学習通信060529
◎二つの異なった物のなかに……

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幼児と数

 就学前の幼児に数の指導はいるのか、いるとすればどんなやり方がよいのか、という質問がよせられています。

 子どもは生活(あそび)のなかで、自然に数や量にぶつかります。その機会をとらえることのできる親でありたい……と考えます。たとえば台所で、

親「わっ、おいもころころ、ころがったな。たくさんちらかったなあ。こっちのお豆と、どっちがたくさんあるのかな」

子ども「おいも」
親「そうかなあ、とうさん、お豆の方がたくさんある、と思うぞ。くらべてみようか」

 イモと豆と一個ずつ対応させて、あまった方が多い。

 絵本をみていて
親「ゾウとネズミとどっちがたくさんいるかい?」
子ども「ゾウ」

子どもには「多い」「少ない」が、「大きい」「小さい」とこんがらがることがあります。

 目にうつる形にとらわれてしまって、抽象的に思考することが不得手なのです。
 おやつのお菓子の配分などの機会をとらえて、いろいろの形や大きさのもので数をとりあつかわせておくとよろしい。この点で、保育園や幼稚園では生活(あそび)にそったよい教育ができます。数も暗記させるようなのはけっしてよいやり方ではありません。

 子どもと、反対(語)ごっこをやってみましょう(ここでは数量の例だけ)。「大きい」「小さい」。「多い」「少ない」。「高い」「低い」。「短い」「長い」。そのうちに「広い」の反対「せまい」が「近い」になったり、「太い」の反対が「せまい」になったりします。

 日ごろの生活経験のなかから言語化(抽象思考)を練習しておくとよいのです。

「ここに飼い犬が四匹います。むこうから三匹きました。犬は何匹になったでしょう?」と聞かれた一年生が、「アトカラキタ犬ハ飼イ犬? ソレトモ野犬?」「野良犬ダッタライッショニイナイヨ」と答えたそうです。子どもは感覚と知覚にひっかかるので、四たす三は七という抽象がむずかしいのです。

 このへんのところを幼児の生活のなかで、自然な形で援助しておくことは、のちの知性の発達、ひいては人間形成の上によいことです。
(近藤・好永・橋本・天野「こどものしつけ百話」新日本新書 p76-77)

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数学の特徴

 それでは,数学の学問的な特徴はどのようなものでしょうか.

 それは,抽象的であること,抽象的であることによってかえって広い適用範囲をもっていること,そしてどんなに抽象的に見えても現実世界の中にその根をもっていること,などです.

 数学は抽象的であることが,身近に感じられない大きな理由になっています.ところで,「抽象的」とはどういうことでしょうか?

 たとえば,サッカーの世界選手権大会の決勝戦で,PK合戦になっているとします.サッカーファンのあなたはキッカーやゴールキーパーのようすを一心に見つめていることでしょう.このとき,守備側の別の選手の左手などということには無関心でしょう.そんなことは「見えていても見ない」のです.この「見えていても見ない」「ありのままに見るのではなく,関心あることだけを抜きだして注目する」ことが「抽象する」ということです.それは日常生活の中で,私たちが意識せずにやっていることです.

 数学が抽象的でむずかしいと受け取られるのは,数学での抽象が日常無意識にやっていることを「意識的に」「徹底的に」やろうとするからなのです.「意識的に」するには努力が必要です.「徹底的に」すれば,日常の常識や実感からはなれる場合も出てきます.

 たとえば「3」という数を考えます.この世界に現実にあるのは「3」そのものではなく,「3人の人」・「3個のリンゴ」・「3リットルの水」……などです.3という数はこれらのさまざまな対象から,人・リンゴ・水……などの具体性,そのものが人・リンゴ・水……であって,ほかのものではないということを示す「質」を捨てさって得られる概念です.数学ではこのように,対象の質的な側面を捨てて量的な側面だけに注目する,という抽象をします.

 また,野球のボールも地球もともに「球である」ととらえますが,野球のボールと地球では大きさも内実もまったくちがいます.しかし数学では「ともに球である」ととらえるのです.このように,対象の内容は捨てて型(形式)だけをとらえようとします.

