学習通信060424
◎赤旗は革命と人民主権の旗……

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赤旗

【作詞】J.コンネル
【訳詞】赤松克麿
【作曲】ドイツ民謡による


1.民衆の旗赤旗は 戦士のかばねをつつむ
 しかばね固く冷えぬ間に 血潮は旗を染めぬ
 *高く立て赤旗を その影に死を誓う
  卑怯者去らば去れ われらは赤旗守る

2.フランス人は愛す旗の光 ドイツ人はその歌唄う
 モスコー伽藍に歌響き シカゴに歌声高し
 *(くりかえし)

3.力なく道暗けれど 赤旗頭上になびく
 いさおと誓いの旗を見よ われらは旗色かえじ
 *(くりかえし)

4.富者にこびて神聖の 旗を汚すは誰ぞ
 金と地位に惑いたる 卑怯下劣の奴ぞ
 *(くりかえし)

5.われらは死すまで赤旗を 掲げて進むを誓う
 来れ牢獄 絞首台 これ告別の歌ぞ
 *(くりかえし)

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【コラム】赤旗の起源

 赤旗はいつから革命運動のシンボルとなったのだろうか。フランス革命のときに「平等派の陰謀」と呼ばれる蜂起をくわだて未然に発覚して処刑されたバブーフという空想的社会主義者がいるが、その研究者として著名なモーリス・ドマンジェに『赤旗の歴史』(一九六七)という著作がある。これに主としてよりながら、この問題を考えてみよう。

 ドマンジェによると赤旗の歴史はきわめて古く、六〇〇年におよぶという。それは一三五八年におこったフランス史上最大の農民一揆ジャックリのときに掲げられたのであった。それ以前にも赤は権威のシンボルとしてもちいられており、ローマ時代の奴隷の蜂起スパルタクスの反乱のときにも、スパルタクスは司令官のしるしとして赤い服をまとった。

また一三八一年のイギリスのワット・タイラーの一揆の時には赤旗ではないが、白い帽子に赤いリボンのような布をつけていた。一五世紀のボヘミアのフス派は赤旗ではなく黒旗を掲げたというが、黒旗というのは海賊の旗だという説もある。赤旗がはじめて革命のシンボルとしてもちいられたのは、ドマンジェによればドイツ農民戦争であるという。

エンゲルスの『ドイツ農民戦争』のなかに、「〔一五二五年〕二月九日にウルムの上方のリートの農民は、バルトリンゲンのそばの沼で囲まれた陣営に集結し、赤旗をうちたて、ウルリヒ・シュミートの指揮のもとにバルトリングン部隊をつくった」という記述がある(邦訳全集七巻三八七ページ)。しかし、この記述が赤旗が「革命のシンボル」という意味をあらわしているのかどうか、なぜここで突然ドイツの話が出てくるのかは、よく分からない。なお、トマス・ミュンツアーは赤旗ではなく虹の模様の入った白い旗を掲げたという。

 フランスでは一七世紀半ばのフロンドの乱のとき、「民衆のフロンド」といわれるボルドーの蜂起で赤旗が掲げられたが、その後しばらく途絶え、フランス革命のときにまったく異なった意味で用いられた。一七八九年一〇月、ヴェルサイユヘ逃れていたルイ一六世とマリ・アントワネットを女性を主力とする民衆がパリヘつれもどしたあと、治安維持のため軍法が作られ、その第二条で戒厳令のさいには家の窓や道路に赤旗を掲げ、治安が回復したら赤旗をしまうということが定められた。

つまり、赤旗は戒厳令の旗となったのである。そして実際にこれがもちいられたのは一七九一年七月一七日のことであった。この日、王制廃止と共和制樹立を要求して多数の民衆がシャン・ド・マルスにあつまり、デモンストレーションをおこなったとき、国民議会はラファイエットにこれを弾圧するように命じ、ラファイエットは国民衛兵をひきいて、赤旗を掲げて戒厳令を発し、死傷者二〇〇名以上という大弾圧をおこなったのである。

 この赤旗を民衆の側が奪ったのは、それから一年あまり後の九二年八月一〇日のことであった。ただし、その五〇日ほど前、六月二〇日にパリの市民がテュイルリ宮殿へむかってデモ行進をしたときに、赤旗を掲げようという計画はあったという。そのとき、「宮廷の反乱にたいする民衆の戒厳令」という意味で赤旗を掲げようとしたというのである。

しかし、六月二〇日には赤旗は掲げられなかった。その理由はあきらかではないが、準備が間に合わなかったのか、あるいは民衆が赤旗を掲げるのは過激にすぎると考えられたのか、いずれにせよ、赤旗が実際に民衆の旗として掲げられたのは一七九二年八月一〇日のテュイルリ襲撃のときであった。そのとき赤旗は「権力の反乱にたいする主権者民衆の戒厳令」といわれ、また「われら民衆が今は権利である。われらが今は法律である。われらのなかに正当な権限がある。……われらは反乱者ではない。反乱者はテュイルリにいる。われらは宮廷および穏健派の徒党にたいして、祖国および自由の名において、合法的弾圧の旗をひるがえすのだ」と主張された。

この赤旗にはシャン・ド・マルスで流された血がこめられているという思いがあったのかもしれない。しかし『フランス大革命史』(一九〇一〜○四)の著者ジャン・ジョレスは、赤旗はけっして復讐の旗ではないという。それは復讐の旗ではなく、「自己の権利を意識する新しい権力の輝かしい旗であった」

 しかし、八月一〇日の蜂起によって権力をにぎったジャコバン派は赤旗を自分たちの旗にはしなかった。ジャコバン派の恐怖政治は赤という色と結び付けられるようになったが、「赤い恐怖政治は赤旗を忘れた」のである。かれらが掲げたのは三色旗であった。

バブーフも赤旗を掲げなかった。ブルボン王朝の復活とともに三色旗はまたブルボンの白旗へもどってしまい、これを打倒した一八三〇年の七月革命で三色旗が正式に国旗となるのだが、この七月革命のさなか、七月二七日から二九日までルーブル宮に侵入し、民衆がパリを占拠した「栄光の三日間」と呼ばれるあいだだけ、赤旗が掲げられたのであった。一八三一年のリヨンの蜂起で掲げられたのは黒旗であった。ジョレスはこれを「絶望と困窮の旗」といっている。

その後も散発的に赤旗が掲げられることはあったが、決定的だったのはやはり二月革命であった。一八四八年二月のバリケードには赤旗が三色旗とならんでかかげられた。七月王政にたいする批判がたかまるにつれ三色旗はしだいに掲げられなくなり、赤旗が国旗になるという噂もとんでいた。しかし二月革命によって成立した臨時政府の首班ラマルティーヌは三色旗を採択したのであった。

その中でプルードンは赤旗は革命と人民主権の旗であり、それはフランスだけのものではなく、インターナショナルなものだと主張していた。そして六月蜂起の中で赤旗がたかだかと掲げられるのである。マルクスは書いている、「六月反乱者の血にひたされてはじめて、三色旗はヨーロツパ革命の旗──すなわち赤旗となった!」(『フランスにおける階級闘争』邦訳全集七巻三二ページ)。
(浜林正夫著「パブと労働組合」新日本出版社 p156-159)

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◎「自己の権利を意識する新しい権力の輝かしい旗であった」と。