学習通信060426
◎万国の労働者とともに……

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日本共産党 第77回メーデー・スローガン

☆格差と貧困を広げる弱肉強食の小泉「改革」ストップ。
安定した雇用と人間らしい働き方を確保しよう。「サービス残業」を根絶し、職場の無法を一掃しよう。
若者に仕事と希望を。
大企業は社会的責任を果たせ。
「ルールある経済社会」をつくろう。

☆国民に負担増を押しつけ、公的医療保険制度を土台からくずす医療大改悪反対。だれでも安心してかかれる医療を。消費税・庶民大増税を阻止しよう。

☆憲法改悪・国民投票法案反対。
憲法九条をまもるたたかいを草の根から発展させよう。教育基本法改悪反対。
侵略戦争と植民地支配の美化を許さずアジア諸国民との友好・交流を。

☆米軍基地強化を押しつける日米合意を撤回せよ。アメリカは不法なイラク占領をやめよ、自衛隊はただちにイラクから撤退せよ。いまこそ核兵器廃絶を。安保条約を廃棄しよう。

☆アメリカ・財界いいなりの政治から「国民が主人公」の新しい日本をつくろう。「たしかな野党」日本共産党の前進を。
(「しんぶん赤旗」20060426)

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普選要求の運動

 一九一八年十月六日、米騒動がはじまった地である富山県滑川に普通選挙期成同盟が結成され、全国の新聞・雑誌社とおもな政治家・思想家に普選の檄をとばした。一九年二月九日、東京の労働組合と、新人会などの学生、および吉野作造・今井嘉幸らの知識人は、共同して、普通選挙を要求する大会をひらいた。関西では、友愛会京都連合会が、十五日に普選期成労働者大会をひらき、尾崎行雄をむかえて気勢をあげた。普選の運動は、大阪・神戸・名古屋などにもひろまった。労働組合と学生を主力にし、知識人に支持された大衆的な普選運動がはじまったのである。友愛会は、「労働者の四大権利」(生存・団結・同盟罷工・参政権)の一つとして、普選を主張した。

 原内閣は、一九年三月、第四一議会で、一九〇〇年いらいの大選挙区割を小選挙区割にあらため、納税資格を一〇円から三円にひきさげ、おおくの自作農に選挙権をあたえた。小選挙割区の目的は、床次(とこなみ)内相によれば、「取り締まりがしやすく、扇動政治家の進出を防ぎ、政党の基盤を培うのにきわめて便である」というにあった。原内閣は、この選挙法改正によって、米騒動後の普選要求の運動に対抗し、政友会の絶対多数をかちとろうとしたのである。

 野党の憲政会総裁加藤高明は、「人民にせまられてこれに応ぜんよりも、進んで与うるのやむなきもの」として、二〇年一月、普選断行を党議としてきめ、国民党と共同して、普通選挙法案を第四二議会に提出することにした。一月三十一日には、総同盟・日本交通労働組合など、四一団体が「全国普選期成連合会」をつくった。二月十日には、東京芝公園で普選の大示威運動がおこなわれ、普選の即時実行、治安警察法第一七条の撤廃を決議した。大阪・名古屋でも集会がひらかれ、普選要求の決議をした。

 ところが、普選の要求にたいし、そこに「現在の社会組織を脅威するがごとき不穏なる思想」がひそんでいるとみた原首相は、普選案が上程された本会議で、討論もつくさず、採決にもはいらないうち、議会を解散した。第一四回総選挙にのぞんだ原内閣は、すでに第四一議会で政友会に有利に改正した小選挙区制のもとで、買収と選挙干渉によって、二七八議席の絶対多数をえ(前回は一六五)、四三議会で普選案をほうむりさった。

戦後恐慌

 一九二〇年(大正九)三月、それまで経験したどの恐慌とも比較にならない広さと深さをもつ恐慌が、日本をおそった。三月に株式市場が大暴落し、つづいて生糸・綿糸などの価格が年初の三分の一におちた。取り付けをうけた銀行は一六九、倒産した会社・商店はニ八五にたっし、工業生産高は二〇%、鉱業生産高は四八%へり、総輸出高は四〇%、総輸入高は三一%へった。農産物価格も、のきなみにさがり、繭も米も半値になった。貧農だけでなく、富農・地主もいたでをうけ、農村人口は二一、二二両年で三万五〇〇〇戸へり、耕地面積も二〇年から二九年までに二二万六〇〇〇町歩へった。

