学習通信060428
◎「八時間労働」の真の意味……

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「個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示」
3 労働日の制限

 労働日の制限は、それなしには、いっそうすすんだ改善や解放の試みがすべて失敗に終わらざるをえない先決条件である。

 それは、労働者階級、すなわち各国民中の多数者の健康と体力を回復するためにも、またこの労働者階級に、知的発達をとげ、社交や社会的・政治的活動にたずさわる可能性を保障するためにも、ぜひとも必要である。

 われわれは労働日の法定の限度として八時間労働を提案する。このような制限は、アメリカ合衆国の労働者が全国的に要求しているものであって、本大会の決議はそれを全世界の労働者階級の共通の綱領とするであろう。

 工場法についての経験がまだ比較的に日のあさい大陸の会員の参考としてつけくわえて言えば、この八労働時間が一日のうちのどの刻限内におこなわれるべきかを決めておかなければ、法律によるどんな制限も役にはたたず、資本によってふみにじられてしまうであろう。この刻限の長さは、八労働時間に食事のための休憩時間を加えたもので決定ざれなければならない。

たとえば食事のためのさまざまな休止時間の合計が一時間だとすれば、法定の就業刻限の長さは九時間とし、たとえば午前七時から午後四時までとか、午前八時から午後五時までとかと決めるべきである。夜間労働は、法律に明示された事業または事業部門で、例外としてのみ許可するようにすべきである。方向としては、夜間労働の完全な廃止をめざさなければならない。

 本項は、男女の成人だけについてのものである。ただ、婦人については、夜間労働はいっさい厳重に禁止されなければならないし、また両性関係の礼儀を傷つけたり、婦人の身体に有毒な作用やその他の有害な影響を及ぼすような作業も、いっさい厳重に禁止されなければならない。ここで成人というのは、一八歳以上のすべての者をさす。
(マルクス「個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示」マルクス・エンゲルス8巻選集第2巻 大月書店 p168-169)

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工場法

 時間短縮のひとつの動きはいうまでもなく工場法である。ただし、その制定は一八三〇年代の一〇時間運動にいたるまでは労働者自身の運動というよりは知識人などのヒューマニストの運動によるものであった。エンゲルスは一八四七年の一〇時間法についてさえ、労働者によってではなく「センチメンタルなトーリ」という「反動的社会階級」によって決定されたといっている(「十時間労働問題」『デモクラティック・レヴュウ』一八五〇年三月号、邦訳全集第七巻)。

工場法については戸塚秀夫氏の丹念な研究『イギリスエ場法成立史論』(一九六六)があるので、ここで詳しく述べることは避けるが、一八○二年の最初の工場法以前からすでに時間短縮の要求ははじまっていたのである。ビーンフェルド『ブリテンの産業における労働時間』(一九七二)によると、その最初は一七八四年であるという。このころマンチェスタで熱病が流行し、これにたいしてパーシヴァルという医師が調査をおこない、綿紡績工場において昼休みを長くし、夕方には早く帰るようにという勧告をおこない、これを受けて、市当局が教区徒弟の夜業と一〇時間以上の労働を禁止したのである。

バーシヴァルは一七九五年にも調査をおこない、これを受けて一八○二年法が制定されたのであった。しかし、この法律がまったく無力であったことは周知のとおりで、初めていくぶんか効力を待ったのは一八三一年法であり、続いて一八三三年法でようやく実効性のある労働時間規制がはじまったのであった。

 ところでこれらの法律は、まさに「工場」法であって、工場にのみ適用される。一八四七年の一〇時間労働法によってすべての労働者に一〇時間労働制が適用されたと考える傾向があるようだが、このとらえ方には二つの点で注意が必要である。ひとつは工場以外の労働者はこの法律とは無関係であったのであり、もうひとつは労働時間を一〇時間以下に制限されたのは一八歳未満の労働者と女性だけであって、成人男子労働者は適用外であったのである。

すなわち、一八○二年法は二〇人以上の労働者を雇用しているすべての工場を対象としていたが、労働時間を規制したのは教区徒弟のみであり、一八一九年法は綿工場のみを対象とし、時間規制は一六歳未満の年少労働者であり、一八三一年法も対象は綿工場で時間規制は一八歳未満のみであった。一八三三年法にいたって対象が綿以外の繊維工場にひろげられ、一八四四年法ではじめて成人女性が時間規制の対象となった。一八四七年の有名な一〇時間労働法も規制の対象にかんしては一八四四年法と同じである。規制の対象が繊維工場以外へも拡大されたのは、一八四五年の捺染工場法を別とすれば、一九世紀の後半のことであって、一八六〇年に染色と漂白の工場、一八六一年にレースと靴下の工場、一八六三年に土器、マッチ、雷管、弾薬等、じゆうたん、ファスチァン、製パンなどの工場が時間規制の対象となった。

