学習通信060602
◎貧乏であること(は)罪……

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 しかし、プロレタリアートにたいするブルジョアジーのもっとも露骨な宣戦布告は、マルサスの人口論と、そこから生まれた新救貧法である。

マルサスの理論についてはすでに多くのことが語られている。

そのおもな結論を簡単にくりかえしておくと、世界はつねに人口過剰であり、したがってつねに窮乏、困窮、貧困、不道徳がひろがらざるをえないこと、あまりにも数が多すぎ、したがって、さまざまな階級に分かれて生存するということは、人類の運命であり、永遠のさだめであって、さまざまな階級のうちには、多かれ少なかれ豊かで、教養があり、道徳的な階級もあれば、多かれ少なかれ貧しく、みじめで、無知で、不道徳な階級もあるということである。

そこでここから次のような実践的結論がでてくる──この結論はマルサス自身がひきだしたものだ──慈善や救貧基金は本来不合理なものだ。

なぜなら、それらは、競争によって他人の賃金をおさえつけている過剰人口を維持し、それを増加させる剌激となるだけの役にしか立たないからである。

救貧委員会によって貧民を仕事につけることも、同じように不合理である。なぜなら、消費できる労働生産物は一定の量しかないのだから、失業している労働者を仕事につけるたびに、これまで働いていた別の労働者が失業せざるをえず、またこうして民間の産業は救貧委員会の管轄する産業の負担で被害をうけるのである。

したがって過剰な人口をどうやって養うかが問題なのではなく、なんらかの方法でできるかぎり人口を抑制することが問題なのだ。

マルサスは、この世に生存するすべての人は生存の手段にたいする権利をもつという従来の主張を、まったく無意味なものだと、あっさりと宣言している。

彼はある詩人の次のような言葉を引用している。

貧民は自然の饗宴にきてみても、自分のための空席がないことに気づく。──そしてこうつけ加えている──そして自然は彼に行ってしまえと命ずる──「なぜなら彼は生まれてくる前に、社会が彼をうけいれる気があるのかどうかを、あらかじめ、たずねなかったからである」。

この理論はいまやイギリスの生粋のブルジョアすべてのお気にいりの理論であるが、それはまったく当然のことである。

なぜならそれは彼らにとってもっとも快適な寝椅子であり、そして現在の社会ではもともと正しい点が多いからである。

このように「過剰人口」を利用すること、つまり、それを雇用可能な人口に変えることがもはや問題ではなく、人びとをできるだけ楽な方法で飢えさせ、同時に彼らがあまりたくさんの子どもを生まないようにすることが問題であるとすれば、それは当然簡単なことである──ただし過剰な人びとが自分たちは過剰だどいうことを認識し、よろこんで餓死するという前提があればのことだが。

しかし、人道的なブルジョアジーがこういうことを労働者に教えこもうと全力をあげて努力しているにもかかわらず、いまのところ、まだその見込みはない。

むしろプロレタリアは、勤勉な働き手である自分たちこそが必要とされているのであり、なにもしていない金持の資本家諸氏はもともと余計なものだということを確信しているのである。

 しかし、金持がまだ権力を握っているので、プロレタリア自身がすすんでこのことを認識しようとしないかぎり、彼らは法律によって実際に過剰なものと宣告されるのを、うけいれなければならない。

新救貧法のもとでこういうことが生じている。一六〇一年(エリザベス治世第四三年)の法律にもとづく旧救貧法は、まだ素朴にも、貧民の生計について配慮するのは教区の義務であるという原則から出発していた。

仕事のない人は救済をうけ、そして貧民は、正当にも、彼らを餓死から守ってくれるのは教区の義務だと、長いあいだ考えていた。

彼は毎週の救済を、恩恵としてではなく、権利として要求したが、ついにブルジョアジーはこれに我慢できなくなった。

一八三三年、ちょうどブルジョアジーが選拳法改正によって支配権を握り、同時に農村地帯の貧困がその頂点にたっしたときに、彼らはすぐ、彼らの立場から救貧法の改正に着手した。

