学習通信060324
◎地球全体の規模……

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映画『ダーウィンの悪夢』
【解説】「適者生存」の悪夢

 ビクトリア湖畔の町ムワンザ(タンザニア)には、毎日大型の輸送機が発着する。湖で獲れるナイルパーチの切り身が大量に輸出されているからだ。町には魚の加工工場があるが、湖畔の住民の生活は荒廃している。男たちは酒を飲み、女たちは町に売春に行き、エイズが広まっている。放り出された子供たちは、路上で厳しいサバイバルの日々を送る。その上を威圧するように飛来する輸送機は、実は往路ではアフリカの紛争地向けの武器を運んでくる……。

 肉食魚のパーチは他の魚を食い尽くし、豊かだった湖の生態系を破壊した。ところがこの魚の白身は「北」の国々への輸出品になる。そこで工場ができ、産業システムがもち込まれて雇用が生まれ、企業主たちはグローバル市場に参入して利益をうる。工場には衛生の国際基準も導入されるが、周囲にはそんなものとは無縁の貧困と荒廃が、抜け出るすべのない奈落のように広がっている。「北」の国々はその泥沼からさえ利益をあげる仕組みを作り上げ、荒廃が生み出す戦場に武器を売り込み、得体の知れない食品を援助物資としてさばく。輸送機はだから、まるでナイルパーチのように「南」の人びとの生存環境を破壊して繁殖する、グローバル化の黒い天使だ。だが、ロシアのパイロットもこのメカニズムから自由ではなく、娼婦のエリザも夜警のラファエルも、グローバル化の波打ち際にできた奈落で、誰ひとりあの「適者生存」という悪夢のような法則から逃れられずにいる。

 美しいとさえ言える、ときに情感のこもった静かな映像で、アフリカの一隅に露呈するグローバリゼーションの構造を、衝撃的な絵解きのように描き出した映画『ダーウィンの悪夢』は二〇〇四年末にヨーロッパで公開された直後から一部で評判を呼んでいた。この映画をフランスで観た筆者は、ぜひこれを日本でも上映したいと考え、東京外国語大学大学院・国際協力講座で監督を招いての映画上映と討論会を行うことを企画した。折よくこの映画は山形国際ドキュメンタリー映画祭に出品されザウパー監督の快諾と、映画祭事務局の協力で企画は実現することになった。

 「グローバル化と奈落の夢」(一〇月一四、一五日)と題した東京外大での企画の全体は、上映+討論+ワークショップからなっていた。討論は、ザウパー監督にできるだけ多く語ってもらうため、司会者の提題を含めた質問に答えてもらう形をとった。ここに掲載されたのは、ザウパー監督の発言部分を主にして本誌編集部が整理したものである。ワークショップは、この夏『アフリカ・ゼロ年』四回シリーズを制作放映したNHKスペシャルのアフリカ取材班メンバーを招いて行ったが、それも含めた今回の企画の全記録は、他の催しの記録とともに国際協力講座編で来春まとめられる予定である。

 なお、『ダーウィンの悪夢』は山形映画祭で審査員特別賞とコミュニティー・シネマ賞を受け、二〇〇六年夏に日本公開が予定されている。
(西谷修・東京外国語大学大学院教授)

(月刊「世界」06年1月号 p239)

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 第一一問。
産業革命およびブルジョアとプロレタリアヘの社会の分裂のさしあたっての結果はなんであったか?

 答──
 第一に、世界のすべての国々において機械労働の結果としてますます安価になる工業生産物の価格によって、マニュファクチュアすなわち手労働にもとづく工業の古い制度は、まったく破壊された。

これまで多かれ少なかれ歴史的発展に無縁のままであって、その工業がこれまでマニュファクチュアにもとづいていたすべての半未開諸国は、これによってむりやりにその鎖国状態から引き出された。

それらの国々は、イギリス人のいっそう安価な商品を買って、自国のマニュファクチュア労働者を没落させた。そこで、数千年以来なんら進歩しなかった国々、たとえばインドは、完全に変革され、中国でさえもいまや革命に近づいているのである。

こんにちイギリスで発明される新しい機械が、一年以内に数百万の中国の労働者からパンを奪うということになった。

このようにして、大工業は地球のすべての国民を互いに結びつけ、すべての小さな地方市場を世界市場に投げ集め、いたるところで文明および進歩を準備して、文明諸国で起こるすべてのことが、他のすべての国々に反作用せざるをえないところにまでいたった。

そこで、いまイギリスまたはフランスで労働者が自分を解放するならば、それは他のすべての国々に革命を引き起こさざるをえず、その革命はおそかれはやかれ、同様にそれらの国々の労働者の解放をもたらすのである。
(エンゲルス著「共産主義の諸原理」新日本出版社 p120-121)

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 南北問題──資本主義は、人類の全体に未来を示す力をもっていない

 二番目は、南北問題です。国際的な会議が開かれるごとに、南の世界──アジア・中東・アフリカ・ラテンアメリカに貧困が広がっていることが、議論になります。いま世界が直面している最大の問題の一つだとされています。

 しかし、南北問題といっても、「南」の世界は、最近にわかに生まれたというわけではありません。だいたい、人類の祖先は、南の世界・アフリカでサルから分かれ、人間として二本足で歩きだして、全世界に広がって行ったのでした。われわれの祖先も、シベリア経由で、日本列島にまできたのですし、もっと先に行った集団は、べーリング海峡を通ってアメリカ大陸に渡り、南アメリカの南端まで進んだのです(これは「グレート・ジャーニー〔偉大な旅〕」と呼ばれます)。