こういう規制対象の拡大を見ていくと工場制度の広がりがうかがわれるのであるが、製鉄業や鉱山業は規制の対象にはなっておらず(鉱山業については女性の地下労働を禁止する法律が別にある)、まして農業や建設業の労働時間は規制の対象にはならなかった。また成人男子労働者の労働時間を規制する法律も、一九世紀の後半に九時間あるいは八時間労働法制定の運動はあったけれども、ついに制定されなかった。女性と未成年者は法律によって保護される必要があるが、成年男子は自分の労働時間は法律によらずに自分の力で決めるという考え方がつよかったのである。

 もっとも、児童労働の時間規制をすると成人男子の労働時問まで規制を受けることとなり、したがって成人男子の労働時間規制はとくに必要はなかったのだという見方もある。事実、一八三〇年代の一〇時間労働法運動のもりあがりをみていると、未成年者や女性のためだけに労働者がたたかっていたのだろうかという疑問も生じてくる。たとえば紡績工場では児童労働は不可欠の補助労働であり、これが時間制限をうけると成人男子の方へも影響が出ざるをえないし、女性は紡績ではむしろ主力であったから、未成年者や女性の時間制限は工場労働者全体の時間制限となると考えられていたのではないだろうか。

マルクスは「労働日」にかんする章で、一八四四年法について「成年男子工場労働者の労働日も[未成年者や女性と]同じ制限に従わせられた」といい、しかし工場主のほうは児童を交代で使う「リレー制度」などによって労働時間規制の抜け道をさがしたともいっている。リレー制度がどのくらい広汎にもちいられたのかは、決め手となる証拠はないが、ビーンフェルド前掲書はリレー制度はあまりもちいられず、一〇時間労働が成人男子もふくめて一般化したといっているけれども、『レッド・リバブリカン』は一八五〇年一〇月の第一八号で、新しい工場法(一八四七年法)のもとでもリレー制度などの工場法違反はひろくおこなわれ、行政当局はまったく取り締まっていない、「それはかれらも同じ一味だからだ」と憤慨している。

また『デモクラティック・レヴュウ』一八四九年八月号も、工場法は北部、とくにランカシャでは守られていないといい、未成年者と女子の時間規制だけでなく、工場の機械の運転を朝六時から夕方六時までに制限し、昼休み二時間は機械をとめよと主張している。

いずれにせよ、成年男子については直接的な規制がなかったため時間延長の動きは絶え間なくつづけられ、とくに未成年者の夜業が禁止されたので、成年男子の夜業がふえたという。未成年者の時間規制も完全には守られず、夜業禁止といっても「夜とは何時から何時までなのか」ということが争われるような状況であった。そこで取り締まりをいっそう厳しくするのと引き換えに一八五〇年には一〇時間労働を実働一〇時間半(朝食半時間、昼食一時間を含めると朝六時から夕方六時までの拘束一二時間)にする法律が制定され、一八七四年になってようやく工場労働者には一〇時間労働が定着したのであった。

労働時間短縮の運動

 しかしイギリスの場合に注目すべきは、法律による規制以外に労働者自身の力による労働時間短縮の運動があったということである。

 まず土曜日半ドンの運動がある。土曜日半ドンというのはもともとは教会のきまりであったらしく、祭日の前夜には宗教的な儀式をおこなう慣わしがあり、ギルドでも土曜は昼で仕事を終えたという。この風習はしだいに廃れていったが、しかし半ドンではないにしてもほかの日より一、二時間早く仕事を終えるのがかなり一般的であった。ただし、その分だけほかの日に働かされるということもあったようだ。これを制度化したのは一八四三年のマンチェスタが最初であった。