救貧法の運営を調査する委員会が任命され、その乱用をたくさん発見した。

農村の労働者階級全体が受救貧民となっており、全面的あるいは部分的に救貧基金にたよっていることが分かった。

というのは、賃金が低いときには、救貧基金から貧民にたいして補助が与えられていたからである。

この制度によって失業者の生活が維持され、低賃金のものや多くの子どもをかかえたものが救済をうけ、私生児の父はその養育費を支払うようもとめられ、そして一般に貧困は保護を必要とするということがみとめられていたことがあきらかとなった──この制度は、国を滅ぼし、「エ業の障害となり、軽率な結婚に褒美をだし、人口の増加に刺激を与え、人口の増加が賃金に影響をおよぼすのをおさえる。

それは勤勉なものや正直ものの元気を失わせ、怠けものや放蕩ものや思慮分別のないものを保護するための国の制度である。

それは家族のきずなをこわし、資本の蓄積を組織的に妨げ、現在ある資本を解体し、納税者を破滅させる。

さらにそれは養育費の形で私生児に奨励金を与える」、以上のことに人びとは気づいたのである(救貧法委員の報告のなかの言葉)。

──旧救貧法の作用にかんするこの叙述は全体として、たしかに正しい。救済は怠惰と「過剰」人口の増加を助けている。現在の社会関係のもとでは、貧民は利己主義者にならざるをえないし、もし彼がえらぶことができ、どちらをえらんでも楽に暮らせるのなら、働くよりもなにもしない方を好むのは、まったくあきらかである。

しかし、そこからでてくる結論は、現在の社会関係はなんの役にも立っていないということだけであって、──マルサス主義の委員たちが結論したように──みせしめという考え方にしたがって貧困を犯罪としてあつかうべきだということではない。

 しかし賢明なマルサス主義者たちは自分たちの理論に誤りはないということを確信していたので、なんのためらいもなく、型にはまった自分たちの意見に貧民をあわせ、それにしたがって貧民をむかむかするほど冷酷にあつかってきた。

彼らはマルサスやその他の自由競争の信奉者とともに、自分の世話は自分でやり、自由放任をつらぬきとおすことがいちばんよいと確信していたので、救貧法は完全に廃止するのがもっとも望ましいと考えていた。

しかし彼らはそうする勇気も権限もなかったので、できるだけマルサス的な救貧法を提案したが、これは自由放任主義よりももっとひどいものだった。

なぜなら、自由放任主義が消極的にしかはいりこまないところへ、それは積極的にはいりこんでくるからである。

すでに見たように、マルサスは貧困を、もっと正確にいえば、失業を、過剰という名のもとに犯罪であると宣言し、社会はこれに餓死という刑罰を加えるべきであるとした。ところが救貧法委員はそれほどは残酷ではなかった。

むやみに直接に餓死させることは、救貧法委員にとってさえ、あまりに恐ろしいことであった。よろしい、と彼らはいった、貧民諸君にも生きる権利はある、しかしただ生きるだけの権利だ。君たちには繁殖する権利はない。同じように人間らしく生きる権利もない。

君たちは国の災いなのだ。われわれは、国のほかの災いと同じように、君たちをすぐにとりのぞくことはできないにしても、君たちは、自分がこういう災いであり、少なくとも抑制されるべきであると感じ、また、直接に、あるいは、他人を怠けさせ、失業するよう誘惑して、これ以上に「過剰な人びと」をつくってはならないと感ずるべきである。

君たちも生きていくがよい。しかし、やはり過剰になるかもしれない人びとへの、いましめの見本として生きていけ。

 そこで彼らは新救貧法を提案した。それは一八三四年に議会を通過し、現在にいたるまで有効である。現金または生活手段による救済はすべて廃止された。ただ一つ、みとめられている救済は、いたるところにいそいでつくられた貧民作業所への収容である。

この作業所(workhouses)、あるいは人びとが救貧法バスティーユ監獄と呼ぶこの施設は、こういう公共の慈善をうけなくてもなんとかやっていける見込みのある人なら、誰でもふるえあがるようなところである。このように、もうどうしようもなくなった場合以外は救貧基金を要求しないようにし、また誰でも、救済をうけようと決心する前に自分で最大限の努力を払うようにするために、作業所は、マルサス主義者たちが抜け目のない才能をもって考えだしたかぎりの、もっとも嫌がられる居住施設としてつくられている。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 下」新日本出版社 p140-144)

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貧民の監禁と教育

浮浪者と乞食の収容

 近代のはじまりのとき、経済面でいえば資本主義発生の時期に、労働はどういう状態にあったのだろうか、あるいは労働する人間にどのような運命がおそいかかっていたのだろうか。この時代の労働状況を考えることは、その後の労働のありかたを考えるための大切な前提になると思われる。初期近代において労働がこうむった運命はけっしてのんびりしたものではなくて、それどころか反対に相当に苛酷なものであった。厳しい労働の経験を通過するなかで、徐々に近代固有の労働が形づくられていく。

