学習通信060327
◎全面的に発展した素質……

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第二〇問。
私的所有の最終的除去の諸結果はなんであろうか?

答……
 社会が、生産諸力および交易手段全体の利用ならびに生産物の交換および分配を私的資本家たちの手から奪い取って、現存の諸手段および全社会の需要から生ずる一つの計画にしたがって管理することによって、なによりもまず、いまなお大工業の経営と結びついているすべての良くない結果が除去される。

恐慌はなくなり、社会の現在の秩序にとっては過剰生産であり、また窮乏の非常に有力な原因である拡張された生産は、こうしてすこしも十分ではなくなって、なおはるかにいっそう拡張されなければならないであろう。

社会の当面の欲望を超える過剰生産は、窮乏を引き起こす代わりに、万人の欲望の充足を保障し、新しい欲望と同時にこれを満たすべき手段を生みだすであろう。

それは、新しい進歩の条件および動機であろうし、これまでそのつどそうであったように、これによって社会秩序を混乱させることなしに、この進歩をなしとげるであろう。

大工業は、私的所有の圧迫から解放されると、拡張して発展するであろうが、これに比べると、いまのその発達は、マニュファクチュアがこんにちの大工業に比べてそうであるのと同じように、小さく見えるのである。

産業のこの発展は、万人の欲望を満たすのに十分な量の生産物を社会の意のままにさせるであろう。

同様に、私的所有および〔土地の〕分割の圧迫によっても、すでになされた改良および科学的発展を取り入れることがさまたげられる農業も、まったく新しい飛躍をとげて、完全に十分な量の生産物を社会の意のままにさせるであろう。

このようにして、社会は、全成員の欲望が満たされるほどに分配をととのえうるのに十分な生産物をつくりだすであろう。社会の互いに対立する種々の階級への分裂は、これとともに不必要になる。

しかし、それは不必要になるだけではなく、新しい社会秩序と両立しないものですらある。階級の存在は分業から生じたのであり、そして分業はこれまでの様式においては、完全に廃止されるのである。

というのは、工業生産および農業生産を上述の高さに引き上げるためには、機械的および化学的手段だけでは十分ではなく、これらの手段を動かす人間の諸能力も同様に、それに応じて発展させられていなければならないからである。

前世紀の農民およびマニュファクチュア労働者が、大工業に引きずりこまれたとき、その生活様式全体を変えて、みずからまったく別の人間になったのとまったく同じように、社会全体による生産の共同経営およびそれから生ずる生産の新しい発展は、まったく別の人間を必要とし、またそれを生みだしもするであろう。

生産の共同経営は、各人がただ一つの生産部門に従属し、それにつながれ、それによって搾取されるこんにちの人間、また各人が他のすべての素質を犠牲にして一つの素質だけを発展させ、全生産の一つの部門だけ、あるいは一部門のなかの部門だけしか知らないこんにちの人間のような人間によっては、行なうことはできない。

すでにいまの産業が、このような人間を必要とすることがますますありえないのである。いわんや、社会全体によって共同に、かつ計画的に経営される産業は、なおさら、素質が全面的に発展した、生産の体系全体を見通すことのできる人間を前提としている。

それゆえ、一人を農民に、もう一人を靴屋に、第三のものを工場労働者に、第四のものを相場師にするという、すでにいま機械によって掘りくずされている分業は、完全に消滅するであろう。

教育は若い人々に生産の全体系を急速に経験させることができ、彼らに、社会の需要または彼ら自身の好みがそうさせるのに応じて、一つの生産部門から他の生産部門へと順々に移ってゆくことができるようにするであろう。

こうして、教育は彼らから、こんにちの分業が各個人に押しつけている一面的な性格を取りのぞくであろう。このようにして、共産主義的に組織された社会は、その成員に、彼らの全面的に発展した素質を全面的に実証する機会を与えるであろう。しかし、これとともに、種々の階級もまた必然的に消滅する。

したがって、共産主義的に組織された社会は、一方では、階級の存続と両立せず、他方では、この社会の樹立そのものが、これらの階級差別を廃止する手段を提供するのである。

 ここから、都市と農村とのあいだの対立も同様に消滅するであろうということが出てくる。二つの異なった階級による代わりに、同一の人間による無業および工業の経営は、すでにまったく物質的な理由から、共産主義的な連合体の必要不可欠な条件である。農村における農業人口の分散は、大都市における工業人口の密集とならんで、農業および工業のまだ未発展の段階に照応する状態であり、現在すでにいちじるしく感じられるようになっている今後いっそうのあらゆる発展の障害である。


 生産諸力の共同的かつ計画的利用のためのすべての社会成員の全般的な連合体、万人の欲望を満たせるような程度の生産の拡張、一人の欲望が他人を犠牲として満たされる状態の廃絶、諸階級およびそれらの対立の完全な破壊、従来の分業の除去による、産業教育による、仕事の交替による、万人によってつくりだされた楽しみへの万人の参加による、都市と農村の融合による、社会のすべての成員の諸能力の全面的発展──これが私的所有の廃止の主要な諸結果である。
(エンゲルス著「共産主義の原理」新日本出版社 p135-139)

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社会のルールが自治的、自覚的にまもられる時代がくる

 階級がなくなっても、国家がすぐにはなくならず、長期にわたる死滅の過程が必要になるのは、なぜか。

 社会主義・共産主義の社会でも、社会を維持してゆくためには、一定のルールが必要であり、最初の段階では、このルールを維持するために、国家という強制力が必要になります。国際関係を別とすれば、共同社会が成熟して、強制力をもった国家の後ろだてがなくても、社会的ルールが守られるような社会に発展する、ルールが社会に定着して、みんなの良識でそれが守られる、そういう段階にすすめば、国家はだんだん死滅してゆくだろう、マルクスがたてたのは、こういう見通しでした。

