学習通信060518
◎ワイフセール……

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 ところで、君たち共産主義者は女性共有制を採用しようとしていると、ブルジョアジー全体はわれわれに反対する叫びを合唱する。

 ブルジョアは、自分の妻をたんなる生産用具と見ている。彼は、生産用具が共同で利用されるべきだと聞くと、当然、共有の運命が女性にも同じようにあてはまるであろうとしか、考えつくことができない。

 問題はまさに、たんなる生産用具としての女性の地位を廃止することにあるとは、ブルジョアは感づかないのである。

 そのうえに、共産主義者のいわゆる公認の女性共有制についてのわがブルジョアたちの高潔なおどろきほど、笑うべきものはない。共産主義者は女性共有制を取り入れる必要はない、それはほとんどつねに存在していたのである。

 わがブルジョアたちは、公認の売春制度のことはまったく問わないとしても、彼らのプロレタリアたちの妻や娘を自由にすることで満足せずに、彼らの妻を互いに誘惑しあうことを最高の楽しみとしている。

 ブルジョア的結婚は、現実においては、妻たちの共有である。ひとが共産主義者を非難できるとしても、せいぜい、共産主義者が、偽善的におおい隠された女性共有制の代わりに、公認の、公然たる女性共有制を取り入れようとしている、ということくらいであろう。

それはともかくも、現今の生産諸関係の廃棄とともに、それから生ずる女性共有制、すなわち公認の、および非公認の売春制度もまた消滅するということは自明である。
(マルクス・エンゲルス「共産党宣言」新日本出版社 p80-81)

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ワイフセール

 イギリスにはワイフセールという奇妙な風習があった。イギリス以外の国にもあったかどうか、わからないが、フランス人がイギリスヘきて、この風習を見ておどろいたというからフランスにはなかったのだろう。イギリスでいつからあったのかもよくわからないが、中世にはなくて(あるいはあったとしてもきわめて稀で)、ひんぱんに見られるようになるのは一六世紀中期以降で、最盛期は一八世紀末から一九世紀前半であったというから、ちょうど産業革命期である。二〇世紀になっても完全にはなくならなかったらしい。

 妻を売るといっても金に困った亭主が妻を水商売にだすという話ではない。そうではなくて、これは一種の離婚のためのセレモニーである。ただしこのセレモニーは女性にとってはたいへん屈辱的なものであった。たいていは夫婦合意の上での離婚なのだが、妻の首にロープをかけ、町や村のなかをひきまわし、広場かパブでせり売りにかけるのである。これは家畜のせり売りと同じやり方なので、しばしばこの「妻売り」は、ロンドンの家畜市場の名をとって「スミスフィールド・バーゲン」とよばれた。値段は、時には数十ポンドなどという高値のときもあったが、たいていはニシリングとか、せいぜい五シリングぐらいの安い値段で、ようするに金目当ての「妻売り」ではなかったのである。

それでは何のためにこのような人格無視の儀式がおこなわれたのかというと、これは正式に離婚をしようとすると費用がかかるので安上がりに離婚をするために考え出された民衆の知恵の産物なのである。

そのように見てみるとフランスはカトリックで離婚そのものがみとめられていないし、イギリスでも一六世紀まではカトリックだったのだから、この儀式はプロテスタント時代のものといえる。しかし同じプロテスタントでも離婚手続きが簡単ならこういうことは行われないのだが、イギリスはプロテスタントといってもかなり中途半端なプロテスタントでカトリック的なものを残していたから、離婚の手続きは一八五七年に離婚法ができるまではきわめて煩雑であり、とても庶民に手の出るようなものではなかった。

そこで一九世紀ぐらいになって教会があまりうるさく言わなくなってくると、たとえば結婚式でも牧師を連れてきてパブですませるとか、フリートストリートにあった債務者刑務所に入っている牧師に頼んでそこで結婚式を挙げるとか、いろいろな安上がりの便法が考え出されてくる。ワイフセールもそのひとつであって、なかには、ほかに男がいてこの男が売りに出された妻をせりおとす手はずがととのっていることがあったり、あるいは途中で見物していた女性が怒りだして妻を売ろうとしていた男が逃げだしたこともあったという。

