学習通信060501
◎「ボックス・クラブ」……

■━━━━━

──たしかにそれ以前にも、労働者のあいだに秘密結社はつねに存在していたが、それが大きな成果をあげることはなかった。スコットランドでは、サイモンズがのべているように(『技芸と職人』、一三七ページ以下)、すでに一八ー二年にグラスゴウの織布工のあいだでゼネストがおこなわれているが、これは秘密結社の力によるものであった。

ゼネストは一八二二年にもくりかえされたが、このときは、組合に加入しようとしなかった二人の労働者が、そのために組合からは階級的裏切り者と見なされ、顔に硫酸をかけられて視力を失ってしまった。

同じように一八一八年には、スコットランドの鉱山労働者の組合はゼネストを貫徹できるほど強力であった。これらの組合は組合員に忠誠と秘密厳守の誓約をおこなわせ、きちんとした名簿、金庫、帳簿と地方支部をもっていた。しかし、すべてのことを秘密におこなっていたために、発展が妨げられた。

これにたいして労働者は一八二四年に結社の自由の権利を獲得したので、こういう組合がたちまちのうちにイギリス全体にひろがり、強力になった。すべての労働部門において、労働者一人ひとりをブルジョアジーの専制と無視とから守るという明白な意図をもってこういう組合(trades’-unions)が、結成された。その目的は、賃金をさだめること、集団で、力をもって雇主と交渉すること、雇主が利益をあげれば、それに応じて賃金を調整すること、景気がよくなれば賃金をあげること、一つの職業における賃金をどこにおいても同じ高さにたもつことであった。

そこで組合は、一般的とみとめられる賃金水準について資本家と交渉し、この水準に加わることを拒否した資本家一人ひとりにたいして、労働を拒否することを通告した。さらに、徒弟の採用を制限することによって労働者にたいする需要をつねに活性化し、それによって賃金を高い水準に維持し、資本家が新しい機械や道具などを導入して陰険なやり方で賃金を切り下げようとするのを、できるかぎり阻止し、そして最後に、失業した労働者を資金で援助することが、組合の目的であった。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態」新日本出版社 p46-47)

■━━━━━

トレード・クラブ

 こういうさまざまな要素が労働組合の成立の背景にあるのだが、これがかなりはっきりと労働組合に近づいてくるのは、トレード・クラブである。トレードという言葉は日本語に翻訳するのが難しい言葉で、プロ野球でトレードといえば選手の交換ということであるが、ほかに商売、営業、職業などという訳し方もある。

トレード・クラブというのは同じ職業の人びとのクラブで親睦的な意味もあったであろうし、情報交換ということもあったであろう。たとえばロンドンの洋服仕立て職人(ジャーニーマン・テーラー)は一七世紀にすでに五つのクラブを持ち、一七〇〇年ごろにこれらが連合してユニオンを結成した。これがトレード・クラブ・ユニオン、略してトレード・ユニオンである。トレード・ユニオンというのは労働組合のことだというのは少し英語を知っている人には常識であろうが、よく考えてみるとトレード・ユニオンという言葉のどこにも労働という意味はない。正直にそのまま訳せばトレード・ユニオンは労働組合ではなくて職業連合とでも訳したいところだし、たしかこれを業者団体と誤訳した人もいたような気がする。

これをさらに省略してたんにトレードとだけいうこともあるが、こうなると前後の関係から判断しないかぎり、このトレードが労働組合なのか、営業という意味なのかは分からない。たとえば「トレードの諸君」という呼びかけは「組合員の皆さん」ということであって、「業者の皆さん」ということではない。トレード・カウンシルはうっかりすると商工会議所と訳したりするが、これは地域の労働組合の連合体、日本風に言えば地区労連である。

業者団体をトレード・ユニオンと呼んだ場合があったのかどうか、私は知らないけれども、一九世紀のはじめころにも、「トレード・ユニオンと称している労働者階級の結社」というような言い方をしていることもあるから、トレード・ユニオンがただちに労働組合を意味するとは受けとられていなかったようである。一八二四年に結社禁止法が廃止されて労働組合活動が活発化してくると資本家の方も組織をつくりはじめるが、こういう資本家団体はトレード・クラブともトレード・ユニオンとも称していないから、こういう名称は労働者の方が先に自分たちのものにしてしまったのであろう。

