学習通信060516
◎「数の力」について……

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おわりに―労働者階級の歴史的使命と日本共産党

 わが党の規約には、日本共産党は「日本の労働者階級の党であると同時に、日本国民の党」だと規定しています。

 労働者階級は、日本国民の圧倒的多数をしめ、日本社会と経済の動向を決定的に左右する階級であります。労働者階級の地位と権利の向上をぬきに、日本国民の生活条件の改善はありえません。

 また労働者階級は、日本共産党がめざす社会主義・共産主義への前進を、歴史的使命としている階級であり、人類史的視野でみても未来社会を担う階級であります。

 労働者階級のなかで多数者となってこそ、民主連合政府への道は開かれてきます。この展望をもって、この分野でのとりくみの前進をはかるために、ともに奮闘する決意をのべて、報告を終わります。
(「職場問題学習・交流講座への報告 幹部会委員長 志位 和夫」しんぶん赤旗 2006.4.25)

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 北部の鉱夫たちが「組合」を放棄し、ロバーツを解任するよう強制されていることが知られるとすぐ、ランカシァの鉱夫たちは約一万人の労働者からなる組合に結集し、彼らの検察長官に一二〇〇ポンドの年俸を保証した。その前の年の秋に、彼らは毎月七〇〇ポンド以上をあつめ、そのうち約二〇〇ポンド以上を給料や裁判費用などにあて、残りの大部分を、失業したり、鉱山主との争いのために仕事を放棄したりしている休業中の労働者の救援資金にあてた。

このようにして労働者は、彼らも団結すれば無視しえない力となり、万一の場合にはたしかにブルジョアジーの力に対抗できるのだということを、ますます認識するようになった。

そしてこういう認識こそ、あらゆる労働運動の成果であり、それは「組合」と一八四四年のストライキによって、イギリスの鉱山労働者全体のものとなったのである。

いまはまだ、知性とエネルギーの点では工業労働者の方がすぐれているけれども、この差はもうすぐなくなり、そしてこの国の鉱夫はどんな点においても工業労働者と肩をならべるようになるであろう。

このようにしてブルジョアジーの足元から、次つぎと地盤がくずれていく。

彼らの国家と社会という構造物の全体が、それがのっかっている基盤とともに崩壊するまでに、どのぐらい長くもちこたえられるであろうか。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 下」新日本出版社 p105-106)

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 この共同研究のなかで、それぞれの筆者が、労働者のもつ唯一の社会的力としての「数の力」についてしばしば言及していることは、すでに多くの読者によって気づかれていることであろう。そこにわれわれの理論的立場のもっとも基本的な共通性が表現されている。

弁証法的唯物論に基礎をおくプロレタリアートの組織論、戦術論の特徴のひとつは、あたえられた社会発展の過程の内部に社会的前進の直接の契機となることができるような物質的力を見出すことにある。

こうして見つけ出されたものが、世界史的役割をになう「労働者階級」であり、その戦闘力の源泉としての「数の力」である。

われわれがこの項目の主題としてかかげた労働者階級の社会的勢力とその内部的な構成は、いうまでもなく、この労働者の「数の力」と密接な関係(あるいは直接的な関係)をもっている。

そこで、まず、この労働者の「数の力」とはなにかを、多少ともつっこんで見ておく必要が生まれる。


「資本は集積された社会的力であるのに、他方、労働者のもちあわせているのは自分の個人的な労働力だけである。……労働者側のもちあわせる唯一の社会的な力は彼らが多数なことである。」(「『国際労働者協会ジュネーヴ大会への指令』から」、国民文庫、マルクス・エンゲルス『労働組合論』、四五ページ)

「成功のひとつの要素を彼ら(労働者階級)はもっている、──それは数である。だが、数は、団結によって結合され、知識によって導かれる場合にだけものをいう。」(『国際労働者協会創立宣言』、同前、三一ページ)


 この二つの引用文を比較してみよう。前者は一八六六年に、後者はそのわずか二年前に、マルクスによって書かれたものであり、前者で「唯一の社会的な力」としての「多数」といっているのも、後者で端的に「数」といっているのも、内容としては同じだということは疑う余地がない。

