学習通信060517
◎それでも、それは、……単一なものではなく……

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 いまの生活と労働の苦しみの根源に、こうした自民党政治の政治悪があること、政治を変えることが、職場を変えることと一体の問題であることを、労働者に広く語ろうではありませんか。

 日本の階級構成の八割をしめる労働者階級がおかれている深刻な現状を打開することは、日本国民の現在と未来にとって重大な意義をもつたたかいであります。日本共産党と、その職場支部の果たすべき役割はかけがえないものがあることを、強調したいと思います。
(「職場問題学習・交流講座への報告 幹部会委員長 志位 和夫」しんぶん赤旗 2006.4.25)

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■第四章 多数派結集をめざす国民運動の発展のために
──略──
(3) 日本社会を、政府や財界からの不当な攻撃にたいして、強力な社会的反撃をもってこたえる社会へと前進させることは、二一世紀の日本の民主的前途を考えても、たいへん重要な問題である。
 労働運動が、人口の七割をしめる労働者階級の多数を結集する運動をめざして新たな前進をかちとるとともに、国民各層・各分野の運動を多面的に発展させ、多様な市民運動・住民運動との共同をつよめ、壮大な国民運動の高揚の波をつくるために、奮闘しようではないか。
(「日本共産党 第24回大会決議」しんぶん赤旗 2006.1.15)

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労働者の集団それ自体
 −その発生、源泉、複雑性

 われわれが労働者階級の社会的勢力とその内部的構成といっているものは、マルクスの労働者の「数の力」との関係でいえば、あるがままの、潜勢力としての、「数の力」の定在化だということを述べたが、それが定在化だとすれば、そこにあるものは、もはや、たんなる「数」一般であり、たんに無自覚な労働者の集団だというだけのことではない。

レーニンは、労働者階級は「大規模な資本主義によってつくりだされ、組織され、結集され、教育され、啓蒙され、きたえられた、特定の歴史的階級である」(『偉大な創意』、全集第二九巻三〇六ページ)と述べているが、むしろこのような歴史的形成の過程におかれている労働者の集団を想起することがよりふさわしいといえるであろう。そして、このような社会的集団であるからこそ、それは、その存在それ自体のなかに、意識的、組織的な階級集団への転化の契機を内包してもいるのである。

 まず第一に、このような労働者の集団が、どのようにつくりだされるかを見ることにしよう。


「拡大された規模での再生産、すなわち蓄積は、拡大された規模での資本関係を、一方の極により多くの資本家またはより大きな資本家を、一方の極により多くの賃金労働者を、再生産する。……つまり、資本の蓄積はプロレタリアートの増殖なのである。」(『資本論』第一巻、普及版A八〇一ページ)


 労働者階級の社会的勢力とは、なによりもまず、資本主義によって生みだされた、労働者の社会的集団の「数」であり、量のことである。この量は、マルクスが簡潔に指摘しているように、資本主義的蓄積(拡大再生産)の発展とともに増大する。そのことのなかに、労働者階級が、資本主義的生産の、したがってまた資本主義的経済制度の運命を左右するにいたる暗黙の可能性が示されている。しかも、資本主義的経済制度のもとでは、つぎのような「資本主義的蓄積の敵対的な性格」は不可能なのだから、この暗黙の可能性は、現実的な可能性に転化せざるをえないのである。


「一方の極での富の蓄積は、同時に反対の極での、すなわち自分の生産物を資本として生産する階級の側での、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、粗暴、道徳的堕落の蓄積なのである。」(同前、八四一ページ)


 産業革命以後の工業的発展のなかで、組織され、教育され、鍛えられてきた労働者階級が、このように押しつけられる貧困状態にたいして、長らく受動的な態度をとっているということは、ほとんど考えられないことである。エンゲルスは、資本の増大と労働者の増大とのこのような対応関係を「騎士ホラチスの憂欝」(騎士がかけだせば、彼の背後の黒い影もかけだしてついてくる)と評しているが、それも同じ意味である。
 ところで、労働者の社会的集団の量の拡大は二重に現われる。一方では資本蓄積とともに絶対的に。他方では、社会的人口の全体にたいして相対的に。


「これまでの下層の中産身分、すなわち、小工業者や、小商人や、小金利生活者や、手工業者や農民や、これらすべての階級は、なかばは彼らの小資本が大工業の経営に十分でなく、より大きな資本家との競争にまけるために、なかばは彼らの熟練が新しい生産様式によって価値をうばわれるために、プロレタリアートに転落する。こうしてプロレタリアートは、人口中のあらゆる階級から補充される。」(『共産党宣言』)


 資本主義的蓄積の発展とともに、労働者階級以外の圧迫され、搾取されている諸階級は、すべて、社会的人口にたいして相対的に(ある場合には絶対的にさえ)減少する。それに反して労働者階級は「人口中のあらゆる階級から補充される」ことによって、相対的にも、絶対的にも、たえずその数を増大し、住民人口中の支配的多数を占めるようになる。これこそ文字どおりの社会的勢力の増大である。

(注)
 マルクスは、そのことを「雇用労働者」(とくに工場労働者)がまだ人口中の比較的少数を占めていたころから明瞭に予見していた(たとえば『共産党宣言』)。マルクスの予見が科学的に正確なものであったことは、マルクスの生存当時から現代にいたるまでの資本主義の歴史がそれを疑問の余地なく立証している。