その条例では土曜日には午後一時に仕事をやめることがさだめられ、大部分の銀行や商人や製造業者がこれに同意したという。この規定を作るのにどういう運動があったのかはあきらかではないが、さきにのべたように教区徒弟の労働時間制限を工場法に先立って最初にさだめたのもマンチェスタであったから、おそらく労働者自身の運動というよりも市当局や知識人のイニシアティヴによったのではないだろうか。いずれにせよ、このマンチェスタの規定に刺激されて一八四〇年代にシェフィールドなどにも半ドンがひろがり、一八五〇年の工場法は女性と未成年者についてだけであるが、土曜日は朝六時から午後二時までと終業時間を早くした。

とはいっても朝六時から午後二時までの八時間労働だから(うち朝夜半時間で昼食時間なし)半ドンといってもかなりに長時間労働である。さらに半ドンの日の賃金を一日分全額払うのか(これをフル・ペイという)、半日分だけ払うのか(これをハーフ・ペイという)ということも争いの種であった。こういう問題に決着がついて完全な半ドンになったのは一九世紀の末のことであった。

 成人男子の労働時間は法律に頼らず、労使間で決めるものという考え方がつよいということはさきにのべたが、それには労働組合のたたかいが必要であった。たとえば一八三四年四月にロンドンの仕立て職人の組合は次のような要求書を提出している。

「四月の第三月曜から七月の最後の土曜日までは一〇時間以上働かないこと、それ以外の八ヶ月は八時間以上働かないこと、この一〇時間労働は朝七時から夕方六時までの間に行われ、賃金は一日六シリングとする、八時間労働は朝八時から夕方五時までの間に行われ、賃金は一日五シリングとする。いずれの場合も食事のため一時間雇主の敷地をはなれることができる。雇主のための仕事は雇主の敷地のみで行われること、その場所は健康的で便利なところであるべきであり、仕事は日または時間決めで行うこと」。

この最後の「日または時間決め」という要求は出来高賃金ではなく時間賃金で支払えという意味であるが、ここですでに八時間労働日の要求が出ていることに注目しておきたい。こういう要求を掲げて仕立て職人はストライキにはいった。このストライキには二万人が参加したが、闘争の支援をグランド・ナショナルに要請し、これにこたえて組合員一人あたり一八ペンスの支援カンパが決定されたものの、実際にはカンパは集まらず、一方親方側も結束してストライキに対抗して女性の仕立て職人を使おうという申し合わせをしたり、「組合に加入しない」という誓約書(これはドキュメントとよばれた)を提出させることを決定したりして、結局ストライキは敗北に終わった。

 このころに八時間労働を要求したのは仕立て職人だけではない。同じ一八三四年四月にオールダムの紡績労働者も八時間労働を要求してストライキにはいっている。これも敗北に終わっているが、この年はストライキの多い年で、ロンドンでは一八世紀前半でストライキの最も多かった年といわれている。これらのストライキには三四年二月に結成された全国組織グランド・ナショナルの支援への過大な期待があったのだが、グランド・ナショナルの方はその期待にこたえきれず、ついにグランド・ナショナル自体が財政破綻においこまれるのである。

 製鉄業はさきにのべたように工場法の適用外であったが、これは溶鉱炉の火を落とさないために交代制の夜間労働があり、ふつうは二交代制つまり一二時間労働であったが、きわめて例外的なケースとして三交代制つまり八時間労働のところもあった。石炭産業では労働時間は短く八時間程度であったといわれるが、これは「ヴェンド」とよばれる生産制限協定のためであった。機械工の組合も一八三〇年代に労働時間短縮の闘争を行っているが、ここで注目しておきたいのは、この闘争では時短とともに残業手当支給の要求が出ていることである。

この闘争はマンチェスタの旧機械工によるものであるが、一八三一年四月にボウルトンの機械工が拘束一二時間実働一○時間で週六〇時間を要求し、週当たり二時間半を短縮させ六一時間をかちとったが、なお満足しなかったという。続いて一八三六年のマンチェスタの機械工の闘争では一〇時間を超える残業については二五%の割り増し賃金を支給させ、その上ニマイル以上離れたところから通うものについては通勤手当を支払うこととした。この年にはロンドンの機械工も八週間におよぶストライキによって実働一〇時間週六〇時間と残業手当の獲得に成功している。機械工組合は熟練工の組織で、排他性のつよい特権的労働貴族層であったので、一八四六年には土曜日を四時終業とし、一八五〇年までに多くの都市で週五七時間半ないし五八時間半の労働時間を獲得している。