しかし、前者と後者とでは問題をとりあげる視角が異なっているために、同じ「数の力」について、いわば異なった側面が現われているようにもみえる。

そしてそのことが、われわれの主題の位置をあきらかにするための鍵をあたえているように思われる。

 まず前者からみていこう。ここでは、労働者の「多数」の力は、資本の集積された社会的な力に対抗し、これを押しかえすことのできる、しかも労働者のもつことのできる唯一の社会的な力として示されている。

なぜそういうことが可能になるのかといえば、資本は、生産単位としての個々の私的資本をとっても、資本主義社会全体の立場からみても、自己の手中にある過去の労働の集積(労働生産物、生産手段)にたいして、生きた生産力としての複数の労働者(労働力)を合体させ、それらを生産的に消費することなしには、資本として機能することができず、したがって、生産することもできなければ、資本価値を増殖させることもできないからである。

このことは、資本にとっては、キリスト教でいう「原罪」のように、資本であるかぎり避けることができないものだといってよい。

こういう観点からみれば、資本が合体しなければならない労働者の数的な存在そのものが、すでに戦闘力としての潜在的可能性をひそめていると見ることができるであろう。

(いうまでもなく、この「多数」が、資本に立ちむかう社会的力として実現されるためには、たんなる数的存在そのものとしての状態にとどまっているのでは不十分であり、団結とかストライキ権の行使とかにすすむことが当然期待されているのではあるが。)

 ところが、これにたいして後者では、「数」の力(この「数」も、「彼ら《複数》の数」だから、前者の場合と同様に、多数の力と言いかえてもよい)が社会的力として実現されるためには、それ自体としての存在(潜勢力)にとどまっていたのではだめであって、団結(組織化)と知識(科学的な戦術指導)とによって、いわば目的意識的な存在に転化することが必要だという、まさにそのことが指摘されているのである。



 この点については、「階級への、それとともに政党への、プロレタリアの組織化」(『共産党宣言』)とか、「労働組合による労働者階級の組織化」(『未公開通知』)とかいうマルクス、エンゲルスの言葉を想起しておくことにしよう。いずれにせよ、資本主義的生産関係のもとでの労働者というあるがままの存在から、自覚的な組織化された存在に転化することが必要なわけである。


 このように書かれている二つの引用文を重ねてみれば、そこに書かれている内容を多少とも立ちいって読みとることができるし、われわれの主題との関連性も次第にあきらかになるであろう。つまり、それはこういうことである。

 資本主義的生産関係のもとで形成された労働者の数的な存在は、そのあるがままの姿で、すでに、潜勢力としては、資本に立ちむかうことのできる社会的勢力であるが、それが実際に社会的勢力として実現されるためには、自分自身を、意識的な、組織化された存在に転化しなければならない、ということである。

思い切っていえば、マルクスの「多数」または「数」という表現には、潜勢力としての、あるがままの労働者の集団と、社会を変革する現実の力としての、階級に組織されたプロレタリアートが二重写しになっていると見てもさしつかえないように思われる(それは、けっきょくは、資本に立ちむかう社会的な力として、後者に統一されるのであろうが)。

そして、もしそのことがみとめられるとすれば、われわれがその実態を追究しようとしている労働者階級の社会的勢力とその内部的な構成は、前者の意味での、つまりあるがままの労働者の集団の定在化(具体的形態)と解することができるであろう。

 しかし、ここでいわれているあるがままの労働者の集団は、いずれは階級に組織される内的必然性をひそめたものであり、その意味でこそ潜勢力なのである。

別の言葉でいえば、あるがままの労働者の集団の存在が前提となっていなければ、労働者階級の組織化はありえないし、また他方、あるがままの労働者の集団は、その存在それ自体のなかに意識的な階級的集団に転化するための諸契機を内包していなければならないということになる。
(堀江正則著「戦後労働者階級の構成変化」労働組合運動の理論C 大月書店 p166-169)

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◎「労働者階級のなかで多数者となってこそ、民主連合政府へ」と。