一八三〇年代にイングランド北部の炭鉱主たちが組織をつくったことがあるが、このときに北部最大の炭鉱主で労働組合弾圧の急先鋒であったロンドンデリ侯がこの組織に加わったのを、ある労働者階級の新聞が「ロンドンデリ侯がトレード・ユニオンのメンバーになった」と冷やかしたことがあった。これなどはトレード・ユニオンが労働組合と業者団体との両方を意味することにひっかけたジョークであろう。

 すこし話が横道にそれたが、問題はトレード・クラブやトレード・ユニオンがどのようにして労働組合になっていったのかということである。仕立て職人の場合、先に述べたようにこのトレード・クラブはジャーニーマン・テーラーのクラブであるから親方のギルドとは性格を異にする。むしろギルドの内部の組織であるヨーマン・ギルドのようなものであろう。しかし、もはやギルド内部で親方になることを求めているのではなく、あきらかに労働組合的な要求と運動を展開している。このことは、このクラブの活動のために損害をうけているとして雇用主側が一七二〇年に議会へ提出した請願書から知ることができる。

 「ロンドンおよびウェストミンスタの七千人以上の仕立て職人は、最近、結社を作り、賃金を引きあげ、従来より二時間も早く仕事をやめ、そしてこういう企てをいっそううまく実行していくために、いくつかの集会所(houses of call or resort それはロンドンやウェストミンスタのパブであるが)で、そのために備えられている帳簿にそれぞれの名前を登録し、そして告訴された場合に備えてかなりの金額を集めている。

現在は彼らはほとんど仕事につこうとせず、仕事についたものも(従来どおりの週一〇シリング九ペンスの賃金ではなく)週一二シリング九ペンスの賃金を要求してこれを手にいれ、(ずっと昔からの習慣であった九時にではなく)夜八時に仕事をやめてしまう。多数のものが町をうろつき歩き、出会う人すべてを誘惑し、堕落させており、このことは営業の大きな妨げとなり、損害となっている」

 この引用の最後の部分の「出会う人すべてを誘惑し、堕落させている」というのは、おそらく他の仕立て職人にユニオンヘの入会をすすめているということであろう。雇用主側の請願書であるからかなり誇張があるであろうが、しかし、このユニオンが労働時間の短縮と賃金引きあげとを要求していることはあきらかであり、また闘争資金をつみたて、さらには組合員の拡大にもつとめているらしいことがうかがえる。これはまさに労働組合的活動である。

このユニオンは一七六〇年ごろには四二の加盟クラブと三万人の組合員をもち、代議員会と執行委員会とを組織したロンドン最強の組合となっていた。ところでここで注目しておきたいのは、引用文のなかにあったように、パブを集会所とし、そこに名簿や会計帳簿をおいていることである。ハウス・オブ・コールを集会所と訳したが、コールには「呼ぶ」という意味のほかに「訪問する」とか、「立ち寄る」とかという意味があり、さらにそのほかに、コーリングとingをつけると職業という意味にもなる。そこでハウス・オブ・コールを「職業紹介所」と訳したくなるのだが、これはすこし無理かもしれないけれども、パブがそういう機能を果たしていたのは事実である。

 中世には職業紹介ということの必要はなかった。人びとはみな先祖伝来の職業に安住していたからである。ところがイギリスでは一六世紀ごろから浮浪者があらわれはじめる。これにたいして政府はまず取り締まり政策をとり、つづいて救貧法という救済策をたてるようになるが、一七世紀のなかごろ、ピュウリタン革命の最中にサミュエル・ハートリブとか、ヘンリ・ロビンソンとかという人びとが職業紹介所の設置を提案するようになった。

これは革命の激動のなかで職を失う人々がふえたためであるが、この職業紹介所のことを彼らは「オフィス・オブ・アドレス」と呼んでいる。アドレスも「呼びかける」という意味であって、ロビンソンの場合にはこれに「エンカウンター」とつく。いまふうに言えば「出会い」であろう。ハウス・オブ・コールにもそういう役割があったらしく、バブの経営者のところには職をさがしている人びとのリストが備えつけてあったという。求人の側でもこういうパブの存在は便利なものであった。とくに季節的に労働力需要が変動する雇用主の場合には、こういう労働力のプールは必要不可欠であった。さきの引用がしめしているように、雇用主側はトレード・クラブを目の敵にしていたのであるが、しかしその拠点となっているパブは彼らにとっても「必要悪」なのであった。

