学習通信060509
◎労働組合の先駆……

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この援助は組合の金庫から直接におこなうか、あるいは必要な身分証明を記載したカードによっておこなわれた。このカ−ドにもとづいて労働者はあるところからほかのところへと遍歴し、同業者から援助をうけ、仕事にいちばんありつけそうなところを教えてもらうのである。

こういう遍歴は労働者のあいだでは渡り歩き(tramp)と呼ばれ、このように遍歴する人は渡り職人(tramper)と呼ばれる。

これらの目的を達成するために、有給の組合長と書記が──なぜならこういう人たちを雇う工場主がいるとは思えないので──任命され、また委員会が任命されて毎週組合費をあつめ、それが組合の目的に沿って使われるよう監視する。

可能なときには、そしてそれが有利であると分かれば、個々の地域の同職仲間は結集して連合組織をつくり、定期的に代議員会をひらく。

ある場合には、一つの同職の仲間をイギリス全体にわたって一つの大組合に組織しようとしたこともあり、そして何回も──最初は一八三〇年に──各同職組合は独自の組織をもちつつ、全国的な一般労働組合を結成しようとしたこともあった。

これらの組織はすべて長つづきせず、ごく短期間成立したものさえほとんどなかった。というのは、とくに全般的に好況なときしか、こういう組織は結成されず、活動もできなかったからである。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 下」新日本出版社 p47)

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労働組合の先駆的形態

 そこで労働組合のほうへ話を移そう。イギリスの労働組合がいつごろ、どのようにして生まれてきたのかという問題についてはいろいろな説がある。イギリスの労働組合の歴史の古典的な概説書は、シドニイとベアトリスというウェエッブ夫妻の『イギリス労働組合運動史』(一八九四)だが、かれらはそれより二〇年以上前に出た、ルヨ・ブレンターノの『ギルドの歴史と発展および労働組合の起源』(一八七〇)の批判をこの書物のひとつの狙いとしていたのであった。

ブレンターノはこの書物の表題からも推測されるように、労働組合を「ギルドの後継者」と考えていた。つまり労働組合はギルドのように職人の数を制限して自分たちの地位を守ろうとする排他性をもった組織だと見たのである。ギルドと労働組合を同一視する見方は当時はかなり一般的であったらしく、イギリスのことではないが、フランス革命中の一七九一年に制定されたル・シャプリエ法はギルドを禁止すると同時に労働組合をも禁止したのである。

このブレンターノにたいしてウェエッブ夫妻はギルドと労働組合の違いを強調する。ギルドは親方の組織であり、労働組合は資本家に雇われている賃金労働者の組織であって、まったく性格を異にしており、実証的にもギルドからの系譜をたどることのできる労働組合はない。労働組合というのは、「賃金労働者の雇用条件を維持または改善することを目的とした継続的な組織」であるというのがウェエッブ夫妻の定義であって、中世のギルドとの違いを明確にすることに彼らの主張のポイントのひとつがあったと見ることができる。

こういう主張の背景には、一九世紀の後半に始まり今日のイギリス労働組合会議(TUC)にまでつながっているニューモデルと呼ばれた熟練労働者の組合こそ労働運動の主流であり、またあるべき姿だというウェエッブ夫妻の考え方があると見てよいであろう。

 しかしウェエッブ夫妻も中世的なものとのつながりを一切否定しているわけではない。またブレンターノも、どこかのギルドがそのまま労働組合へつながっていったと考えているわけではなく、労働組合のなかに古い考え方が残っているということを強調することが狙いだったのだから、両者の歩みよりはまったく不可能というわけでもないであろう。それはともかくとして、もう少し具体的に労働組合が持ち続けていた古い性格というものを考えてみよう。

 イギリスの労働組合の先駆的形態と考えられているものにはいくつかの説があるが、そのひとつはギルドの内部組織であったヨーマン・ギルドといわれるものである。ヨーマンというのはもともとは若者(ヤングマン)ということであるが、まだ一人前になっていないものということである。ギルドはもちろん親方の組織であるが、親方はふつう何人かの徒弟を持ち、数年の徒弟修業を終わったものが職人になる。徒弟は親方の所に住み込み、衣食住は親方持ちで、給料はない。

日本風にいえば丁稚奉公である。職人になると給料をもらい、自宅から通う。職人としてまた何年か修業すると親方になるのがふつうだが、皆を親方にしてしまうと同業者が増えすぎてしまうので、そこで資格試験をやる。といっても親方の息子はフリーパスだったらしいし、賄賂を使うとか、親方のうちの有力者を招持してご馳走するとか、いつの時代にも同じようなことがおこなわれていたのだが、正式の資格試験というのは、職人が腕を振るって、たとえば仕立て屋なら洋服を作るとか、鍛冶屋ならなにか金物を作るとか、その技術の水準をしめすのである。

