学習通信060411
◎ウィルトシャ・アウトレイジ(暴行)……
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世界最初の工場制度発祥の地
イギリスにおける産業革命は、一八世紀後半に綿糸紡績における工場制度の成立とその後の急速な普及によって開始された。ここでは、一八世紀後半から一九世紀初期の産業革命初期における繊維産業の重要な産業遺産をもとに、当時の工場制度、労働者のおかれた実態にふれたい。
@刑務所おもわせる工場、倉庫
産業革命の画期となったリチャード・アークライト(一七三二〜九二)の最初の綿紡績工場がイングランド中部ダービシャー県の寒村クロムフォードに、ストラットとニードの出資を得て建設されたのは、一七七一年であった。クロムフォードは県のほぼ中央に位置し、ウィリアム・リーが発明した靴下編機による、靴下産業の中心地ノッチンガムやダービーに近かった。
工場は、暴徒の襲撃と産業スパイから紡績機械の秘密を守るために、刑務所の建物を連想させる倉庫(小さな窓は銃眼として利用しようとしたといわれている)と堅固な門で囲われた。
アークライトは、新聞広告で時計職人、鋳物師、機械職人を雇い入れ、綿から糸になるまでの全ての操作を機械(打綿機、そめん機、練条機、粗紡機、スロッスル精紡機の一連の紡機)で行う体系を作り上げた。そして全ての機械を一台の水車で駆動する、五階建綿糸紡績工場、クロムフォード・ミルを建設した。マルクスは「理髪師アークライトが経糸用精紡機を……発明した」「アークライトのスロッスル紡績工場は、最初から水力で動かされた」と述べている。
理髪師であったアークライトが、生まれ故郷ランカシャーのプレストンを離れ、この地に工場を建てた理由は、次のように考えられている。
第一の理由は、彼が発明したスロッスル精紡機で製造した糸は切断強度が大で靴下編機用原糸に適していたから、靴下産業の中心地ノッチンガム市やダービー市で自分の糸の需要が見こまれたためであった。
第二の理由は、イングランドの脊梁山脈であるペンニン山脈の東側に沿い、北から南に流れるダーウェント川に近いクロムフォードは、水車を回す水が豊富に得られたことであった。水車用水は、ダーウェント川の水を直接取水せず、近くの鉛鉱山の排水と、後にダーウェント川の支流ボンソール川の水を利用した。
第三の理由は、安価で豊富な女性と児童の労働力を確保するためであった。
アークライトは機械製造の職人と女性と児童を労働者として雇い入れるために、一七七一年こ一月一〇日付「ダービー・マーキュリー」紙に、次のような求人広告を出した。
綿工場、クロムフォード
ー七七一年一二月一〇日
急募
時計製造職人または歯車とピニオンについて熟練している者二名。鋳造と鑢(やすり)仕上げができる鍛冶職人。
同じく車輪製造、ボビン製造に習然したロクロ職人二名。よい仕事ができ、近在に居住し当工場の専属となれる織布職人。
上記の工場では、女性と子ども、その他を高給で雇う。
応募者はクロムフォード・ミルのアークライト会社あるいはダービーのストラットまで連絡せよ。
世界最初の紡績工場の機械を製作したのは、マニュフアクチュアの職人たちであったことをこの広告は示している。マルクスは、「ヴォーカンソン、アークライト、ワットなどの諸発明が実行されえたのは、ただ彼ら発明家たちが、マニュフアクチュア時代によって用意され提供されたかなりの数の熟練した機械労働者を見いだしたからであった」と指摘している。
さらに、この求人広告は、クロムフォード・ミルが最初から女性や児童を主要な労働力として予定していたことを証明している。クロムフォード・ミルでは、深夜労働が創業後まもなく採用された。この工場が操業を開始してからまもない一七七七年に、クロムフォードに立ち寄ったウィリアム・ブレイは、「二〇〇人ほどが雇われているが、主として児童だ。彼らは昼夜交替で働いている」と日記に書いている。また、この工場で修業し、後にティーンストーンの紡績工場主になったアーチパルド・ブキャナンも、紡績作業は夜間も行われていたことを認めている。工場制度が誕生した瞬間から、労働者の人間性を無視した労働形態が採用されたことを、忘れてはならないだろう。
クロムフォード・ミルは火災で上二階が失われ、現在は三階建となっている。その後幾多の変遷があったが、最後は、顔料製造工場となり、廃業後放置されて世界で最初に工場制度が発祥した貴重な産業遺産は、消滅の危機に瀕していた。この危機を救ったのが民間非営利団体のアークライト協会である。一九七九年クロムフォード・ミルの遺跡を買収し、顔料で汚染した建物のクリーニングと補修を現在まで営々と継続している。こうして今では、われわれは、世界最初の工場制度の遺跡をもとのままの姿で見ることができるのである。