 このような徹底した抽象のために,数学の主張はいったん現実そのものからは遠いものになるように見えます.その正しさは,すでに確かめられた数学的な事実から,「考えること」によって証明する以外には確かめられません.証明は「“A”あるいは“Aということはない”のー方だけが成り立つ」「“A”が成り立ち,“AならばB”が成り立てば,“B”が成り立つ」などのいくつかの型(形式論理)に基づいて書き表されます.それで,しばしば数学は論理的であるなどといわれます.

 また,「異なった物事の中に同じ構造(仕組み)を見る」ということも数学の大きな特徴です.異なった物事の中にある共通した構造(仕組み)をそれとして抽象的に研究することによって,その結論はその構造をもつどんな具体的な世界にでも,すべて共通に成り立ちます.つまり,抽象的であることによってかえって広い適用範囲を得るのです.

 数学は抽象的であるということだけを強調してきましたが,数学を学び活用するには反対の側面が重要です.

 数学の内容はどんなに現実世界から遠く見えても,それは現実世界からの抽象です.根は現実世界の中にあるのです.だから,数学を学ぶときには,頭の中に具体的なモデルや実例を思い浮かべることができます.そして「今この計算をしているのは,このモノ・コトをこうすることなのだ」というように解釈することができ,あるいは「このモノ・コトをこうすることは,数学としてこのように表現できるはずだ」などと考えることもできるのです.

 よく「数学は答が一つだ」といわれます.「誰がやっても答が一つだからはっきりしていて好き」という人もいれば,「誰がやっても答が一つだなんて人間的でなくてきらい」という人もいます.しかし数学の一つの主張にも,どんなモデルや実例を思い浮かべて理解しているかによって,いろいろな顔や表情があるのです.思い浮かべるモデルや実例がちがえば,つぎの展開も変わってきます.数学の内容の関連づけ方やつなげ方は,じつは相対的で自由なものなのです.何が定義で何が性質なのか,何が仮定で何が結論なのか,たえず入れ替わります.さまざまに立場を変えて述べることができます.

 この本では,数学の抽象性を念頭におきながら,それが現実世界からどのように抽象されてくるか,現実世界の中でどのように生きて働くものなのか,に光をあててみようと思います.以下の章を,そういうものとして読んでいただければ幸いです.
(町田算数数学サークル 増島・石井編著「なるほどなっとく数学再挑戦」日本評論社 p9-11)

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 さらに、二つの商品、たとえば小麦と鉄とをとってみよう。それらのものの交換比率がどうであろうとも、この比率は、つねに、ある与えられた分量の小麦がどれだけかの分量の鉄に等置される一つの等式、たとえば、1クーターの小麦=aシェントナーの鉄 によって表わされうる。

この等式はなにを意味するか? 同じ大きさの一つの共通物が、二つの異なった物のなかに、すなわち一クォーターの小麦のなかにもaツェントナーの鉄のなかにも、実存するということである。

したがって、両者は、それ自体としては一方でもなければ他方でもないある第三のものに等しい。したがって、両者はどちらも、それが交換価値である限り、この第三のものに還元されうるものでなければならない。

 簡単な幾何学上の一例がこのことを明らかにするであろう。およそ直線形の面積をはかり、比較するためには、それをいくつかの三角形に分解する。

三角形そのものは、その目に見える形とはまったく異なる表現──底辺×高さ÷2──に還元される。これと同じように、諸商品の諸交換価値もある共通物に還元されて、諸交換価値は、この共通物の多量または少量を表わすことになる。

 この共通なものは、商品の幾何学的、物理学的、化学的、またはその他の自然的属性ではありえない。

そもそも商品の物体的諸属性が問題になるのは、ただ、それらが商品を有用なものにし、したがって使用価値にする限りでのことである。

ところが、他方、諸商品の交換関係を明白に特微づけるものは、まさに諸商品の使用価値の捨象である。

この交換関係の内部では、一つの使用価値は──それが適当な比率で存在していさえすれば──他のどの使用価値ともまったく同じものとして通用する。あるいは、老バーボンが言うように、

「一つの種類の商品は、その交換価値が同じ大きさならば、他の種類の商品と同じである。同じ大きさの交換価値をもつ諸物のあいだには、いかなる相違も区別も実存しない」。

 使用価値としては、諸商品は、なによりもまず、相異なる質であるが、交換価値としては、相異なる量でしかありえず、したがって、一原子の使用価値も含まない。
(マルクス著「資本論@」新日本新書 p63-64)

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◎「目にうつる形にとらわれてしまって、抽象的に思考することが不得手なのです」と。