 しかし、それにしてもこのセレモニーのスタイルはあまりにも異常である。なぜこういう異常なスタイルをとったのかということについては、納得のいく説明は見当たらない。やはり基本には妻は夫の所有物という考え方があるのであろう。一八世紀といえばブルーストッキング協会という知識人女性の集まりが生まれ、一七九二年にはウルストンクラフトの『女性の権利の擁護』という女性解放の先駆的な書物が現れるという時代であった。それでもなお、このような女性を奴隷と同一視するような風習が残っているどころか、かえって最盛期を迎えたということにはおどろくほかはない。

チャーティスト運動と女性

 こういう時代であるから女性が社会でも家庭でも差別され、労働組合においてさえ差別されていたことはむしろ当然であった。『共産党宣言』の最初の英語訳者ヘレン・マクファーレンが女性解放を主張したことは先に述べたが、こういう主張は急進派の雑誌にはかなり見られる。なかにはアーネスト・ジョーンズが編集者となっていた『ノート・トゥ・ザ・ピープル』のように「女性にたいする不正」という長編の小説を連載し、またシェフィールドの「女性の権利協会」の集会決議(一八五一年一二月一七日)を紹介して「国民の間における啓蒙と文明の最大の尺度は女性に対する評価と社会におけるその影響である」とフーリエ風のコメントを加えているものもあった。

チャーティスト左派のファーガス・オコンナーとジョーンズが編集していた『レーバラー』という雑誌は一八四八年の第四巻にS・Sというペンネームの「イギリスにおける女性の隷属」という論文をのせているが、そこでは工場における女性の過酷な労働についてだけでなく、家庭における男性への従属についても告発している。子ども時代を貧しく教育を受けることもなく育った女性は、結婚すると「なんの楽しみもない家庭の主婦となり、おそらくは粗暴で大酒飲みの暴君の支配の下に首根っこをおさえられる。労働者階級の人びとが『かかあ天下』であることはめったにないと信ずべき理由がある。かれらはほとんどつねに鉄の鞭で支配しているのだ」

 ところがこのように女性の隷属を告発しているこの論文が、それでは女性の地位をどのように考えているかというと、それは現代風に言えば性別役割分担論なのである。「家庭内の義務を果たすことが文明生活における彼女のほんらいの職務なのである。──家庭の管理──子育てと教育──家計のやりくり──家族の必要の充足」。ところが工場制度がこれをこわしてしまった。少女たちは工場で働くうちに悪の道におちいり、主婦が家庭からひきはなされることによって「社会をむすびつけている主要なきずなのひとつ、すなわち家庭がこわされた」。

したがってこの論文が主張している女性解放の手段は良い家庭をつくることにある。女性の解放は「おそらく社会の全構造と制度を含む大きな、そしてもっとも包括的な問題である」としつつ、この著者はさしあたり快適な家庭と教育を与えよといい、そしてそのためには妻や子どもまで働きに出なくてもいいように、夫の賃金を引き上げよと主張するのである。このような考え方は現代から見れば結局は男性優位の社会を肯定し、女性を家庭に閉じ込めるものだという批判をうけるであろう。しかしこれがその当時としては、エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』もふくめて、進歩派の一般的な女性解放論であった。

 チャーティスト運動もまた、そのもっとも進歩的な局面においてさえ、このような女性観にもとづいていた。チャーティスト運動における女性という問題についてはドロシー・トムソンが『アウトサイダーズ階級、ジェンダー、ネイション』(一九九三)(古賀秀男・小関隆訳『階級・ジェンダー・ネイション』)であつかっているが、それによると女性の政治運動は一八世紀末から活発になり、一九世紀のはじめ一時停滞するが、チャーティスト運動のなかでふたたび高揚する。

一八三八年五月に発表された有名な「人民憲章」は男子普通選挙権を要求しただけで、女性の選挙権までは要求していなかったが、これに対して各地から女性選挙権要求をふくめるようにという声があがり、のちの第三版で、この要求はもっともだけれども、しかしこの点については「無知と偏見」がまだ多いので、これを取りいれると運動の妨げになるという釈明をおこなった。トムソン前掲書によれば一八三八年六月の『ノーザン・スター』に女性選挙権を要求する手紙が掲載されているという。

