学習通信060421
◎労働者階級の力の反抗……

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 これには、古い、選挙法改正以前の、寡頭制的トーリ的議会が公布した一つの法律が役立った。この法律は、のちに選挙法改正によってブルジョアジーとプロレタリアートとの対立が法的にもみとめられ、ブルジョアジーを支配階級へおしあげたあとであれば、けっして下院を通過することはなかったであろう。

この法律は一八二四年に通過し、労働者のための労働者間の結社を禁止していたすべての法律を廃止した。労働者は、これまで貴族とブルジョアジーのみがもっていた結社の自由の権利を手にいれたのである。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 下」新日本出版社 p45-46)

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ブレースとヒューム

 結社禁止法撤廃運動の中心となったのはフランシス・ブレースである。彼はロンドンの仕立て職人で、さきにのべたロンドン通信協会の議長をつとめたこともある急進主義者であるが、後のチャーティスト運動のなかでは中流階級との共闘を主張したため批判をうけることとなった人物である。彼はすでに一八一〇年に『タイムズ』紙の労働争議を見て結社禁止法の不当性を意識し、その撤廃のために運動を起こすことを決意したという。

一四年にそのためのキャンペーンをはじめるのだが、その有力な手段となったのは植毛職人のジョン・ウエードが一八一八年に創刊した週刊紙『ゴルゴン』であった。この週刊紙に財政的な援助をあたえていたのは功利主義の法学者であり哲学者でもあったジェレミ・ベンサムであった。ベンサムはこの運動におおきな影響力をもつこととなる。

 このベンサムに「議員のうちで唯一その名に値する」人物として信頼されていたのはジョージフ・ヒュームであった。彼は医師で東インド会社の外科医を八年も務め、一八○七年に帰国し、一八一二年に庶民院の議員となったが、やはりトーリ・リベラルの一人で、ハスキソンと親しかったようである。ピールもハスキソンも結社禁止法は労働者にのみ適用され不公平だという気持ちをもっており、それを後ろ盾にして結社禁止法の撤廃を提案しようとヒュームが決意したのは一八二二年のことであった。

ここからプレースの院外の活動とヒュームの院内の活動とが連携してすすめられることになるのだが、そのまえに、すでにのべた包括的主従法が一八二三年に制定されたことに注目しておきたい。この法律が翌年の結社禁止法撤廃を予測して制定されたとは考えられないが、しかし逆に前年に主従法の制定があったことが結社禁止法の撤廃を容易にしたひとつの要因となったということは考えられるであろう。

 一八二四年二月一二日にヒュームは特別委員会の設置を提案する。この委員会は結社禁止法だけではなく職人の海外移住と機械の輸出の禁止についても検討することをテーマとしていた。結社禁止法だけにしぼらなかったのはヒュームの真の意図を隠すための作戦だったという説もあるが、断定はできない。しかし結果的には結社禁止法問題にこの委員会の時間の大部分が費やされたことは事実である。

委員会の設置が承認されるとヒュームはただちに二一人の委員を指名し、一七日から証人の証言聴取をはじめた。同時にさらに委員希望者を募り、最終的に委員はニ八名になるのだが、そのなかにはハスキソンもふくまれていた。証言をした証人は一二二名におよぶ。その内訳は雇用主六〇名、職人四四名、その他、役人や専門家などで、専門家のうちには送り台つき旋盤を発明したヘンリ・モーズレーや経済学者のマカロック、『人口論』で有名なマルサスもふくまれていた。

雇用主のなかには「結社禁止法に賛成するな」と脅迫されたものもあり、また労働者の方では事前にプレースの家へ呼ばれ、証言の仕方の特訓をうけたものもあった。プレース自身も二回証人として呼ばれている。プレースはまた議会への請願運動を組織した。提出された請願は一一五通であったが、それは一通を除いてすべて結社禁止法を撤廃せよというものであった。結社禁止法存続派は委員会で何が審議されているのか、知らなかったようである。

 世論形成の上で大きな役割をはたしたのはベンサムとマカロックであった。『エディンバラ・レヴュウ』誌上でベンサムは、労働者は個人では弱い立場にあり、結社を組織してこそ資本家と対等になると主張し、マカロックは賃金基金説の立場から、結社を組織して一時的に賃金を上げても労働者全体の賃金総額は一定不変であるから「結社禁止法は不必要であるか、あるいは不正有害である」と主張した。ただしかれは委員会の証言では職人の海外移住と機械輸出について意見をのべただけで、結社禁止法には触れていない。

マルサスは結社禁止法が雇い主に適用されないのは不公平だとのべている。五月二〇日で証人の証言は終わり、職人の移住禁止は撤廃すべきこと、機械の輸出禁止についてはさらに検討することとなった。結社禁止法については、通常の形の報告書を提出する代わりに一一項目におよぶ決議を提出するという異例の方法がとられた。これは本会議の審議を待たずに結論を先取りしたようなやりかたで、のちに批判を受け、翌年の巻き返しのひとつの口実となるのである。

 一一項目の決議というのはつぎのようなものであった。

@委員会における証言によれば、イングランド、スコットランド、アイルランドにおいて、しばしばかなり広範に職人の結社が作られ、賃金を引き上げ、引き下げを阻止し、労働時間を規制し、親方たちが雇用したいと考えている徒弟やその他の人々について親方を制限している。

 証言がおこなわれた時点で結社は存在し、ストライキや仕事の中断がこれに伴い、これまでのところ、このような結社を防止するのに法律は効果をあげていない。

A職人の結社の結果、ストライキとともに、しばしばかなり長期間にわたって、平和の重大な侵害と暴力行為が結社から生じ、親方にも職人にも損害をあたえ、社会にとっても著しい不便と危害をあたえている。