 近代労働はなによりも都市的現象である。農村から都市に流入してきた人々は、そのままではまだ到底労働者ではない。彼らは農民の伝統的習性を身につけていた。農村から逃れてきた民衆は、職業を求めて都市に出てきたのだが、そのままでは都市的経済が要求する身体行動を行うことはできなかった。都市の経済は、こうした民衆の農民的身体を商品経済的身体に作り直さなくてはならなかった。そして身体の転換を通して、ゆくゆくは産業経済に適応する労働身体が作られていくであろう。

 初期近代社会において都市に登場した民衆の具体的な姿は、浮浪者または乞食であった。農村から都市に出てきてもめったに職があるはずはないのだから、人々はまずは浮浪者であるほかはなかった。ここに浮浪者対策がにわかに国家の課題になってくる。

 貧乏であること、あるいは貧民であることは、罪であった。ひとによっては貧乏を道徳的罪とみなすこともあったが、たとえそうではないにしても、国家の行政的観点からみればひとつの犯罪の可能性であった。だから浮浪者や乞食という形をとる貧民は、特定の場所に収容されなくてはならない。この空間は、道徳的罪と犯罪の可能性を防止するための空間、つまり収容所になる。それは当時は「矯正院」あるいは「労働の家」と呼ばれた。

 労働収容所のなかで、貧民を労働させ、労働によって懲罰する。労働は仕事を教えると同時に教育する手段であった。貧民や乞食は道徳的に退廃しているとみなされていたから、労働は貧民の道徳的な「再教育」になり、労働の厳しさを学ぶなかで労働のエトスが知らぬ間に注入されていく。

 放浪者、のらくら者、放蕩者たちはアジール(矯正院)に閉じ込められ、強制的に労働に従事させられる。強制労働は怠け癖をなくし、悪へ走る傾向を忘れさせることを目的にしていた。労働だけが悪を貧民からなくす最良の手段だと一般に信じられていたという。ここには懲罰としての労働というキリスト教倫理が強い影響力を発揮していた。

──略──

怠惰を癒す労働

 救貧院が事実上は生産工場であったが、監獄的性格をまとうには理由があった。初期近代の統治者たちは、民衆は堕落しているとみなしていた。民衆は貧民以外のなにものでもなかったのだが、そうした貧しさが道徳的堕落の原因であるといった考え方は当時の統治者にとっては自明の前提であった。したがって、統治者たちは、近代の初期から後期にいたるまで、彼らのいう民衆の道徳的堕落との闘いを続けることになる。そのとき、かつてキリスト教が教えた宗数的訓練の道具としての労働を、社会的教育の道具として受け継ぎ、「労働」を行政的統治の中心に据えることになった。労働は、経済的にして統治的になり、宗数的にして教育的になる。労働という一語のなかに、すべての要素が集中する。

 こうした観点から見ると、次のゲレメクの見解は正当である。

 「労働は社会的モラルのデカダンスとたたかう手段である。近代ヨーロッパに多数あらわれた社会変革のユートピア的思想のなかでも労働は貧困と不良とたたかう万能薬である。近代人の目には、貧困がもたらす道徳的堕落は、怠惰な生活が生む堕落と一体となってすすみ、社会を圧迫する。だから強制労働は、社会政策の探求とプログラムのなかでたえず再現する方策であり、援助体系への国家介入のもっともありふれた方法になる。(……)労働は再教育と社会的〈治療〉の形態とみなされる。」

 ゲレメクは強制監禁制度を初期社会政策あるいは社会教育の観点から描いている。これを国家の権力と経済の権力の観点から描くこともできる。監禁制度すなわち救貧院や一般施療院は、君主制と市民階級(ブルジョワジー)が共同してつくったものである。絶対王権が救貧制度をつくり、ブルジョワたちが管理を引き受ける。王権は宗教イデオロギーの観点から貧民の「救済」を意図するが、ブルジョワたちは監禁された貧民に対して「労働」を強制する。「それは秩序、当時フランスにおいて組織化されつつあった君主制的でブルジョア的な秩序の権力機構の一つである。」。ここには、宗教と公共の秩序、救済(魂の救済ではなく生活の救済)と懲罰、慈善と行政的配慮が入り交じった独特の制度と政策がみられる。宗教的=政治的な配慮と経済的利益への欲望が、これらの制度を十七世紀に登場させたといえる。
(今村仁志著「近代の労働観」岩波新書 p28-37)

