活は労働者のあいだの陰謀を容易にし、大衆に力を与えている、とのべている。こういうところで、労働者が教育をうけない(つまり、ブルジョアジーにたいする服従を教えこまれない)ならば、彼らは物事を一面的に、悪意のこもった利己心の視点から見て、抜け目のない煽動家にすぐ誘惑される──いや、彼らは、自分たちの最大の恩人であり、質素で企業心にとむ有能な資本家を、ねたみ深い敵意をこめた目で見ることもあるであろう。ここではよい教育だけが助けになるのだが、それがなければ、国民的破産や、そのほかの恐ろしい事態がつづくに違いない。

なぜなら、よい教育がなければ労働者の革命が不可避だからである。そしてわがブルジョアが恐ろしがっているのも、まったく当然なのだ。

人口の集中は有産階級に刺激を与え、発展させるという作用をするが、それは同様に労働者の発展をもさらにいっそう急速にすすめる。労働者は自分たち全体を階級として自覚しはじめ、一人ひとりでは弱いけれども、集まれば一つの力になるということに気づく。

ブルジョアジーに頼らず、労働者とその社会的地位に固有の見方や観念がつくりあげられるようになり、抑圧されているという意識が生まれ、労働者は社会的、政治的重要性を獲得する。

大都市は労働運動の発生地であり、そこで労働者は、はじめて自分たちの状態についてふかく考えるようになり、その状態とたたかいはじめたのである。

大都市においてプロレタリアートとブルジョアジーとの対立がはじめてあらわれ、そこから労働者の団結、チャーティズム、社会主義が出発したのである。

大都市は、農村では慢性的な形であらわれていた社会という身体の病気を、急性のものに変え、それによってこの病気に固有の本質と、それとともに、それを治療する正しい方法とを、あきらかにした。

大都市と、社会全体の知性の発展をおしすすめる大都市の影響がなければ、労働者は今日の状態まで、なかなか到達しなかったであろう。

さらに大都市は労働者と雇用主とのあいだの家父長的関係の最後の痕跡をも破壊し、また大工業は、ただ一人のブルジョアに頼っている労働者の数を何倍にもふやして、その破壊を助けた。

ブルジョアジーは、もちろん、このことを嘆いている。それは当然のことである──なぜなら、こういう家父長的関係のもとでは、ブルジョアは労働者の反抗をうける心配はまずなかったからである。

彼は労働者を思う存分搾取し、支配することができたし、また彼らに賃金のほかに、なにも費用のかからないいくらかの親切と、おそらく若干のわずかな利益を与えてやれば、おろかな民衆から服従と感謝と愛着とを、おまけとしてうけとることができた──これらはすべて、純粋な、必要以上の、犠牲的な温情からでているように見えるけれども、じつはブルジョアの義務の十分の一にもはるかにおよばないのである。

ブルジョアは個人としては、自分でつくりだしたのではない関係のなかにおかれているのだから、その義務の少なくとも一部をはたしたことになるのだが、しかし支配階級の一員としては、支配をしているということだけによっても全国民の状態に責任を負い、みんなの利益の保護をひきうけているにもかかわらず、その地位とともにひきうけたことをまったくおこなわず、そのうえさらに自分自身の個人的利益のために全国民を搾取しているのである。

家父長制的な関係は労働者の奴隷状態を偽善によって隠しており、そこでは労働者は精神的には死んでおり、自分自身の利益についてはなにも知らず、たんなる一個人にとどまっていなければならなかった。

彼が自分の雇主から距離をおいたときにはじめて、彼が雇主とは私的な利益によってのみ、金もうけによってのみ、結びついているのだということがあきらかになったとき、ほんのわずかないざこざでもあればくずれてしまうような見かけだけの愛着が完全になくなってしまったとき、そのときはじめて、労働者は自分の地位と自分の利益について認識し、自主的に発展しはじめるのである。

そのときはじめて、労働者はその考え方、感情、意思表示においてブルジョアジーの奴隷ではなくなるのだ。そしてこれらの点では、大規模な工業と大都市の影響が大きいのである。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 上」新日本出版社 p186-188)

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 「児童労働の禁止!」ここでは年齢の限界を明記することが絶対に必要であった。

 児童労働の全般的禁止は大工業の存在と両立できない。だから、それは、空疎な、かなわぬ望みである。

 それを実施することは──よしんばできるとしても──反動的であろう。なぜなら、種々な年齢の段階におうじて労働時間を厳格に規制し、またその他の児童保護の予防手段を実行しさえすれば、少年時代から生産的労働と教育とを結合することは、今日の社会を変革する最も有力な手段の一つであるからである。
(マルクス著「ゴータ綱領草案批判」ME八巻選集D 大月書店 P248)

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◎「労働者が権力をにぎって、はじめて、総合技術教育を実施することができるように」と。