 この二〇年の恐慌の原因は、第一次大戦中の日本資本主義の異常な好況そのもののなかに根ざしていた。この好況は、第一次大戦で生産力がおちたヨーロッパ諸国への輸出と、国民生活の犠牲のうえにもたらされたものだったから、これらの国ぐにの生産力が回復すると、たちまち市場をうしなった。しかも、戦時にふくれあがった生産水準は、そのまま戦後にもちこされただけでなく、一九年から二〇年はじめにかけて、軍備拡張に期待した投機がおこなわれたことが、二〇年の恐慌をいっそうはげしいものにした。恐慌をつうじて、資本の集中がすすんだ。大戦前のカルテルは、軽工業部門を主としていたが、二〇年恐慌ののちは、重工業でもカルテル化がすすみ、二一年には石炭連合会、二六年には銑鉄共同販売組合ができた。

 二〇年の恐慌をきりぬけるため、資本家階級は、労働者階級にたいして、賃下げ・首切り・工場閉鎖(ロックアウト)などの攻撃をくわえた。このはげしい資本攻勢のため、二〇年の争議件数は二八二件(三万六〇〇〇人)にへった。争議の要求も、一九年には賃上げ要求が全体の八〇%をしめていたが、二〇年には五三%にさがり、ぎゃくに賃下げ反対が一九年のわずか三%から二三%にふえている。また、争議期間一〇日をこすものが、一九年の一・七%から二〇年には一一・七%とふえ、争議は長期かつ大規模になってきた。

 二〇年二月、官営八幡製鉄所二万二〇〇〇の労働者が、熔鉱炉の火をけしてストライキにはいった。この闘争を指導した「労友会」にたいし、友愛会八幡支部・坑夫協会・八幡同志会が応援した。政府は、警官・憲兵隊から、在郷軍人団・大日本国粋会という右翼までを動員して弾圧したが、八幡の労働者は、七月にはふたたび争議を組織してたたかった。

 友愛会婦人部の支部があった東京押上(おしあげ)の富士瓦斯紡績では、七月、組合幹部の首切りに反対し、「組合権の確認」の要求でストライキにはいった。彼女たちは、他の労働団体の応援をえて、二週間にわたってたたかったが、会社の弾圧に力つきて敗北した。

社会主義同盟

 恐慌のさなかの二〇年五月二日(日曜日)、第一回メーデーが東京の上野公園でおこなわれた。一五団体五〇〇〇人の労働者は、「万国の労働者とともに、労働者階級の解放のために全力をあげてたたかう」と宣言し、「八時間労働制、失業の防止、最低賃金法の制定、治安警察法第一七条撤廃、シベリア派遣軍の撤退」などを決議し、警官の検束に抗してデモ行進した。

 メーデーは労働戦線の統一をつよめた。東京のメーデーに参加した友愛会・信友会・日本交通労働組合・啓明会など一五団体は、五月十五日、「関東労働組合同盟会」をつくった。十月には、これに呼応して「関西労働組合連合会」がつくられた。労働組合数は、一九年の一八七が、二〇年には二七三とふえた。

 原内閣が普選の要求を拒否し、選挙でえた「多数による暴力政治」を強行したことから、一部の労働者は、議会への不信感をふかめ、大杉栄が一九年に雑誌『労働運動』を発刊してとなえていたアナルコ・サンジカリズムに、心をひかれていった。それは、「普通選挙運動の如きは全然無用であって、これに力を注ぐ如きは堕落と協調の第一歩である。

われわれは総同盟罷業の如き直接的手段をもって革命の遂行を期さなければならない」とするもので、東京の信友会・正進会(新聞の印刷工)などが、その中心になった。二〇年十月にひらかれた友愛会八周年記念大会では、直接行動派と普選派とが論戦をまじえ、直接行動派が優勢をしめた。他方、ロシア革命の影響をうけて、マルクス主義の立場にたつものもふえ、無政府主義(アナーキズム)か、共産主義(ボルシェビズム)かという、いわゆる「アナ・ボル論争」がさかんになった。