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 その前史ー産業化と社会保障

 福祉国家の基本的な柱をなす様々な社会保障制度は、基本的には、一八世紀後半以降の「産業化」ないし工業化の進展という、経済システム全体の構造的な変化とともに展開してきたものである。言い換えれば、産業化ないし工業化以前の農業中心の社会においては、私たちが今日社会保障と呼んでいるものはほとんど存在せず、いわば(農村)共同体のなかでの相互扶助が、実質上社会保障としての機能を担っていた。

 ただ、ここで次の点は確認しておく必要がある。それは、いま述べている「前産業化社会」の時代においても、その最終段階とも言える、商業資本が展開するに至った時代(一六〜一七世紀頃)──産業化の前夜≠フ時代──においては、社会保障制度のルーツないし萌芽≠ノ相当するものが登場するようになっていた、という点である。

 次章以下で整理していく予定であるが、一般に社会保障は、個人が保険料を出し合って集団でリスクに備える、という「リスクの分散」を基本原理とする「社会保険」と、税を財源とした「所得の再分配」を基本とする「福祉(公的扶助)」とにさしあたり分けることができる。この時代においては、これら社会保障の柱をなす「社会保険」及び「福祉」の起源をなすものが形成されつつあった。すなわち、前者(社会保険)については近代的な「民間保険」の誕生と発達であり(具体的には、海上保険(一四、五世紀の地中海周辺)、火災保険(一六六六年イギリス)、生命保険(一七六二年イギリス)等々)、後者(福祉)については、例えばエリザベス救貧法(一六〇一年)のような国家による慈善的・恩恵的な施策──商業革命に伴う牧羊地の「囲い込み」の結果、都市に流入した農民の貧困層に対して行われたもの──がそうした例である。

 しかしながら、社会保障そのものの構成要素が明確なかたちで世界史に登場するのは、やはり一八世紀後半イギリスの産業革命に端を発する「産業化」ないし工業化を待ってである。あるいは、社会保障は、産業化による「共同体の解体」そして大量の都市労働者の発生という新しい状況のなかで、それまで(農村)共同体が果たしていた相互扶助的機能を、人為的なかたちで国家が代替するものとして登場した、と言ってもよいだろう。

 そうした制度のひとつの代表が、「社会保険」というシステムであり、それが世界史上はじめて登場したのは、急激な産業化・工業化を遂げつつあった一九世紀後半のドイツにおいてであった。いわゆるビスマルク時代における疾病保険(一八八三年)、労働災害保険(八四年)、障害・老齢保険(年金に相当。八九年)の創設がそれにあたる(若干脇道にそれるが、その後ドイツでは一九二七年に失業保険が創られ、一九九四年に「第五の」社会保険として介護保険が制度化されるに至る)。

 実は、ここで素朴な疑問として、「なぜ、社会保険という制度が、世界史上、当時の圧倒的な先進国イギリスではなく、「後発国ドイツ」において初めて登場したのか」という問いが浮かび上がる。この点は以前別のところで論じたので再確認するにとどめるが、@産業化の後発国ドイツが、まさに後発国であるがゆえに、産業化の展開もきわめて急激かつ多くの矛盾を伴うものであり、労働者の窮乏状況もより悲惨で、より強くそうした保護的施策を必要としたという点と、A同じく後発国であるがゆえに、保険会社を含めて民間資本の発達が不十分であり、保険についても、まさに「国家」が自ら保険を実施(=「社会」保険)する必要があった(いわば、一種の官営事業≠ニしての保険)、という点が基本的な背景にあったと思われる。こうした意味では、こうした草創期の社会保険は、産業化ないし開発に向けての、文字通り国家の「産業政策」としての役割を担っていた、と言うことができ、多分に「パターナリスティック(国家保護主義的)な」性格を帯びていたと見ることもできよう。
(広井良典著「日本の社会保障」岩波新書 p3-5)

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◎「むしろプロレタリアは、勤勉な働き手である自分たちこそが必要とされているのであり、なにもしていない金持の資本家諸氏はもともと余計なものだということを確信しているのである」と。