学習通信060417
◎役に立つブレーキを……

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怒り方がわからない?

 ピアスの雑誌をつくっている編集者に会った。ピアスといっても耳にする小さなあのピアスではなくて、その雑誌に載っているのは、鼻とかくちびるとかおへそとか、見ているだけで「痛そう」と思うようなピアスばかり。その雑誌には、からだに絵や文字を彫るタトゥーの写真や記事も載っていた。

 グラビアページには、白分のピアスやタトゥーを自慢げに見せるたくさんの若者が登場していた。「えー、鼻のピアスにタトゥー? それってふつうの世界の話じゃないでしょ? 真夜中にクラブとかで遊んでいる人のことじゃないの?」と思うでしょう。私もそう思っていた。

 ところが、それが違うの。グラビアに写っているのは、本当にふつうの若者たち。どこにでもいる大学生やフリーター、主婦、店員さんという感じの人。「もっとかたい職業の人……たとえば銀行員とか公務員なんかでも、実はタトゥーを趣味にしている人がいるんですよ」と編集者は言っていた。今やちょっとしたファッションのひとつとして、気軽にからだのあちこちにピアスをしたり、からだに絵を彫ったりする人がいるらしい。

 「でも」と私は質問した。「シールと違って、こういうのって一度やったらもう消えないんでしょ? 本人はかっこいいと思っているから平気だろうけど、まわりの人たちはやめなさいって言わないんですか? たとえば、親とか。それとも、みんな親にはないしょにしてやっているんですか?」

 すると、その編集者はこう答えたのだ。「いや、多くの人たちは親にもちゃんと話してますよ。でも、今の親たちは「ひきこもりになったり事件を起こしたりするよりは、いっぱい友だちがいて、元気に流行の遊びやファッションを楽しんでくれたほうがいい」って思うらしいんです」

 なるほど……。ピアスやタトゥーはたしかにちょっと心配だけど、今の世の中、ひきこもりとか少年犯罪とかもっと心配なものがある、ということなのか……。複雑な親の気持ちを想像すると、こっちまで深刻な気持ちになってきた。

 そういえば中学生の子どもがいる知人も、「どうやって子どもを怒っていいか、わからない。へたにどなっちゃって、傷ついたりキレたりしたら困るし」と言っていたっけ。

 みんなの親はどう?
「そんなことダメです!」「もっとちゃんと勉強しなさい!」って怒ったりする? もし、けっこう怒ったり注意したりするとしたら、「ああ、それは私のことを信用しているんだな」と喜んでいいかもしれない。

 それにしても、なんでも「いいよ」としか言えない親って、ちょっと気の毒。もっと自信を持って「こんなことするのは、許しません!」と自分の意見を言ってあげたほうが、子どもとしてもやりやすいと思うけどなあ。

□よく親や先生などのおとなに怒られますか
□怒られて自分の間違いにはっと気づいた、という経験はありますか
□もっと怒ってほしい、と思うことはありますか
(香山リカ著「10代のうちに考えておくこと」岩波ジュニアー新書 p56-58)

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 それと同時に、さほど難かしくはありませんが、特に重要な能力を育成しなければなりません。

それは事態を判断する力です。

それはたえずほんのちょっとしたこと、ごくささいなことにあらわれるものです。幼いうちから、事態をどう判断すべきかということに子どもの注意をむけさせてください。子どもがおしゃべりをしています。その時だれか、よその人がやってきました。赤の他人でないこともありますが、要するに、みなさんの社会つまり家庭にやって来た人です。訪ねてきた人、お客によんだ人、おじいさんかおばあさんでもいいのですが。

子どもは今なにをいわなければならないのか、今なにをいってはいけないのか、よく心得なければなりません。(たとえば年配の人たちの前では、若いうちが花だなどという話をしてはいけません。その人たちにはいやな話です。まず人の話をよく聞いて、それから話に加わるべできす。)

自分がどんな場面にいるのか、それもとっさに自分で気づく能力──このカを養うことは特に大切で、そしてそれを養うことは難しいことではありません。二、三の機会に注意を与え、息子や娘と話し合えばそれで十分です。みなさんのその刺激は有益な効果をあげることになります。事態を判断する力はたいへん役に立つもので、まわりの人にとっても、その能力を持ち合せていて、うまく使いこなす者にとっても気持がいいものです。

