学習通信060404
◎所得格差…学力格差…階層格差が固定化し

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 一般にこの報告は、工業のすべての部門に、工場制度が徐々に、しかし確実に、侵入してきていることをしめしており、それはとくに、女性と子どもが雇われるようになっていることであきらかとなる。

私は、いたるところで機械化がすすみ、成人男子が追いだされていることを、これ以上追求する必要はないと考えた。

工業というものについて多少とも知っている人なら、この点について自分で補足することは簡単であろうし、また工場制度を論じたさいに、現在の生産組織のこの側面をその諸結果にまでわたって展開したので、ここで個別的に追求する余裕は、私にはない。

いたるところで機械が用いられ、そのため、労働者の自立性はあとかたもなく消されていく。いたるところで、妻や子どもが働きにでることによって家庭は解体し、あるいは夫が失業して立場が逆になる。

いたるところで、機械の利用が不可避となって、営業と、それとともに労働者を、大資本家の手にひきわたしていく。

所有の集中は休みなくすすみ、大資本家と無産の労働者とへの社会の分裂は、日ごとに先鋭化し、この国の工業の発展は避けることのできない危機へむかって急進にすすんでいく。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 下」新日本出版社 p35-36)

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 階層格差が広がっているという。所得格差が広がり、そのために学力格差が広がり、結果、階層格差が固定化し、流動性を失っている。あるいは「希望格差」も拡大している。こうした説が、ここ数年、多数発表された。

 それは、日本が今までのような「中流社会」から「下流社会」に向かうということである。もちろん「下流社会」とは私の造語だ。

「中流化」から「下流化」へ

 中流社会は、戦後の日本では、1950年代後半から1970年代前半にかけての高度経済成長期に発展した。あとで詳しく述べるが、50年代までの日本は、わずかな「上」(=働かなくても豊かなお金持ち、資本家、地主など)と、たくさんの「下」(=働いても働いても豊かになれない貧乏人)からなる「階級社会」だった。

 それが高度成長によって、いわゆる「新中間層」という階層が増加した。つまり、主としてサラリーマンであり、財産は特に持たないが、所得が毎年増えて生活水準が向上していくという期待を持つことができる「中」の人々が増えたのだ。特に「下」から「中」に上昇する人が増えた。つまり「下」が「中流化」したのである。

 だが、いま階層格差が広がっているということは、この「中」が減って、「上」と「下」に二極化しているということである。もちろん、二極化といっても「中」から「上」に上昇する人は少なく、「下」に下降する人は多い。つまり「中」が「下流化」しているのである。

 もちろんここで言う「下流」は、「下層」ではない。「下層」というと、これはもう本当に食うや食わずの困窮生活をしている人というイメージがする。たしかにそれに近い困窮世帯も増えているらしい。しかし本書が取り扱う「下流」は、基本的には「中の下」である。食うや食わずとは無縁の生活をしている。しかしやはり「中流」に比べれば何かが足りない。

 たとえば1960年代にテレビがない家庭は中流とは言い難かっただろう。しかし現在は下流でもDVDプレイヤーもパソコンも持っている。単にものの所有という点から見ると下流が絶対的に貧しいわけではない。では「下流」には何が足りないのか。それは意欲である。中流であることに対する意欲のない人、そして中流から降りる人、あるいは落ちる人、それが「下流」だ。

 なお本書では「上流」という言葉も使うが、これもあくまで「中の上」くらいの意味であり、決して金利だけで暮らすことができる大金持ちのことを指しているのではない。

意欲、能力が低いのが「下流」

 では、「下流社会」とはどんな社会か。その具体像を描くには、国民の生活の詳細を知る必要がある。特に、消費や生活のスタイルを知ることが必要だ。

 が、残念ながら、経済学者や社会学者による階層研究には消費論がない。そこで私は、2004年11月と2005年5月と6月に行った独自の調査で、階層意識別の消費行動の違いを分析することにした。本書の第3章以降では、その調査結果について概略を紹介する。そこから見えてくるのは、いわゆる団塊ジュニア世代と呼ばれる現在の30代前半を中心とする若い世代における「下流化」傾向である。

 この世代は人口が多いので、彼らがどのように動くかが、社会や消費の趨勢に影響を与えやすい。ところが後述する私の調査によれば、この世代の、特に男性で、生活水準が「中の下」または「下」だという者が多いのである。

 階層意識は単に所得や資産だけでなく、学歴、職業などによって規定される。しかも自分だけでなく親の所得・資産、学歴、職業なども反映した意識である。しかも興味深いことに、階層意識は、その人の性格、価値観、趣味、幸福感、家族像などとも深く関係していることが調査結果から明らかになっている。