各地の集会にも女性の参加者は多く、なかには女性だけの集会もあった。『レッド・リバブリカン』の編集者ジュリアン・ハーニーが女性にたいへん人気があったという話はさきに書いたが、もう一人ヘンリ・ヴィンセントというチャーティストも女性に人気があり、一八三八年のバーミンガム集会には五万人の女性が参加し、バスでは五千人の女性だけの集会がひらかれた。このとき、一人の男が女装して集会にもぐりこみ発見されてつまみ出されたという話がR・G・ガメイジ『チャーティスト運動の歴史、一八三七〜一八五四』(一八五四)にのっている。

女性のチャーティスト団体もロンドン東部女性愛国協会、女性チャーティスト協会(各地に地域名をつけた同じ組織)、女性政治同盟、ロンドン女性民主協会など二〇以上にのぼった。ちょっと余計なことだが「愛国的(patriotic)」という言葉はこの当時は「在野の」とか「革新的」というようなニュアンスで使われており、また「民主的」という言葉が衆愚支配というイメージからプラスイメージに変わっていくのもこのころである。

 女性がよく用いた戦術は不買運動であった。つまり人民憲章を支持しない店では買い物をしないという戦術である。これはところによってはかなり成果をあげたとトムソンはいっている。

 このようなトムソンの研究に「性的抑圧」の視点がないといって批判したのはJ・シャルツコフ『チャーティスト運動のなかの女性』(一九九一)である(この書物はトムソンの前掲書ではなく、それ以前の著作への批判であるが、前掲書についてもほぼ妥当するであろう)。もちろんトムソンにも女性をアウトサイダーとしてとらえるところに男性優位社会への批判的な視点を見ることができるのであるが、しかし彼女は当時の政治運動への女性のかかわりの積極面だけを強調し、その限界を指摘していないといわなければならない。これにたいしてシャルツコフは「チャーティスト運動のひとつの側面は政治行動という手段によってこの[男性の]権威を高める企てをふくんでいた」というのである。いくつか例外はあるけれども、全体としては女性チャーティストの役割は男性の選挙権獲得を応援するということにとどまったのである。

女性自身の活動ももちろんあったけれども、彼女たちに期待されたのは、政治活動に奮闘する男性のために家庭を守り、子どもを育て、時には投獄された夫のためにカンパをあつめ、激励するというものであった。夫の投票のうちに妻や家族の意思も含まれているのだから女性に選挙権を与える必要はないとか、政治は男性にまかせ女性は家庭に帰れとかというミドルクラスの主張に対しては反発しながらも、しかしやはり女性チャーティストは「家庭中心主義(home-centredness)」からぬけきれなかった。

 このようにトムソンを批判しつつ、シャルツコフは男性優位の社会そのものに異議をとなえた何人かのケ−スを紹介している。たとえば、アン・ナイトというクエーカーの女性は奴隷解放運動に参加しようとしたとき、女性の代議員は認められないとして参加を拒否されたことに憤慨し、それ以後、女性の権利を主張し続けようと決意し、チャーティストが男性選挙権(male suffrage)を普遍的選挙権(universal suffrage)と呼んでいることを批判して、これをパーソナル選挙権と呼ぶべきだと主張した。maleがuniversalではないのである。同じことを主張してチャーティストの機関紙『ノーザン・スター』に抗議を申し入れた「ヴィタ」と名のる匿名の女性もいた。メアリ・ウルストンクラフトの書物はチャーティストのなかでもかなり読まれたらしいが、それは主として女子教育の必要を説いた書物としてうけとめられたにとどまった。

そういうなかでシャルツコフが「社会主義フェミニズムの最初の宣言」として紹介しているのは、ウィリアム・トムソンとアン・ウィーラーとの共著『人類の半分である女性を政治的に、したがって社会的にも家庭内でも隷属させている他の半分である男性の主張に反対する訴え』(一八二五)である。この書物はジェームズ・ミルの『統治論』に対する批判として書かれたものであるが、女性差別の根源は競争社会にあり、それが女性をも男性をもゆがめている。競争社会では女性は男性とライヴァル関係にあり、そのために男性は女性を力で屈服させようとするのだ。