B親方もしばしば団結し結社をつくり、職人の賃金引き上げ要求を抑えるとともにその賃金率を引き下げ、労働時問を規制し、ときには、しめされた条件に同意しない職人を解雇している。そのために仕事の中断や暴動や暴力行為がおこっている。

Cコモン・ローのもとで職人に対してしばしば訴追がおこなわれ、多くの職人が賃金の引き上げ、または引き下げ反対や、労働時間規制のために結社をつくり、共謀したとして、期間はさまざまであるが投獄されている。

D親方が賃金の引き下げや労働時間規制のために結社を作り、そのため訴追されたというケースがいくつか委員会に報告されたが、それによって親方が刑を受けたというケースはあげられていない。

E法律は、親方にせよ職人にせよ、結社を防止するのに有効でないばかりか、逆に、双方の多くの証人の意見によれば、相互のいらだちと不信を生み出し、結社に暴力的な傾向を与え、それを社会の平和にとってきわめて危険なものとしている。

F親方と職人は賃金率と労働時問にかんして制限を受けることなく、かれらが相互に適当と考える協約をまったく自由につくるようにすべきである。

Gしたがって親方と職人との間のこれらの事柄に干渉するような制定法は廃止されるべきであり、また、親方と職人との間の平和的な会合を共謀として訴追するようなコモン・ローは変更されるべきである。

H共済組合として合法的に登録されている協会の形を借りて、しばしば、暴力行為や脅迫をともなう結社やストライキを支持するための資金を集めていることが証言から明らかになったが、これは委員会が遺憾とするところである。委員会は特定の手段を勧告するものではないが、これらの組織がその公認の合法的な目的からしばしば逸脱していることに議会の注意を喚起したい。

I親方と職人との紛争を調停によって解決する方法はよい結果をもたらしている。調停を指示し規制する諸法律を統合し修正し、すべての職種に適用できるようにすべきである。

J結社禁止法を廃止した後には、職人と親方がもっとも有利とおもわれる仕方でその労働や資本を用いるよう、その双方に認められるべき完全な自由を、脅迫や威嚇や暴力行為によってさまたげるものは、親方であろうと職人であろうと、効果的かつ迅速な手続きによって処罰しうる法律を制定することが絶対に必要である。

 この決議には結社の自由というような原理的な問題はなく、結社禁止法が効果をあげていないということや、結社を禁止しているためにかえって過激な行動がおこっているということなどが結社禁止法廃止の理由としてあげられているにとどまるが、それがむしろ説得力をもったのであろう。

 この決議をあげたあとのヒュームの行動もすばやかった。五月二四日と二五日の会期に法案提出の許可を得たヒュームは二七日には法案を提出し、六月五日には庶民院を通過し、つづいて貴族院も通過して六月二一日には国王の裁可を得て制定法となった。両院の採決のさいの賛否の票数は記録されていないが、おそらくほとんど討論はおこなわれなかったのではなかろうか。

 なぜこのように簡単に結社禁止法廃止法が成立したのであろうか。もちろん、ヒュームとプレースの作戦の巧みさということもあるであろうが、それだけではあるまい。

おそらくトーリ・リベラルの政府の暗黙の後押しもあったであろう。また、議会の解散が迫っていて議員が気もそぞろになっていたからだという研究者もある。あるいは、この議会はまだ選挙法改正以前で地主が大きな勢力を占め、労使関係にあまり興味がなかったためともいわれる。世問の関心もあまり高くなく、ある新聞が「結社禁止法廃止法が先の議会で成立したことはあまり知られていないようだ」と書いたほどであった。

しかし、やはり最大の理由はラダイト運動以来の騒乱と弾圧の繰り返しに終止符をうちたいという気持ちがつよかったことであろう。プレースらが結社禁止法を廃止すれば労働争議はなくなると説いたことも世論を味方にひきつけたとおもわれる。マルクスは『資本論』第一巻第二四章で「団結を禁止する残酷な諸法律は、一八二五年にプロレタリアートの威嚇的態度にあって廃止された」と書いている。

これにたいしてJ・V・オース『結社と共謀、労働組合の法制史、一七二一〜一九〇六』(一九九一)は「そうではなくて、賢明な策略家が特別委員会を巧みに操作し、[エデインバラ」レヴュウの読者に考え方を叩き込み、職人たちが別の法案のために提出した平和的な請願を利用するという策謀をもちいたため」としている(別の法案というのはピータ・ムーアという議員が結社禁止法を廃止して新しい産業規制法を作ろうと準備していた法案で、プレースらは結社禁止法の廃止だけにとどめるべきだとムーアを説得し、ムーアを特別委員会にひきこんだのである)。

確かに一八二三年、二四年という時点だけを取ってみれば労働者階級の側には結社禁止法撤廃の運動はなく、それ以前のさまざまな闘争の中でも結社禁止法撤廃という要求はみられない。しかしマルクスが「プロレタリアートの威嚇的態度」といっているのは、一八二四年時点のことや直接的な要求のことではなく、ラダイト運動などをふくめていっているのであって、少し長い目で見れば、やはり職人たちのたたかいが結社禁止法の撤廃を勝ち取ったといって間違いはないであろう。

G・D・H・コール『イギリス労働運動史』(一九四八)も「プレースの黒幕的策謀は貴重であったけれども、それは廃止運動の基礎ではなかった」といい、片岡昇『英国労働法理論史』は「一八二四年団結禁止法の撤廃は`、決して単なる僥倖や好機の結果ではなく、労働者階級の力の反抗なくしては実現し得ないものであった」とのべている。
(浜林正夫著「パブと労働組合」新日本出版社 p94-100)

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◎「労働者は、これまで貴族とブルジョアジーのみがもっていた結社の自由の権利を手にいれた」と。