A三階建テラスハウスの労働者住宅
アークライトは工場で働く労働者のため、ノース・ストリート(ノースは北ではなく、首相・ノース卿にちなむ)に労働者用の三階建テラスハウスを建てた。妻と幼児が紡績工場で働き、祖父と祖母は、工場で生産した糸を使って、三階の北側の部屋におかれた靴下編機で靴下を編んだ。夫はアークライトエ場とは関係のない鉛鉱山や採石場で働いた。労働者住宅を建てることでアークライトは安価で安定した女性と児童の労働力を得ることができたのである。間取りは各階に四畳半ほどの部屋が二室あった。小さな裏庭には便所と豚小屋、小菜園が設けられ自給を助けた。この住宅は今も快適な住宅として人気があるという。
彼は、労働者のためのマーケット、パブや教会をはじめ、同地を商用で訪れる人々のためにホテルさえも建設し、後には工場法の半時聞工のための学校も建てた。さらにクロムフォード運河を開削し輸送の増大に備えた。かくして、彼はダーウェント河畔の寒村、クロムフォードに世界最初の工場制度をつくりあげたのであった。
(玉川寛治著「『資本論』と産業革命の時代」新日本出版社 p17-21)
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ラダイト以前
ラダイト運動という機械打ちこわしの運動が産業革命期のイギリスにあったことはよく知られている。しかしラダイトというのは固有名詞であって、一八一〇年代にイギリス中部のノッティンガム州と北部のヨークシャで起こった打ちこわし運動をさし、それ以外の打ちこわしはラダイトとは呼ばれていない。
そこでたとえばホブズボームはもっと一般的な名称として「機械破壊者」という言い方をしているが、これはどうもあまり使われていないようである。むしろホブズボームの問題提起として有名なのは「暴動による団体交渉」という考え方である。
これは機械の打ちこわしは必ずしも新しい機械の導入に反対するためのものであったのではなく、職人の側が賃上げなどの要求をあらかじめ提出し、これがいれられないときに打ちこわしを開始するということであって、労働組合が認められていない時代のやむをえない戦術であったというのである。
こういうとらえ方は、すでにF・O・ダーヴァル『摂政時代のイギリスにおける民衆騒乱と公共秩序』(一九三四)において提起されていたのであるが、かれはミッドランド地方の打ちこわしを交渉型、ヨークシャのそれを機械への反発という地域差としてとらえていたのであった。
打ちこわしという抵抗の形態はずっと昔からあるが、機械の打ちこわしというと、まったく当然のことながら、機械が発明されてからのことである。道具と機械はどこがちがうかという面倒な議論は抜きにして、ふつうイギリス産業革命の始まりといわれる機械の発明は、一七三三年のジョン・ケイの飛び抒(ひ)である。
これによって幅の広い織物を織るのに、いままでは二人の人手を必要としていたものが一人で出来るようになり、それだけ人手が過剰となった。そのために飛び抒の使用には強い反対があり、そればかりではなくケイ自身の身辺にも危険がおよぶようになった。一七五三年には群集が彼の家をとりかこみ、ケイはこれを逃れてマンチェスタヘ行き、さらにそこでも危険にさらされたので羊毛の袋に隠れてフランスヘ亡命し、そこで寂しく生涯を終えるのである。
したがって飛び抒が広く用いられるようになるのは、その発明から三〇年ほどたってからであり、自営の職人層の多いヨークシャやランカシャでは比較的抵抗は少なかったが、問屋制の発達した西部地方では一九世紀になってもなお抵抗がつづいていた。ただし、飛び抒をめぐってはあまり大規模な打ちこわしはなかったようである。
飛び抒に続く有名な発明はジェニー紡績機である。その発明は一七六七年であるが、このときもヨークシャでは反対は少なく、西部地方で強い反対がおこった。
たとえば一七七六年七月一〇日の夜、サマセットシャのシェプトン・マレットという町に近くの町や村の織布工たちがおしかけ、織元の仕事場へ乱入し、ジェニー紡績機だけでなく窓を割ったり、家具を叩きこわしたりしたうえ、大樽二杯分のビールを飲んでしまったという。ところがこの織元のところへはあらかじめ脅迫状がおくられていたので、すぐに騎兵隊が駆けつけ、首謀者数名を逮捕したが、職人たちは投石などで抵抗し、このため騎兵隊が発砲して、死者一名、負傷者六名を出した。