 アナ・ボル論争をつうじて、すべての社会主義者の戦線を統一して、これを労働組合運動とむすびつけようといううごきがおこった。山川均がその中心になり、二〇年十二月、総同盟・信友会・正進会などの労働組合と、新人会・建設者同盟などの学生団体と、さまざまな思想的立場にたつ社会主義者がいっしょになって、「日本社会主義同盟」を結成した。その発起人は、麻生久・荒畑寒村・大杉栄・小川未明・加藤勘十・堺利彦・島中雄三・高津正道・橋浦時雄・山川均・山崎今朝弥らであった。

社会主義同盟は、明治三十年代の労働組合期成会・社会民主党の時期いらい、はじめて日本の社会主義と労働運動が結合し、社会主義者が思想運動から政治運動に進出しようとした第一歩であった。山川均は、「今日までの日本の社会主義運動は、小さな灯火であった。そこには嵐が吹いていた。いまや、この小さな灯火は炎となって燃えあがった。その周囲には民衆の人垣がある。灯火は真に民衆のうちから燃えあがった火となった」と書いている。

社会主義同盟は、もちろん政党ではなく、規約も綱領ももたず、思想的にもなんら統一されていなかったが、先進的な労働者は、この同盟のなかに労働者階級のための闘争組織をみいだそうとして、その成立をよろこびむかえて参加した。社会主義同盟の会員は全国で三〇〇〇人にたっし、その機関紙『社会主義』の第一号は、五〇〇〇部を売りつくした。

 社会主義同盟に加入していた山川菊栄(均の夫人)・近藤真柄(堺利彦の娘)・伊藤野枝(大杉栄の妻)ら四〇人ほどの婦人は、第二回メーデーをまえにした二一年四月二十四日、「赤瀾会」という社会主義婦人団体をつくり、「私たちの兄弟姉妹を窮乏と無知と隷属に沈りんせしめているいっさいの圧制にたいして、断固として宣戦」した。

赤瀾会は、平塚らいてう・市川房枝らの新婦人協会の運動をブルジョア議会主義として批判した。彼女たちは、その年の第二回メーデーに婦人団体としてはじめて参加し、黒地に赤く「赤瀾会」とぬいつけた旗をかかげ、同盟の檄文をまいてデモ行進し、検束された。近藤真柄はいう。「ロシア革命に刺激された日本の労働者たちのなかに、はげしい革命の気運が高潮した時代。このあわただしい空気にふれ、私たち婦人も身を投げうって、革命に参加しようという気概にもえていた」。赤瀾会は、その後も講演会などをさかんにひらき、宣伝活動もおこなったが、参加者は社会主義者の家族が中心で、ひろく婦人大衆を組織しえなかった。

 社会主義同盟の内部では、無政府主義者と共産主義者の対立がはげしかった。同盟は五月に第二回大会をひらいたが、同盟の発展をおそれた原内閣は、幹部を検束し、五月二十八日に結社を禁止した。社会主義同盟の経験から、階級意識をもった労働者は、思想的統一がない、たんなる連合体としての無党社会主義のよわさを知り、力づよい指導的な中心──前衛党──をもとめるようになった。

 社会主義同盟には、朝鮮・台湾・中国の革命家も参加していた。北京大学の李大サが加盟していたのは、中国の社会主義運動と日本の運動がむすびついた最初のできごとだった。この一九二〇年、中国人民も、日本と同時に第一回メーデーをいわっていた。中国の労働運動も活発になり、翌二一年には陳独秀・李大サらによって、中国共産党が創立された。朝鮮共産党の前身である高麗共産党は、二〇年に上海で結成され、ベトナム人ホー・チ・ミンは、二〇年、フランス共産党に入党した。インドネシア共産党ができたのも二〇年五月である。アジアの諸民族は、ほぼ時をおなじくして、みずからの革命的な組織をもったのである。
(「日本の歴史 中」新日本新書 p282-290)

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◎一九二二年七月一五日 日本共産党創立