 いったいそんな社会が可能だろうか。私は、その一つの実例として、日本共産党という社会≠あげてみたい、と思います。これは、四十万人からなる小さい規模ですが、ともかく一つの社会≠構成しています。そして、規約という形で、この社会≠フルールを決めています。そこには、指導機関とか規律委員会などの組織はありますが、国家にあたるもの、物理的な強制力をもった権力はいっさいありません。この社会≠ナルールが守られているのは、この社会≠フ構成員が、自主的な規律を自覚的な形で身につけているからです。ルール違反があれば、処分をうけますが、その処分も、強制力で押しつけるものではありません。

 強制力をぬきにして、ルールが自治的なやり方で、守られているのです。

 同じことは、集合住宅の自治会や、地域の自治会などの活動についても、いえるでしょう。そこで、ルールが守られるというのは、ルールを守ることが、その小社会を維持するために必要だということをお互いに自覚しあっているからです。ここでも、自治的なやり方で社会のルールは維持されます。

 国家の死滅ということは、ルールなき社会、無政府的な社会になることではありません。国の権力によるルールの維持ではなく、ルールが自治的、自覚的に守られる社会に発展すること、これが、私たちが将来の目標としている「国家権力そのものが不必要になる社会」なのです。

 古典家たちは、そういう展望が人間社会のどういう発展によって現実のものになるかについて、いろいろな考察をおこなっています。なかでも、彼らが重視したことは、社会の新しい条件が新しい人間を生む、ということでした。

社会主義的変革がおこなわれてから幾世代もたって、搾取という制度があったことも、人間が人間を抑圧するという無法があったことも、昔話になるような時代になりますと、社会像についての単純な予想はもちろんできないことですが、人間そのものの新しい成長・発展があることは、まちがいないでしょう。先輩たちは、そういうことを全部ふくめて、国家のない社会を展望したわけです。

 岡村さんから質問のあった、「搾取も抑圧も知らない世代が多数を占めるようになったとき」という文章は、新しい社会が生まれ、しかも一連の世代交代をふくむ一定の歴史をへた段階だということを表現する文章として読んでほしい、と思います。
(不破哲三著「報告集 日本共産党綱領 ──第七回中央委員会総会 質問・意見に答える──」日本共産党中央委員会出版局 p167-169)

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 現在、多くの人びとが、ソ連崩壊を根拠に社会主義を否定する向きに立っていますが、マルクスにたいする評価には依然としてたいへん高いものがあります。社会や自然の発展法則についてのマルクスの見解のかなりの部分が、いまでは、社会の常識になっているということもできるでしょう。ですから、われわれがマルクスを研究することは、非常に重要な意義があります。

私は、マルクス主義者の任務は、新しい情勢に適応し、新たな事態に対応して、新たな創造を切り開いてゆくように努力することにある、と思います。私たちは、古典の学習、とくに『資本論』の学習をたいへん重視しています。私たちの手法は、歴史(つまりマルクスがおかれていた歴史的環境)に照らし合わせながら、学習と研究を進める、というやり方です。

学習のなかで、私たちは、次のニつの重要な観点をつらぬいています。

──第一に、古典の著作がどのような歴史的背景のもとで書かれたものなのか、どのような目的のために書かれ、誰のために書かれたものなのか、ということです。マルクスがおかれていた時代にくらべれば、私たちの時代はより発展したものになっています。歴史の発展をふまえて分析すべきなのです。

第二は、マルクスの思想そのものも、不断の発展の歴史を持っていた、ということです。彼が用いた共産主義という目標の定義そのものも発展し続けています。たとえば、『共産党宣言』のなかでは、彼は共産主義の意義は私有制の廃止にあると指摘しています。この解釈法はマルクスが編み出したものではありません。マルクス以前の人が提起したものでした。当時、マルクス、エンゲルスが〔内容の面で〕重視したことは、生産手段を社会に移すことでしたが、生活手段をどう扱うかについてまでは十分に留意していませんでした。

共産主義は個人の財産を没収しようとしているという攻撃にたいして『共産党宣言』は、プロレタリアートは何の財産も持ってはいないと、反論しています。その二十年ほど後に書いた『資本論』では、生産手段は社会の手に移行しなければならないが、生活手段は個人によって所有されるべきものだと書かれています。ここから、社会主義の目標を表現した言葉としていま広く使われている「生産手段の社会化」という定式が生まれたのです。

現在、マルクスの学説の発展の過程は、マルクスやエンゲルスの著作や草稿のなかに見出すことができますし、また彼らには多くの未完成の著作もありますから、私たちは、マルクス主義の学説の発展の脈絡を把握する努力をいまも続けています。

 わが党は、科学的社会主義を党の理論的基礎とすると明確に規定しています。世界観について言えば、もちろん、マルクス主義が私たちの世界観です。この世界観を若い人たちに教えようとする時には、私たちは「科学の目」という言い方を使って、世界を「科学の目」で見ようではないか、と言ったりします。

 私たちは、この思想は、将来、社会のより多くの人びとの共通の世界観となるだろうことを確信しています。それは、この世界観が、真理と道理の力によって、次第に多くの人びとのあいだに広がってゆくであろうという見通しを持っているからです。
(不破哲三著「二一世紀の世界と社会主義 ──〔資料〕不破哲三日本共産党議長へのインタビュー 中国『当代世界』誌」新日本出版社 p223-224)
 
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◎「社会の新しい条件が新しい人間を生む……社会主義的変革がおこなわれてから幾世代もたって、搾取という制度があったことも、人間が人間を抑圧するという無法があったことも、昔話になるような時代……社会像についての単純な予想はもちろんできない(が)……人間そのものの新しい成長・発展がある」と。