したがって女性と男性との完全な平等のためには競争社会をのりこえて協同社会をつくらなければならない。この著者たちは、現在の社会では女性の隷属は結婚において頂点にたっするという。この点にも、家庭を守るものとして女性を位置づけていたチャーティストとの違いがあるが、しかしウィーラーたちも結婚すべてに反対していたわけではなく、結婚が財産と結びついていたり、愛情を失った男女がなお形だけ夫婦であり続けたりすることへの反対なのであった。これは私有財産と宗教とともに「現在の結婚の形態」を社会改革への三つの障害のひとつとしたロバート・オウエンの立場と共通のものであり、エンゲルスの『空想から科学へ』(一八八二)の結婚観とも共通している。

女性の進出

 男性と女性がもっともライヴァルな関係にあるのは労働市場である。女性が労働市場に登場するということは男性の分野への「侵入」であった。もちろん中世においても女性が家事以外の労働をしていなかったわけではない。しかしそれは男性の仕事と競争関係に立つようなものではなく、いわば男性を補完するようなものであった。したがって商工業の独占組織であるギルドには原則として女性の加入はみとめられなかった。もっとも一五〇三年にサウサンプトンで羊毛を箱詰めする女性たちの女性たちだけのギルドがみとめられたというケースがあるが、これは稀有の事例であろう。

 一七、八世紀にギルド制度がくずれてくると女性の進出が目立ってくる。とくにイングランド西部や北部の農村毛織物工業では女性が大きな役割をしめるようになった。こういう農村工業にはギルドはなかったけれども、さきにのべたように織物職人の組合がつくられており、徒弟制度は維持されていた。一八世紀になると女性の徒弟があらわれるようになる。職業によっては徒弟の三分の一が女性であったともいう。その多くは救貧法の負担を減らすために教区によって徒弟に出されるいわゆる教区徒弟であった。紡績や織布以外でも女性が働くようになり、たとえば製鉄業の中心であったバーミンガムでは鍛冶屋でも女性が働いていた。

ウィリアム・ハットン『バーミンガムの歴史』(一七八一)は、彼がこの町に入って女性の鍛冶屋を見て驚いたときの様子をつぎのようにえがいている。「道路沿いにたくさんの鍛冶屋の店があるのに驚いた。……これらの店のいくつかでは一人あるいはそれ以上の女性を見かけたが、彼女たちは上着を脱ぎ、下着もあまりつけずに、女性らしく優雅にハンマーをふりまわしていた。その美しい顔は鉄床の鉄粉でよごれ、もっと詩的に表現すれば、キスで奪われるはずの彼女たちの唇を炉の炎が奪っていた。珍しさのあまり『この地方のレディは馬の蹄鉄をうつのですか』と私がたずねると、微笑しながら『私たちは釘をつくっているのです』と答えた」

 徒弟を終えると職人(ジャーニーマン)になるのだが、これは多くはなかったようだ。しかし、ジャーニーマンにたいしてジャーニーウーマンという言葉が使われていた例があるから女性の職人もいたのであろう。そのうえの親方となると、これはほとんど皆無であったといってよいであろう。

 労働組合は主として職人層によって組織されていたから、女性は労働組合への加入をみとめられていなかった。その業種に女性労働者がたくさんいる場合でもそうであった。イギリスの典型的な熟練労働者の組織である合同機械工組合は、じつに一九四三年にいたるまで女性の組合加入をみとめなかったのである。こういう女性排斥はしばしば労使間の協定に明記されていた。

たとえばロンドンのスピタルフィールズの絹織物職人の組合は一七六九年に労使協定で女性が賃金の高い仕事につくことを禁止させ、組合からも排除した。さらに女性の就業をいっさい禁止するよう求めた場合もあり、資本の側が低賃金で女性を働かせようとするとストライキになる場合もあった。こういう女性排除の傾向は一八世紀にとくにつよまったのであるが、これは逆に言えばそれだけ女性の進出がすすんだためといえるであろう。
(浜林正夫著「パブと労働組合」新日本出版社 p163-172)

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◎「問題はまさに、たんなる生産用具としての女性の地位を廃止することにあるとは、ブルジョアは感づかないのである」と。