学習通信060418
◎盗むという意識はない……

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子どものウソと盗み──ねがいと現実の混同

 三歳の裕ちゃんは、ある日友だちから、鉄人28号のデザインのはいった黒いゴムピストルを見せられました。自分もそれがほしくてたまらず、親にねだりましたが色よい返事がもらえません。自分の家が八百屋なのをさいわい、店先につるされていた小ぜに入れのカゴから失敬して、自分で買ってきました。

 「こんなことまでするようになった」と、親はショックです。「このあいだも新聞の〈こどものしつけ〉欄に『悪いことははっきりしかる』と書いてあったっけ。いままでそういうしつけをちゃんとしなかったからだ。三つ子の魂百まで≠ニいうが、将来が思いやられる……」そこで、あまり出席したことのなかった保育園の組別父母会にでて、恥ずかしい思いをこらえ思いきってこの話をもちだしたというわけです。

 担任の保母さんは、こんな話をしました。

 「この間、久美子ちゃんがきて『センセイ、ワタシ、オヒッコシスルノ』といいます。まじめな顔して『トオクノホウノ、オウチアタッタノ』というので、一時は『本当かしら』と思ってしまいました。私、久美子ちゃんのおうちのようすをよく知っているので、そんなはずはないが、と思いながらもね。実はのぞみちゃんが、遠くの方の公団住宅があたって引越すんです。親友の久美ちゃんは、それがうらやましくてたまらなかったのです。自分の主観や切実な願望が強いあまり、それと客観的事実がこんがらがってしまいやすいのは、この年齢の特徴の一つです。『三歳にしてウソをつくとは──』なんて、いきりたつとかえっていけないんですよ。」

 子どもにはウソをついているという意識はないのです。
 裕ちゃんのばあいも、おとなのように悪いと知りながら盗むという意識はないのです。しかし、これからのおとなの指導によって、よくないくせがつく可能性はあります。自分で、自分のほしいものを買ってみたいという意欲もでてきたのでしょう。一定のおこづかいを与えて、そのなかからなにを選んで買うか、という訓練も必要です。

よく考えてひとつのものを選ぶ、ということは、ひとつの要求を実現するために他の要求をがまんするという、心の規律をつくるうえでも大切な機会のひとつです。

 その保育園では、その後一定の期間、一日五円ずつ特ってこさせて貯金し、五十円になったら何を買うかということをみんなで話しあい、町のだるま市にいきました。親と保母との話しあいは、しばしば子どもにとってよい保育をうみだす機会をつくります。
(近藤・好永・橋本・天野「子どものしつけ百話」新日本新書 p140-141)

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 ここで再び私たちは基本的な原則に近づくことになります。つまり、基準、程度をわきまえる感覚です。

 この程度をわきまえる感覚というのは、事務的な、金銭関係の問題のように複雑でめんどうな分野にもその力を発揮するものです。つい先頃、私のところに団地に住む御婦人たちがやってきました。その団地の一棟で一騒動がもち上ったのです。ごく親しくしている二軒があって、そのどちらの家にも子どもがいました。男の子のユラ(七年生なのですが)がその団地でものかお金を、無断でとったとうたがわれていました。この出来事は友だちもよく知っていました。

 ところで、この友だちの家で高価な製図用具が箱ごとなくなってしまいました。ユラはしょっちゅう遊びに来るので、その家では身内のように思っていました。その少年のほかには製図用具箱をとりそうな人はだれひとりいません。嫌疑はその男の子にかかりました。するとその二軒の家族、きわめて教養に富み、責任感旺盛な人々はどうしたわけか急に、期せずして真相糾明に夢中になりだしたのです。とにもかくにもはっきりさせたい、ユラは製図用具箱を盗んだのか、盗まなかったのかというわけです。三ヵ月もこのことにかかりきりでした。犬を連れて来たり、局外者の助けを借りることこそしませんでしたが、調べる、訊問する、さぐる、証人になる者をさがす、こそこそ耳打ちをするといった具合で、とうとう、ユラは病気になってしまいました。あげくの果てには、こうせめたてるのです。