 冒頭の「下流度チェック」も、その調査の結果などを踏まえたものである。その選択肢を見ればわかるように、「下流」とは、単に所得が低いということではない。コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲、つまり総じて人生への意欲が低いのである。その結果として所得が上がらず、未婚のままである確率も高い。そして彼らの中には、だらだら歩き、だらだら生きている者も少なくない。その方が楽だからだ。

 団塊ジュニアは日本の社会が中流社会になってから生まれた初めての世代だ。だから団塊ジュニア以降の世代は著しい貧富の差を見たことがないまま育った。郊外の新興住宅地では、同じような年格好の、同じような年収の人が、同じような家に住み、同じような車に乗っている。みんながそこそこ豊かだ。それが当たり前なのだ。だから、「下」から「中」へ上昇しようという意欲が根本的に低い。「中の中」から「中の上へ」という上昇志向も弱い。「中」から「下」に落ちるかも知れないと考えたこともなく育った。

 山の上に登ろうとするのは、山の上に何か素晴らしいものがあると期待するからで、すでに七合目くらいにいて、しかも山の上に欲しいものなどなく、七合目にもたくさんのものが溢れているとわかったら、誰も山の上まで苦労して登ろうとしなくなるのは道理である。

 ディスカウントストアには、目を疑うような低価格で物が売られている。クラシックの歴史的名盤すら、百円のCDとなって売られている。こんな時代に、努力して働こうと思う方がおかしいとすら言える。だらだら生きても生きられる。

 しかし、この団塊ジュニアを中心とする若者がこれから生きていく社会は、これまでとは違う。同じ会社に勤める同期の人間でも、30歳をすぎれば給料が倍も違ってくる。極端に言えば、わずかのホリエモンと、大量のフリーター、失業者、無業者がいる。社会全体が上昇気流に乗っているときは、個人に上昇意欲がなくても、知らぬ間に上昇できた。しかし、社会全体が上昇をやめたら、上昇する意欲と能力を持つ者だけが上昇し、それがない者は下降していく。

 そういう時代を前にして、若い世代の価値観、生活、消費は今どう変わりつつあるのか。それが本書の最大のテーマである。
(三浦展著「下流社会」光文社新書 p4-9)

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 別の言い方をすれば、私は、日本の企業社会における「横並び志向」とは、もっと根深いものかと思っていたのだが、案外そうでもなかったようだ。「一億総中流」なる幻想はあっさり崩れ、二一世紀の日本は、急速に英国型の階級社会へと向かいつつある。

 さてそれでは、英国の階級社会とは、どのようなものなのか。
 すでに幾多の著作で述べてきたことなので、私自身は「今さら……」という気もするのだが、林信吾の本を読むのは初めてだという人もいるだろうし、ここで予備知識を持っていただかないと、話が先に進まないので、簡単に説明しておく。

 大きく分けると、上流階級、中産階級、そして労働者階級ということになるが、それぞれの階級を区別する基準は単一ではない。

 まず、階級社会の頂点にいるのが国王(現在はエリザベスニ世女王)で、王室をはじめとする貴族階級と、代々の大地主たちが、すなわち上流階級ということになる。

 上流階級と中産階級とを区別する基準は「身分」であって、資産や収入ではない。

 英国は未だ貴族制度が残っている国であるが、それこそ太宰治の『斜陽』ではないけれども、零落して貧乏な生活をしている貴族も結構いる。しかし、彼らは依然として貴族である。

 ただ、もともとの身分は低かったのだが、国家や王室に対する貢献が認められて爵位を授かった、比較的歴史の浅い貴族も多い。このことは、戦前の日本の華族もそうであったということと、併せて指摘しておきたい。

 代々の大地主というのは、古くはジェントリーと呼ばれ、爵位こそ持たないものの、地方の豪族といった立場で王室や貴族に対峙し、英国の歴史の中で大きな役割を果たしてきた。このことから、社会的に名望のある男性をジェントルマンと呼ぶようになったのである。