この事件のあと、さすがにこの町ではジェニーヘの抵抗はなくなったが、すぐ近くのフロムという町では一七八一年六月にジェニー打ちこわしの暴動がおこっている。西部地方にジェニーが定着するのは一七九〇年代になってからである。
■「ウィルトシャ・アウトレイジ」
ジェニーにつづいてアークライトの水力紡績機が一七六九年に発明され、一七七一年には綿から糸にいたるまでのすべての工程を一連の機械でおこなう工場がクロムフォードに建設されたが、ここでは打ちこわしはおこっていない。
しかしランカシャのチョーりにあったアークライトの紡績工場は一七九九年に襲われた。工場側が銃で応戦し、群集のほうに多数の死傷者がでたが、翌日、群集のほうも武装して逆襲し、工場に火を放った。また西部では羊毛を粗(あら)すきする粗梳機が打ちこわしの対象となった。一七九一年五月にウィルトシャのブラッド・オン・エーボンでジョージフ・フェルプスという織元がこの機械を導入しようとしたところ、五〇〇人ほどの職人があつまり、機械の導入の中止を要求した。
しかしフェルプスがこれを拒否したため、投石がはじまり、はじめ空砲で威嚇していたフェルプスもついに実弾を発射、死者三名、重傷者二名をだすという騒ぎになった。このため職人たちは激昂し、フェルプスもこれに恐れをいだき、けっきょく職人たちに同調し、橋の上で機械を燃やすという儀式をおこなったという。
羊毛を粗すきしたあと、撚(よ)りをかけるスラッピングという機械も、その導入に激しい抵抗をうけた。ヨークシャ西部のりーズ近くのハンスレットという町では、この機械を積んだ車が町にやってきたとき、こういう仕事にたずさわっていた女性たちが大勢あつまり、車から機械をひきずりおろし、足で踏んでこわしてしまったという話が一八〇三年三月の『リーズ・マーキユリ』紙にのっている。
一八世紀の末から一九世紀初頭にかけて打ちこわしが最も多かったのはウィルトシャである。それは「ウィルトシャ・アウトレイジ(暴行)」という言葉があるほどであった。
まず、一七九七年一二月、二〇〇ないし三〇〇人の顔を黒く塗った男たちがフロムの町から三マイルほどはなれたナニィという町に集まり、ある作業所の羊の毛を刈る機械を壊し、さらに彼らは次々と近くの町や村の作業所を襲った。一七九九年四月にはバスの近くに工場を建てたジョン・ベルは次のような脅迫状をうけとった。
「以下のとおり通告する。われわれトルーブリッジ、ブラドフォード、チペナムおよびメルクソムの毛織物職人は、すべて、あるいは大部分、失業しており、そしてその最大の原因は貴方の機械による織物仕上げ作業にあると確信している。もし貴方がこのやり方をこれ以上続けるなら、実弾をつめたラッパ銃かピストルをもった何人かに監視させ、貴方の頭をぶち抜く決意である。工場を破壊しても無駄である。呪われた悪党を死にいたらしめるのだ」。
しかしベルは屈しなかった。そして「死にいたらしめ」られることもなかった。脅迫は失敗に終わったのであるが、しかしほかのところでは干し草の山に火をつけるとか、あるいは工場が襲撃されることもしばしばであった。一八〇二年七月にはリトルトンという町の粗梳および縮絨(しゅくじゅう)工場が破壊され、その経営者のフランシス・ナッシュは八〇〇〇ポンドの損害をこうむった。その後も襲撃は続いたが、一ハ○三年ぐらいでウィルトシャの騒ぎもほぼ終息したと見てよいであろう。
打ちこわしは機械や建物に向けられ、経営者がおそわれることはなかったといわれているが、例外はあった。たとえば、すこしのちのことになるが、一八〇八年一月にウィルトシャのスタヴァートンというところで、馬に乗って帰宅途中のジョン・ジョーンズという織元がピストルかラッパ銃で狙撃された。さいわい弾丸はあたらず、ジョーンズは命拾いをしたのだが、その犯人が逮捕されるまでに四年以上かかった。しかも、それが真犯人かどうかは曖昧で決定的な証拠はなく、逮捕された三名は結局釈放されてしまったのである。
世論は機械打ちこわしに同情的であり、犯人探しのために村人から情報を得ようとしても「沈黙の壁」につきあたるのがふつうであった。警察や軍隊に現行犯逮捕されたり、射殺されたりしたものは、その村や町では殉教者あつかいだったという。
(浜林正夫著「パブと労働組合」新日本出版社 p59-63)
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◎「工場制度が誕生した瞬間から、労働者の人間性を無視した労働形態が採用されたことを、忘れてはならない」と。