 ここではつぎのことがあきらかになった。すなわち、労働者の「数」としての存在が、たんに資本の増大とともに増大するだけではなく、社会の人口のなかでの支配的な多数を占めるまでに発展することが法則的な必然だとすれば、もしそのような「数」が──「団結によって結合され、知識によって導かれる場合」には、それは、たんに個々の資本の集積や結合に立ちむかうことができるだけではなく、社会そのものを動かし、変革する社会的な力に成長することができるということである。労働者階級が世界史的役割を果たすために必要な、労働者階級の組織化のための前提が、ここにはあたえられている。

 しかし、労働者階級がその歴史的役割を果たすためには、彼らの「数の力」すなわちその「量」が、基本的な前提であるとしても、「質」の問題がそれにともなわなければならないのはいうまでもない。「数の力」の質が団結や指導に規定されることはいまも述べたことだが、それより以前に、いわば原点の位置にある、あるがままの労働者の集団をふりかえってみた場合に、すでに、それが、けっして単一の構成から成りたっているわけではない、という事態が現われている。そこにみのがすことのできない問題がおかれている。その意味では、労働者階級の、単一ではない、複雑な、内部的構成というのは、なによりもまず、あるがままの労働者の「数の力」の、質的側面を表現しているのである。さらに、その点の検討をすすめることにしよう。

 労働者の社会的集団、あるいは階級が、複雑な内部的構成をもつということは、その一部は、労働者階級がどのような源泉からその社会的勢力を増大させるか、という事情にもかかわっている。労働者階級の社会的勢力の増大は、無産のプロレタリアとしての労働者家族そのものの自己増殖によってもおこなわれるが、「人口中のあらゆる階級からの補充」によってもおこなわれるからである。

この場合の「あらゆる階級」というのは、すでにマルクスの指摘にもあったように、主として「下層の中産身分」(小ブルジョアジー)の没落によるものである。したがってこの後者による補充は、一面では、労働者の「数」と可能性とを増大させるが、他面では、労働者階級の隊列のなかに「昨日までの小ブルジョアジー」に固有の保守的で動揺的な生活感情、慣習、イデオロギーなどをもちこんでくることが、むしろ避けられない。これは量的には、または可能性としてはプラスだが、質的には、または現実性としては、すくなくとも当面は、マイナスに作用することが少なくない、ということである。

 しかも、それだけではない。このような小ブルジョア的な諸階層からの補充は、慣習やイデオロギーだけではなく、しばしば、たとえ部分的であり、もはや「遺物」であるにすぎないにせよ、なんらかの古い物質的基礎をひきずっている場合が少なくない。たとえば、エンゲルスは『住宅問題』のなかで、ドイツ資本主義に固有の低賃金と、小住宅、小菜園をもった「信心深い」ドイツの地方労働者との因果関係を指摘しているが、同様の問題は、現代日本の一〇〇〇万人に近いといわれる、農村に関係のある労働者にとっても、無関係だなどとはいわれない。

 以上は、労働者階級の「数」の補充が、小ブルジョア的な諸階層からの流入によっておこなわれる場合だが、このほかにもなお、労働者階級の内部から発生する下方への脱落、あるいは沈殿という現象がある。たとえば、マルクスやエンゲルスが「無気力な腐敗物」、「同盟者のなかでの最悪のもの」と規定したルンペン・プロレタリアートがそれである。

いうまでもなく、これらの労働者階級の最下層は、一九世紀の中ごろには、むしろ主として「旧社会の最下層」から生みだされることが多かった。それにたいして、現在では、資本主義の生産過程からなんらかの理由で反発(失業者、さらに被救恤(きゅう‐じゅつ……貧乏人、被災者などを助けめぐむこと)者)されたり、差別的、孤立的な条件で、資本主義生産に不完全に包摂(半失業者)されている結果として、そうなっている場合の方が一般的である。そして、現代の労働者階級の強力な援助によって、ルンペン化を、くいとめているばかりか、かえって階級的、民主的な労働組合組織を形成している全日自労のような場合も現われている。

だがそれにもかかわらず、──後でまた検討する予定だが──今日われわれが、最新式の近代工場の内部にさえ見うける「入れ墨のある労働者」(一部の社外工)の場合などは、彼らの存在が、すくなくともそのままでは、プロレタリアートの組織化を妨げるための材料として、独占資本の利用にまかせられていることはたしかである。

 こうして、これだけのことを述べただけでも、労働者階級の統一的な組織化という立場からいって、無視するわけにはいかない、それどころかきわめて重要な問題が、そこに現われている。いままでのところでは、まだたんに、労働者階級の数の増大が、どこからくるのか、またどこへいくのかということを表面的に、あるいは部分的に観察したにすぎないが、それでも、それは、労働者階級の構成が必ずしも単一なものではなく、つねに複雑な多階層的な内容をふくまざるをえないことを示唆しているからである。

 しかし、いままでに述べたのは、主として、イデオロギー、生活慣習、またはせいぜいのところ経済的な遺制の残存に関連しておきる階級内部の多階層化──そういうものとしての分裂可能性であった。だが、いうまでもなく、より重要な意味をもつのは、物質的な基礎をもったもの、資本主義制度に内在する諸要因によって規定されたものである。

そういう意味からいうと、われわれは、なによりもまず、労働者階級の単一でない、複雑な、階層的な構成を導きだす、物質的、客観的な条件としての、──資本主義的分業(社会的および工場内の)と不可分に結びついた、職種や技能の多面的な構成に目をむけなければならない。
(堀江正則著「戦後労働者階級の構成変化」労働組合運動の理論C 大月書店 p169-175)

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◎「労働運動が、人口の七割をしめる労働者階級の多数を結集する運動をめざして新たな前進」と。