 一方、中産階級と労働者階級との差異は、収入や資産ももちろん関係してくるのだが、基本的には職業による区分である。

 もう少し具体的に言うと、中産階級の中でもさらに細かい区分がある。

 まず医師や弁護士といった、昔から地位の高い専門職、それに大企業のエグゼクティブや成功した芸術家などが、アッパー・ミドルクラスと定義される。

 次に、高学歴のエリートサラリーマンや、いわゆるキャリア官僚、パイロットや大学教授、中堅以上の自営業者などがミドルクラスである。

 そして、一般的なホワイトカラー、下級公務員(公立学校教師を含む)、自営農民、零細自営業者や職人などは、ロウアー・ミドルクラスと呼ばれる。

 最後にワーキングクラス=労働者階級だが、これは要するに、特別な資格やスキルを必要としない仕事に従事している人たちのことである。

 どういうことかと言うと、たとえばロンドンでは、有名な二階建てバスの運転手はワーキングクラスだが、これまた有名なロンドン・キャブ(タクシー)の運転手はロウアー・ミドルクラスなのである。ロンドンでは、タクシー運転手になるには、道順や法規など、かなりレベルの高い試験に合格せねばならないため、地位が高いのだ。

 同じ建築現場で働いていても、アーキテクト(建策土)はミドルクラスで、カーペンター(大工)やビルダー(内装工事などの職人)はロウアー・ミドルクラス。煉瓦積みなどの下働きをするのはワーキングクラスということになる。

 つまりイギリス英語のワーキングクラスは、日本で言われる労働者階級とは、いささかニュアンスが違うのである。日本では、都心のオフィスで働くサラリーマンが、
「我々労働者は……」
 という言い方をしても、さほど違和感を持たれないが、英国では、そうではない。

 このように、アッパーだのロウアーだのという区分が生じたのは、昔はおおむね、収入格差がその順番通りだったからである。

 さらに、ミドルクラスの大学教授と、ワーキングクラスの非熟練労働者との格差は、年収にして数十倍にもなった。地価も今よりずっと安かったから、大きな家に住んで女中を雇うのが、ミドルクラスのごく一般的な暮らし向きだったのである。

 現在では、このように大きな格差はなくなったが、意識の上では、未だ厳然たる差異が存在する。

 何世代にもわたって格差が固定化されてきたため、自分はどういう階級の出身であるか、ということが、もっとも基本的なアイデンティティになってしまう。

 英国中産階級の子供というのは、
「一人で顔を洗うことと、祖国のために尽くすことと、労働者階級をバカにすることを同時に教え込まれる」

 などと言われるくらいなもので、ミドル以上と位置づけられる階級の人たちは、相当な選民意識を持ち、子供がまだ幼い時から、そうした意識をすり込んでいる。

 そして、たとえ経済的には恵まれていない状態であっても、言い換えれば、相当な無理をしてでも、子供を私立の学校に通わせる。英国でも私立校の学費は相当高いので、銀行ローンの世話になる家庭も少なからずあるわけだが、それでも私立校出身の親は、子供を公立校に通わせようとはしない。それは自分たちの「階級的使命」だと考えているからだ。

 一方で労働者階級はと言えば、
 「労働者の子供は労働者になればよい」
 という考えが根付いており、子供に対しても、勉強してよい学校を出て……といったようなことは、はなから期待していない。子供の側から言えば、義務教育を終えたら労働者として社会に出るものだという人生観を、幼い時からすり込まれている。

 かくして、階級というものが世代を超えて固定化されるのである。
 実際問題として、英国で名門校の代名詞とされるオックスフォード、ケンブリッジ両大学では、今でも学生の過半数が、小学校から私立で教育を受けてきている。今でも、というのは、サッチャー政権が誕生した一九八〇年代以降、高等教育の大衆化がとなえられてきた結果、公立学校出身者にも、こうした名門大学へ進学する機会が拡大されたからだ。つまり昔は、私立校出身者がほぼ全体を占めていたことになる。

 その一方、義務教育終了時点での上級学校進学率は、職業訓練校を含めても七〇パーセントに満たない。今でも英国人の三人に一人は、義務教育を終えただけで社会に出ているのである。

 英国には受験戦争というものがないが、これはとどのつまり、高学歴のエリートになる子は、はじめからそういう家庭に生まれ、そうでない子は大学進学など別世界の話だという、凝然たる階級社会だからなのだ。

 階級社会の問題を考える時、教育システムの問題は非常に重要なので、このことは、もう少し後で詳しく論じるが、ここではまず、階級によって異なるライフスタイルとは具体的にどのようなものなのか、英国社会の実例を見てみよう。
(林信吾著「しのびよるネオ階級社会」平凡社新書 p17-22)

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◎「所有の集中は休みなくすすみ、大資本家と無産の労働者とへの社会の分裂は、日ごとに先鋭化し、この国の工業の発展は避けることのできない危機へむかって急進にすすんでいく」と。