 トレード・クラブは共済組合としての機能も持っていたのであるが、病気や失業に備えるための積立金を入れる箱はパブにおかれ、このためクラブはしばしば「ボックス・クラブ」と呼ばれた。賃金の支払いもパブでおこなわれることが多く、その支払日は「クラブ・ナイト」と呼ばれた。そのときに情報の交換もおこなわれ、就業の順番もそのときにきめられた。バブで賃金を支払うというやり方は炭鉱では一九世紀まで残っており、一八四二年の鉱山法で禁止されたが、ほとんど効果はなかったという。こういう炭鉱のパブは経営請負人が経営していて、賃金の一部がそのパブでだけ通用するチケットで支払われたりしたのである。

つまり、それは一八三一年の法律で禁止された現物給与にあたると見なされたのである。賃金がすべて現金で支払われてもパブでそれが支給されるとすると、それがすぐ飲み代にまわることは目に見えている。だからパブの経営者が積立金を管理したり、求人求職の世話をしたりすることはただちに売上増加につながる営業政策だったといってもよいであろう。ときにはパブの主人が賃金の前貸しをすることもあった。一七四七年のある史料はつぎのようにのべている。

 「パブは彼らの稼ぎのすべてを使わせてしまい、彼らをいつでも借金と困窮の状態においておく。……彼らが失業しているときにはパブが食物や飲み物をツケで提供する慣習がまるで法律のようにおこなわれる。このため職人たちはその稼ぎのすべてを、このパブだけで使わざるをえなくなる。パブの主人はいったん職人たちに惜金を負わせると、いつまでもそうしておこうとし、貧しいみじめな人びとはこれによってパブにしばりつけられ、あくせく働いて、ただパブの主人を儲けさせるだけなのである」

 もちろん、すべてのパブの主人がこのようなタイプであったわけではない。むしろ多くのバブではその主人は職人たちに味方し、その組織化に協力していたのである。しかしパブである以上、そこでビールを飲まないわけにはいかない。それはときには家庭争議にもなったらしい。一八三二年の選挙法改正のさい、それに向けてその前年に全国労働者階級同盟という団体が結成されたが、その機関紙のような役割をしていた「貧民の守り手(プア・アノズ・ガーディアン)」という週刊新聞の一八三三年九月一四日号に「女性の影響力」というトップ記事(論説にあたるもの)が載っている。

その要旨はつぎのようなことである。人口の半分は女性なのだから、もし女性が政治改革(普通選挙権の獲得)運動に熱意をもってくれれば、目標の達成は容易になる。ところが現在は女性は政治運動にむしろ反感をもっている。それは男たちが運動に夢中になり、家庭をかえりみず、おまけにその活動の拠点がパブにあるために、いつもビールを飲んでくるので家計が苦しくなるためである。したがって、なるべく会議は早くきりあげ、会議の場所もパブ以外のところにしようではないか。この提言がどのくらい受け入れられたかは不明であるが、のちにパブをやめてコーヒー・ハウスで会議をするようになったところもあった。
(浜林正夫著「パブと労働組合」新日本出版社 p22-27)

■━━━━━

労働者のたたかいはその存在とともにはじまった

生き地獄にひとしい炭鉱の納屋制度

さて、主として先祖伝来の土地からひきさかれて、無一物になった小生産者、とくに労働力を売る以外に生きていけない労働者が農民からうまれたことは、さきにのべたとおりです。では、このあたらしく労働者になった「作業服をきた貧農」は、労働者としてどういう状態にあったでしょうか。

 明治初期の労働者のすがたは、炭鉱や鉱山の納屋制度(飯場制度または監獄部屋)と、『女工哀史』で名高い紡績「女工」の寄宿舎制度に代表されています。

 たとえば、はじめ佐賀藩とイギリスの資本で開発した高島炭鉱は、明治維新ののち官営となり、一八八一年(明治一四年)には、まえにのべたように三菱商会にはらいさげられましたが、はじめは、労働者があつまらないので囚人をつかい、のちに民営になってからは、各地のバクチうちにたのんで、労働者をだまして募集して、納屋制度をつくりました。「募集人のあいまいなことばにのせられて、島におくりこまれた労働者は、組頭のこん捧の監視のもとに、炎熱の地底で一分一秒の休みもあたえられず、しゃがんだり、やすんだりすると、みせしめのためにうしろ手にしばられて、梁(はり)につるしあげてぶんなぐる。脱走しようとしてつかまると、半殺しの目にあわせる」という生き地獄のようなありさまでした。