残業(オーヴァタイム)という観念が成立するためには、まず標準労働日という観念が成立しなければならないことはいうまでもないが、これはかなり早く、一九世紀のはじめごろに漠然とした形であるが成立していたようである。しかしこれにたいして割り増し賃金を支払うかどうかは、また別問題であって、その支払いが一般化するのは一九世紀後半のことであった。それ以前には残業にたいしては、ほかの日に埋め合わせをするというようなことがおこなわれていた。

 日本ではいまだにサービス残業が大問題になっている状況だが、イギリスではいまから二〇〇年近く前に、一部の熟練労働者だけに限られたものであったとはいえ、すでに残業手当が支給されていたのである。八時間労働日も本格的な運動になるのは一九世紀の後半であり、それもアメリカがその運動の中心であったのだが、イギリスでも一九世紀の前半にその要求は提起されていたのであった。しかしイギリスでは八時間労働日を法律で定めることには反対がつよかった。

なぜ労働日法定に反対するのか、われわれには理解しにくいところであるが、一八八〇年代後半に「ニューユニオニズム」という不熟練労働者の運動がおこり、これが八時間労働法を要求しはじめたとき、TUC(イギリス労働組合会議)がこれに反発したということがあったらしい。先に紹介した女性活動家パタソンも労働日法定には反対であり、法律の力に頼ると組合が弱くなるといい、TUCの議会委員会書記のH・ブロードハーストは八時間労働日はできるなら組合の力で勝ち取るべきで、法定は次善の策だとのべている。

J・T・ウォードとW・H・フレーザーの編集した『労働者と雇用主』(一九八〇)という資料集の解説によると、「一八八○年代後半の社会主義と反社会主義との試金石は八時間労働の法定であった。TUCの議会委員会は立法の介入への敵意を隠さなかった」とされている。この資料集には一八九〇年のTUC大会における討論の一部が収録されているが、それによると、もちろん労働日法定賛成の意見もあるけれども、反対派は次のように主張している。もし八時間労働法が成立すれば、すべての労働者が八時間労働を強制されるだろう。一部の人びとにとっては八時間は長すぎるのだ。時間短縮のためには残業をなくすべきだ。各組合が強力になることの方が目的を達成しやすいであろう。

また、ある代議員はさらに極端に「法定八時間労働は原理的に有害であり、機能的には実行不可能であり、労働組合の最上の利益に反するものである。この国の労働組合は、もし望むならば、八時間労働のみならず、七時間労働でも、六時間労働でさえも、かちとることができるということは十分に証明されている」。採決の結果、法定賛成一九三、反対一五五であったという。
(浜林正夫著「パブと労働組合」新日本出版社 p187-195)

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「八時間労働」の真の意味

 もともと、八時間労働は、一日二十四時間を三等分したもので、人間が生存するのに必要な、@働く時間、A睡眠・食事など生理的に必要な時間、B文化・社会的時間、の三つの部分が、人間の生活にとって必需のものだという前提に立っている。
 二十四時間を三等分した八時間ずつのバランスは、人間の生活の権利からみて、必要最低限のバランスと考えられ、労働時間の八時間を、他の二つの生理的・文化的時間の方に少しでも移すことが、社会の進歩であり、世界人権宣言にいう人間の生活の権利の向上だと考えられてきた。また、そうしなければ生産技術の変化による緊張とストレスを回復して、労働者の心身の健康を維持することは難しかったであろう。

 第二次世界大戦後、急速に週四十時間労働に向けて各国の労働時間が短縮されはじめ、ECでは一九七八年末までに、四十時間労働と、年休を四週間以上にする原則を定めた。

 現在、国際的に、週三十五時間労働が、労働組合運動の目標になっている。

 日本では、時間という断面をとっても、「労働者が人たるに値する生活を営むための必要をみたす」ことから、なお遠い実状にあることがわかる。年休さえも、権利としてでなく恩恵と考えて、労働者が思うように年休をとることを遠慮せざるを得ないような、経営者の考えがある。

 一九八九年、七月に発表された労働省の『夏休み実施予定調査』によると、主たる企業千三百二十九社の夏休みは、あいかわらず頭打ちで、三日以上連続して夏休みをとるのは八〇・七%、一週間以上が三四・九%、二週間以上となると十九社にすぎない。労働省が目標としている十日以上の夏休みは、一四・六%しかなかった。
(暉峻淑子著「豊かさとは何か」岩波新書 p150-152)

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◎「労働日の制限は、それなしには、いっそうすすんだ改善や解放の試みがすべて失敗に終わらざるをえない先決条件である」と。