「いってごらん、悪いようにはしないから。」
 父親はげんこつで自分の胸をたたいていいます。
「わたしの身にもなってみろ、わたしの子どもがどろぼうか、どろぼうでないのかはっきりさせたいんだ!」
 男の子は忘れられているのです。父親が問題の中心になってしまい。父親を苦悩から救ってやらなければならないのです。

 私のところへやって来ました。
「これからどうしたらいいのでしょうか。このままじゃ私たちは生きていけません!」
 私はその男の子を私のところへ連れて来るようにいいました。
 目をみただけでその子が盗んだか盗まないかわかるものではありませんが、私はその子にいいました。
「きみはなにもとらなかったんだよ。きみは箱をとらなかったのだから、もう箱のことはこれ以上気にすることはないんだよ。」

 両親には特にこう話しました。
「箱の話はおやめなさい。箱はだれがとったにしろ、ないのです。なくなってしまったのです。お子さんがどろぼうかどろぼうでないかという問題があなたがたを悩ましています。ですがあなたがたはまるで推理小説でも読んでいるみたいに、結末はどうなるか、だれが犯人かということを知りたがっているようです。その好奇心は捨てておしまいなさい。ことはお子さんの一生に関わるものです。以前にもお子さんはなんどか盗みをし、こんどもあるいは盗んだかもしれません。そういう癖がお子さんにはあるのです。しっかり育ててください。ただこのできごとは忘れて、あなたがた自身やお子さんをせめないでください。」

 子どもがなにかを盗んだということを、あなたがたが追求することは、場合によってはひじょうに大切なことなのです。きちんと証拠だてることができて、話し合うことが必要だと思うなら──話し合うことです。

 しかし、あやしいというだけで、盗んだという確信がなければ、その子を第三者のあらゆる嫌疑から守ってやってください。そのかわり御本人は気を抜かないで、その子に充分注意を払ってみてください。

 売春婦の仲間から連れだした労働コムーナの一人の少女が、実際に盗みを働きました。私も盗んだことを知っていました。まわりの子どももみんなそれを信じていましたし、本人もそわそわしていることも知っていました。私としても最後の断を下さざるを得ません。私はその子が盗みの常習犯で、盗むことをなんとも思っていないので、恥かしいと思わないのかなどといったところで、別に身にしみて感ずることもないことを承知していました。それで私は責任者(みなまじめな子どもです)会議で発言しました。

「なぜ、きみたちはこの子にうるさくつきまとうのです? 彼女は盗みを働らかなかったとぼくは固く信じています・それにきみたちにも証拠がないじゃないですか。」

 会議はけんけんごうごうです。けれども私の主張が通りました。彼女は無罪放免になりました。

 ところでみなさんはどうお考えですか? その女の子もはじめは極端に興奮して、すっかりとりみだした様子で、私をまじまじとみつめました。彼女もそれほどばかではありません。事実は明らかなのにどうしてそのように私は信じたのか、彼女を信じたのは本当なのか、どうしてそのように信ずることができたのか? 私はかけをしたのか、それとも心から信じたのだろうか? 私は重要な仕事を人にたのまなければならない折りには、その子にまかせました。

 これが一ヵ月続きました。少女は私の信頼に心を痛めていたのです。一ヵ月経って私のところへやって来ると、泣きだしました。

 「みんながわたしを責めたのに、先生ひとりがわたしを弁護してくれて、どうもありがとうございました。みんなは、わたしが盗んだと思っていたのに、先生だけは盗まないと思ってくれました。」

 私はその時いってやったのです。
 「きみが盗んだのだよ、たしかに、きみなのだ。私はよーく知っていたんだよ。もうこれからは盗んだりしないね。私はだれにもいわないよ、だからきみは盗んだりしなかったことになる、話はふたりの間で《もみけすことにしよう。》」

 もちろん、彼女はそれ以来全く盗みをやめてしまいました。
 こういうやり方も、程度をわきまえる感覚から生まれてきた。正しいやり方なのです。ですから家庭でも応用されるはずです。家庭では必ずしも真実だけをとりあげるべきではありません。子どもにはいつでもほんとうのことを話さなければならないということは、たしかに正しいことですが、場合によっては子どもにうそをいわなければならないこともあるのです。

盗んだことがわかっている場合でも、確証がなければだまっておいでなさい。確信があって、証拠もそろっているという場合でも、信頼しているということをおみせなさい。それも程度をわきまえる感覚なのです。子どもの人格に関わるような場合には、自分の感情やいきどおりや場あたりの考えをむきだしにしてはいけません。