 しかし、資本主義の以前には、「南北問題」が地球上の大問題となるということはありませんでした。経済や文化の発達の度合いの高い低いの違いはあり、原始的な状態を残している地方もありましたが、どこでも人間はその地方の発展の状態に応じた生活をしていました。その状態をくつがえしたのは、資本主義が、「生産のための生産」を旗印に、その支配の手を地球の全域に広げていったことです。

 ヨーロッパで発展した資本主義が、西方では、アメリカ大陸に渡ります。そこで労働力が足りないとなると、アフリカの黒人を大量に連れていって、奴隷にしました。

 東の方では、アフリカ、中東、アジアなど、自分の前に現われる国ぐにを、片端から資本主義の網の目のなかに引き込みました。しかし、対等の独立した隣人として引き込み、資本主義の経済が発展するように援助をするというのではありません。その地方を自分が支配する植民地や従属国にして、本国の資本主義の利益のために、労働力や資源を奪い取る、という引き込み方です。

ここにはダイヤモンドが出る、あそこではマンガンやクロムが出るとなると、それを自分のものにしてしまう。農業でも、それまではどこでも、自分たちが食べるものをつくる農業でしたが、それをココア、コーヒー、さとうきびなど、本国が必要とする割当作物をつくる農園農業に変えてしまう。こういうことをずっとやってきたのです。

 どの地方でも、資本主義が侵入する前は、自分の生活様式で、自分たちなりに生きていました。その人びとが、資本主義の網の目に引き込まれた結果、これまでの生活の基盤を根こそぎ破壊されてしまった。しかし、侵入した資本主義が、それに代わる発展の道を用意したのかというと、それは何も与えないままでした。

 第二次世界大戦のあと、民族独立の気運が世界的に高まるなか、アジア、中東、アフリカ、ラテンアメリカの国ぐには、次つぎと民族の独立をかちとりました。いまでは、植民地は、地球上にほとんどなくなりました。国の形からいえば、地球上の圧倒的多数の国が、政治的には独立国です。国連の加盟国の数は、先日のスイスの加盟で百九十ヵ国になりました。国連結成当時の約四倍という勘定になりますが、この間に加盟した国の大部分が、大戦前の植民地・従属国で戦後独立をかちとったという国ぐにです。

 しかし、経済の状態はどうかというと、独立した発展のための基盤がないのです。資本主義は、こういう国ぐにを資本主義の網の目のなかに引き込んで、古い経済体制を壊し、資源や労働力を略奪する、ということはやりましたが、それに代わる経済発展の新しい道を保障することはやりませんでした。日本は、百数十年前に、あわや植民地化というきわどいところをくぐりぬけながら、独立した資本主義国としての発展をとげたわけですが、これは、資本主義の世界的な拡大の歴史のなかでは、ほとんど例外的なことでした。

 戦後の世界では、政治的な独立とあわせて、経済的な発展にも成功した国ぐにがありますが、それはアジア、中東、アフリカ、ラテンアメリカの広大な全体のなかでは、やはりごく一部にすぎません。

 「発展途上国」という言葉があります。これは、いまはまだ遅れているが、時間さえかければ、やがて資本主義国として発展した状態にすすめるはずだ、いまはその「途上」にあるのだ、という思いでつけられた言葉でしょうが、現実は、「発展」の「途上」などという言葉でまとめられるものではありません。国連などの経済統計を見ても、多くの国では、時間の経過とともに、その状態が悪化してさえいます。

 この問題では、資本主義が負うべき責任は、きわめて重大です。「南」の世界を、本国の資本主義の利益のために利用しつくし、そのために旧来の経済生活を破壊しておきながら、それに代わる経済的な発展の道を保障することなく、貧困と悲惨の悲劇的な状況のままに放置しているのですから。資本主義が、この問題を解決する力をもたないとしたら、それは、資本主義という体制が、世界の全体、人類の全体にたいしては、未来を示す力をもたない体制だということの、何よりの証明ではないでしょうか。

 イスラム世界の問題でも、根底には「南」の貧困という問題があります。だから、アメリカでも、心ある人びとは、テロ問題の解決のためにも「南」の貧困の問題の解決を、という声をあげています。

 ここに、二十一世紀の大問題があります。

 世界の総人口は、一九九九年で五十九億七千八百万人、約六十億人です。そのなかで、資本主義世界の中枢に位置するいわゆるサミット七ヵ国の人口は八億三千五百万人です。世界の大勢は資本主義だというけれども、それが高度に発達した国ぐに、サミットに顔をだすような国ぐには、六十億人からなる世界のなかで、八億三千五百万人をしめるにすぎないのです。

そのまわりには、高度に発達した資本主義国でもサミットには参加していない国もあれば、中程度の発達という国もあるでしょう。また、社会主義をめざして新しい発展の道にとりくんでいる国ぐにも、人口で十三億を超えています。

しかし、六十億の世界人口の半分以上をしめる国ぐにが、主権国家として、国際政治で大きな発言権をもちながら、経済的には、いまの資本主義のままでは活路を見いだせない、そういう状態におかれています。これは、資本主義が、地球全体の規模では、経済的統治能力をもたないということの、厳然たる現われにほかなりません。そしていま、そのことに多くの人が気づきつつあるのです。
(不破哲三著「二つの世紀と日本共産党」新日本出版社 162-166)

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◎「大工業は地球のすべての国民を互いに結びつけ、すべての小さな地方市場を世界市場に投げ集め、いたるところで文明および進歩を準備して、文明諸国で起こるすべてのことが、他のすべての国々に反作用せざるをえないところにまでいたった」と。