このときにつくられた作品をマスターピースという。今の英語ではマスターピースというと傑作という意味であるが、もともとは親方試験用の作品という意味である。ところが絶対王政期の終わりごろになると、いよいよ過当競争になってきて、とうとう生涯、親方になれない職人がでるようになってくる。もちろん職人にしてみれば親方になることが目標なのだが、とうてい親方になれないと分かれば、職人のままで待遇を改善してほしいという要求がでてくるのは当然であろう。

そういう要求を実現するためにつくられたのがヨーマン・ギルドであって、これはもちろん正式の組織ではない。しかし親方ギルドと交渉したり、ときにはストライキをうつこともあった。その点ではかなり労働組合に近いが、労働組合とは違って組合員をふやそうとはせず、むしろ徒弟や職人の数を制限し、親方になるための競争を緩和しようとした。エンゲルスは『イギリスにおける労働者階級の状態』(一八四五)の中で、「プロレタリアートは、以前はブルジョアになるためのひとつの通過点にすぎなかったのに、いまでははじめて、人口のなかの真の固定した階級となったのである」と書いているが、ヨーマン・ギルドは「ひとつの通過点」にある労働者階級の組織といえるであろう。

 もうひとつ、労働組合の先駆的形態とみなされているのは友愛協会である。これは給付協会とも呼ばれているが一種の共済組合である。中世にはギルドが共済組合的役割もしていたのだが、ギルドの衰退とともにその役割をはたすこともできなくなり、そのためにギルドの共済組合的役割だけをひきつぐ形で一七世紀の後半からさまざまな形の友愛協会がつくられるようになり、一七九三年には友愛協会法も制定された。一八〇三年には協会数九六七三、会員数七〇万人にたっしたという。

日本で一九一二年に鈴木文治らが結成し、後に日本労働総同盟に発展した労働者組織が友愛会と名づけられたのは、このイギリスの組職名がアメリカ経由で日本へ伝えられてきたものであり、日本の友愛会も共済部、医療部、貯金部などをもち共済活動をおこなっていた。一七九九年に結社禁止法が制定され、労働組合が非合法化されたために多くの労働組合が友愛協会に偽装したといわれているが、確かにそういうケースもあったであろうけれども、労働組合自体が共済組合的機能を持つことも多く、友愛協会としての名称のほうが本名で、それが労働組合的機能をはたしていたケースもあったように思われる。

友愛協会と労働組合との境目はかなり曖昧であるが、しかしその機能が異なっていることはいうまでもない。またその組織原則も異なっていて、友愛協会の場合にはいろいろな職業の人を地域別に集めることが多かったようである。たとえば集会所から二マイル以内に住んでいる人を組織するというような仕方で、この場合の集会所というのがたいていはパブであった。もっともなかには職業別に組織されたケースもあり、こういう場合には労働組合とかさなりあうことも多かったであろう。

 もうひとつ、ギルドの名残と考えられるのは渡り職人(tramp)という制度である。職人はふつうジャーニーマンというが、このジャーニーというのは旅行という意味であって、職人のときによその親方のところへ修業に出かけるから旅まわり、つまりジャーニーマンというのだという説がある。そうではなくてこのジャーニーというのはフランス語のジュルネ、つまり「日」という意味で日給をもらっていたのだという説もあるが、語源はともかく職人が方々へ出かけたということはあったようである。

腕をみがくということもあったであろうが、それよりも徒弟と違って住み込みではなくなるので、時には失業したり、あるいは親方と喧嘩して飛び出したりということもあったかもしれない。旅先で行く当てのないときには大体はパブヘ飛びこむ。さきにのべたようにパブはその町の社交場であり、情報の集まる場所だからである。

そこへ行って、どこかの町のギルドのメンバーであるという身分証明書のようなカードを提示すると、宿や就職の世話をしてくれたり、その町に適当な職のないときには別の町まで行く旅費の面倒までみてくれるというギルド同士の相互扶助システムがあったのである。このように歩きまわる職人をトランプというが、これは時には浮浪者としてあつかわれることもあった。しかし、たとえばロンドンでは、こういうトランプにたいして五シリングの小遺いと三泊の宿と二ポットの飲み物を提供する習慣があったという。
(浜林正夫著「パブと労働組合」p17-21)

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◎「全般的に好況なときしか、こういう組織は結成されず、活動もできなかった」と。