 一八八四年(明治一七年)には、この島にコレラがはやって、三〇〇〇人のうち半数の鉱夫が死にましたが、死んでも死ななくても、発病して一日たつと、海岸の焼場におくって鉄板のうえに五人ずつ、一〇人ずつと束にして焼いてしまいました。こういう囚人にひとしい扱いですから、賃金とは名ばかりで、まさに奴隷にひとしい無権利状態でした。

紡績「女工」の寄宿舎制度

 いま一つは、「輸出産業の花形」とうたわれた紡績「女工」でした。その大多数は、くえなくなった貧農の子女であり、こ一歳から一五歳ぐらい、前金で身売りをして、名ばかりの寄宿舎に住み込まされ、一日のうち食事時間は一五分、休みはたった一回で一〇分、実働一四時問二〇分、なかには一七時問というひどいものでした。賃金は、だいたい、お米が一升六銭のときに、七銭から九銭ぐらい、高くても一二銭をこえなかったといいますから、まったく農家の口べらし程度のものにすぎませんでした。そのために、過労と栄養失調で、胸をおかされて故郷へかえるものがふえて、明治三〇年代には、農村に肺結核がひろがって、おおきな社会問題にさえなりました。

 こうして日本の紡績資本家は、うらわかい婦人労働者の青春と肉体を犠牲にして、その血を吸って肥えふとっていったのです。囚人にひとしい炭鉱労働者と紡績「女工」、これが日本の労働者の低賃金と無権利のはじまりであり、当時の農民のみじめな状態をうけついだものでした。

自然発生的な暴動

 しかし、労働者は作業服をきた奴隷ではありません。生きるためには、たちあがってたたかうほかはありませんでした。

 すでに、早くはて一八六九年(明治二年)生野(いくの)銀山で、一八七二年(明治五年)には佐渡金山や高島炭鉱などで、数百人の労働者が、やむにやまれぬ抵抗にたちあがりましたが、これは、まったく自然発生的な暴動だったので、警察に弾圧されてしまいました。

 日本最初のストライキは、一八八五年(明治一八年)、山梨県甲府の製糸「女工」によっておこなわれましたが、翌一八八六年(明治一九年)には、甲府の雨宮製糸の「女工」たち百余名が、六月一四日、近くのお寺にたてこもってストライキにたちあがりました。というのは、県下の生糸業者が同業組合をつくり、「工女取締規制」をさだめて、実働一四時間をさらに三〇分のばし、これまで上等で 一日三二、三銭であった賃金を二二、三銭に切り下げようとしたのにたいして、がまんできなくなってたちあがったのでした。

 「すこし遅刻しても同盟のきびしい規則でようしゃなく賃金をひき下げられ、長糞、長小便は申すにおよばず、水いっぱいさえ飲むすきのないのに、工女連中は腹をたて、雇主が同盟規約という酷な規則をもうけ、わたしらを苦しめるなら、わたしらも同盟しなければ不利益なり、優勝劣敗の今日において、かかることに躊躇(ぐずぐずしている)すべからず。先んずれば人を制し、おくるれば人に制せらる。おもうに、どこの女工にも苦情あらんが、苦情の先鞭はここの紡績場よりはじめん、といいしものあるやいなや、お竹、お松、お虎のめんめん、ひびきの声に応ずるごとく……」いっせいに職場をひきあげて、近くのお寺にたてこもったと、『山梨労働運動史』はのべています。

 会社はぴっくりして、首謀者と話しあった結果、六月二八日には、出場時間を一時間ゆるめる、その他優遇策を考える、ということで争議は解決しました。この雨宮製糸のストライキは、おなじようなひどい規則でくるしめられていた沢野井製糸、丸山製糸、長田製糸へとひろがりました。

 当時は、まだ労働組合はありませんでしたが、労働者は生きるために、権利をまもるためには、たたかう以外にみちはありませんでした。このように、日本においても、「労働者のたたかいは、その存在とともにはじまった」(マルクス=エンゲルス『共産党宣言』)のです。
(谷川巌著「日本労働運動史」学習の友社 p27-30)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「労働者一人ひとりをブルジョアジーの専制と無視とから守るという明白な意図をもってこういう組合(trades’-unions)が、結成された」と。