 コムーナでは、家庭の場合と違って、これはたいへん難しい問題でした。コムーナにはおおぜいの子どもがいて、場面もかなり複雑なものでした。いつも人のなかにいるのです。内輪の人も、局外者も、技師、労働者、建築技師もやって来ました。コムーナにはお客や見学者などがひっきりなしにたずねて来ました。

それでも私はこの問題ではかなりりっぱな効果を挙げましたから、家庭ではそういった効果もきわめて短時間に挙げられるはずです。自分の囲りで変化する場面を感じ取る力は、どんな所でも発揮されます。

子どもが街の通りを走っていく時には、人が歩いているところ、乗り物が走るところをよく見なければならないでしょうし、仕事をする時にはいちばんあぶないところ、いちばん安全なところをよく知らなければならないでしょう。事態を判断するこういう力は、どこで自分の勇気と意志を発揮すべきか、どこでブレーキをかけるべきかという子どもの選択を助けるのです。

きょうのところは、みな大ざっぱな形で説明しましたが、ほんとうのところ、実生活のなかでは、事態を判断することにも微妙な違い、ニュアンスの違いはあるものです。

 こんな例を考えてみてください。あなたのお子さんがあなたを好きで、好きだということをなんとか表現してみたいのです。ところがその場合でも、つまり愛情の表現というものにもやはり行動にうつしたり、ブレーキをかけたりするための例の法則があるのです。こんな女の子たち(女の子にはよくありがちのことですが)、女友だちを見るとなんとも不愉快です。ひとりはある学校の八年生、片っぽうは別の学校の八年生で、この二人は今までに二回、キャンプで顔を合わせただけなのに、顔を見るたぴに接吻を交し、おたがいに好きだわなどと鼻をならしているのです。この二人はほんとうに愛し合っているとお考えですか? それはほとんど恋に恋をする気持ちであったり、感情の遊戯に過ぎないといってもいいでしょうし、時にはもうそれは破れん恥な恋で、感情を誠意もなしに表現してみせるあの陳腐な型におちいっているのです。

 みなさんには子どものいる知り合いの家庭があって、その子どもたちが親に好きだということをどんなふうに表現しているか、よく御存知かと思います。ある種の家庭ではそれは、のベつまくなしの接吻、甘いことば、のべつまくなしに思いのたけを告白することであって、表面的な告白のかげにはたして、愛情というものがあるのだろうか、あるいはそれは形式的な遊戯ではないのか、という疑いすら感ずるのです。

 別の家庭には、まるで家族がてんでんばらばらに暮しているのではないかと思われるほど、なんとなく冷たい態度がみられます。子どもが帰ってくると、なんともよそよそしく父親や母親に声をかけ、まるで愛情のかけらも持ち合わせていないといったふうに、すぐ自分の城にこもってしまいます。けれどもただ思いがけない気持ちのよい場合には、外見にはひかえめな態度であっても愛情のまなざしがちらりと走りすぐ消えてしまうことにお気づきになると思います。

それが父親や母親を愛しているほんとうの息子なのです。一面からは率直な、心からの誠意のこもった愛情を、他の面からは愛情がみてくればかりの形式にすりかえられたり、接吻にすりかえられることのないように愛情の表現を慎しむことを育てる力──これはきわめて重要な能力だといえます。この能力の上に、父親や母親に対する愛情のあらわれの上に、美しい人間らしい心情を育てることができるのです。

 コムーナ員は父親を愛すように私を愛していましたが、同時に私は甘いことばや、優しい関係はできるだけおさえるように努力してみました。そのために愛情にひびが入るということは全くありませんでした。彼らは自然に生まれてくる愛情を率直なつつましい形で表わすことを身につけました。

それは人間を目に見えるかたちで教育するから重要だというばかりではありません。それが重要だというのは、誠実な精神力を失わずに、どんなことにもきちんと役に立つブレーキを取り付けることになるからです。
(マカレンコ著「子どもの教育・子どもの文学」新読書社 p81-84)

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◎「自分がどんな場面にいるのか、それもとっさに自分で気づく能力──このカを養うことは特に大切で、そしてそれを養うことは難しいことではありません」と。