 盗みを働かないように子どもを教育することはきわめて簡単なことです。はるかに難かしいのは、性格の教育、つまり勇気、ブレーキをかける力、自分の感情をコントロールする力、困難にうちかつ力を育てることです。それにくらべると物を大切にすること(物をとらないこと)を教えるのはぐんとやさしいといえます。

 みなさんの家がいつもきちんとしていて、御両親がどこになにがあるか知っているならば、お宅には盗難などということはありますまい。ところが、どこになにをおいたか自分でもよくわからない。お金は洋服ダンスや食器棚にほうりこんでおく。財布は枕の下に押しこんだまま忘れてしまうというのでは、子どもに盗むなというほうが無理です。家のなかで親が自分の物を乱雑にしておくようなことがあれば、子どもがその乱雑さを見るのはごく当り前のことです。物の置き方がなげやりになっているのに気がついて、このごちゃごちゃのなかからなにか一つぐらいとっても親は気がつくまいと思いこんでしまうのです。

 子どもの盗みのはじまりは、盗むのではなくて、《無断でとる》ことなのです。それがやがて癖になると、盗みになってしまうのです。子どもがかりに、無断で取ってもかまわないが、それでも前もって許しを得なければならないということをきちんと知っていれば、子どもは決して盗むことはしますまい。

ごくありふれたものが、たとえば食事の後とかお客を接待した後に残ったケーキなどが戸棚にあって、鍵もかかっていないし、とっちゃいけないともいってはいませんが、無断でこっそり取ったとすれば、それはもうりっぱな盗みです。子どもがこのケーキは無断で取らないことと、家庭で約束があるのならば、それはすばらしいことです。子どもが親にねだることをしないで、むしろ素直に親にいうのならよいことなのです。そういった場合であれば盗みもおこりません。

 みなさんがなんでもかんでも禁じますと、ケーキにありつけるのか、ありつけないのかという乞食根性でねだるようになって、こんなことからあるいは盗みがはじまるのです。なんでも取ったり、待ちだすことを大目にみたり、そうでなければなにひとつ家のものをとることもできず、その子に自由が全くない、なんでもいちいち許しを受けなければならないというのであれば、どちらの場合にも盗みがあるいは生まれるかもしれません。

 そのほかに、家の中がきちんと整理されて清潔で、ほこりもなく、よけいなもの、こわれたもの、投げっぱなしのものがないということも大切なことです。このことはきわめて重要なことで、そんなことがと思われるかもしれませんが、実はとても大切なことなのです。

かりに、家の中に、じゃまにはなるけれども、なにか値打ちがありそうだからとか、想い出があるから捨てるには惜しいという品物がたくさんあったり、古着の切れはしや、置き場所がないからというだけで敷いておくというじゅうたんがそのあたりにあるというのであれば、だらしなさ、物を大事にしない癖がついてしまいます。

逆に、家の中には、実際に必要なもの、現に使っているもの、手入れのいきとどいたものなど必要欠くべからざる物だけがあって、古びた、ボロボロの、使い古した切れ端などがそのあたりにちらばっていないというのであれば、盗みを働くということはとうていできますまい。きちんとしまっておいたもの、いらなくなって捨てたものと区別する親の配慮にみられる責任というもの、ものに対する責任が子どもにも理解されて、ものを大切にする心が育ち、盗みなどはなくなってしまいます。

 私は教育活動で大切だと考えている要点についてお話ししました。主要なものというのは愛情と厳格、かわいがることときびしくすることの程度をわきまえる感覚、ものや経済に対する親の態度にあらわれる程度をわきまえる感覚なのです。これは私が主張する主要な原則の一つです。

 こういう教育こそ、ぐちもこぼさず、涙もみせぬ我慢強い人間、献身的な仕事にたずさわる人間を育てあげることができるということを強調しておきたいと思います。というのはそのように教育してこそ、強い意志が育てあげられるからです。
(マカレンコ著「子どもの教育・子どもの文学」新読書社 p85-92)

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◎「子どもの人格に関わるような場合には、自分の感情やいきどおりや場あたりの考えをむきだしにしてはいけません」と。