学習通信060607
◎ほらこうするのさ……

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力いっぱい遊ばせる

 前項で、現在の日本の子どもたちが、いかに遊びの客観的条件が奪われているか、簡単にでもみてみました。ここでは、遊びの意義そのものについて少し考えてみましょう。

 子どもの遊びの教育的価値がはっきり認められるようになったのは、やはり子ども独自の人格と世界が尊重されるようになった近代以降のことです。日本では、とくに農村では、子どもの労働力にも、たよらねばならなかったという事情から遊びを罪悪視する傾向がありました。

 これは、子どもにとって遊びがどういう意義をもっているのか、その点の認識がよわいところからもきています。

 よちよち歩きを始めた幼児をみてもわかるように、子どもは誰に強制されるでもなく自発的に遊び始めます。遊びは子どもと外界とのかかわり方の表現であり、自己以外の外界を認識してゆくための重要な手段です。「子どもがどんなふうに遊ぶかが、その子が大きくなってからどんなふうに働くかを多くの点で示す」(マカレンコ)といわれるほどです。

 遊びは社会的に有用な物質的・精神的有価物をつくりだす労働とは違いますが、遊びのなかで労働に必要欠くべからざる肉体的・心理的能力や習慣・緊張が養われてゆきます。よい遊びは、仕事と同じように考える力や努力を必要とします。さらに集団で遊ぶようになると、そこで集団性・社会性・協力や、個人の役割を体得する機会が生まれてきます。

 遊びも、子どもの発達段階によって変化・発展してゆきます。最初はいわゆるひとり遊びといわれるもので、子どもによって、はやいおそいの違いはありますが、主として室内で自分のおもちゃで遊ぶ段階です。ただ現在の日本のばあい、集団保育の普及によって必ずしもこうとばかりいえない面もあります。児童期・青年前期にはいると、学校や外で友だちと遊んだり、意識的にスポーツにうちこんだりすることが圧倒的に多くなります。

またこの時期になりますと、しだいに仕事への移行がはじまります。ですから遊び自体、子どもにとってかけがえのないものですが、やはり意識的に仕事の準備、さらにその発達段階にふさわしい労働にかえられてゆく方向づけが必要でしょう。

 遊びにたいする親の指導ですが、まったく子どもの勝手気ままにやらせるのも、あるいはよけいなおもちゃや干渉・介入でとりまくのも誤りです。つねに自分で力いっぱい遊べるような可能性を与えてやると同時に、ちょっとした示唆や助言、組織づけも有益です。遊びをめぐって集団ができているかどうか、おとなが気をくばってやりたいことのひとつです。
(近藤・好永・橋本・天野「子どものしつけ百話」新日本新書 p84-85)

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 あそびの指導上の問題で親の誤った行動をよく見かけることがあります。その誤りには三つの種類があります。ある種の親は自分の子どものあそびについて全く関心をもたず、どう遊んだらよいか子ども自身が心得ているものだと考えています。そんな親の子どもは勝手気ままに、遊びたい時に遊び、自分勝手におもちゃを選び、自己流のあそびをつくりだします。

またある親はくどくどとあそびに注意を払います。のべつ子どものあそびに口をはさみます。こうしなさい、ああしなさい、さあ、これはできるかしらと問題をだして、子どもがそれをする前に自分でそらできたなどと喜んでいることがよくあります。このような親の子どもは親のいうことをきいたり、親のまねをするわけにもいきません。実際には子どもがというより親があそんでいるのですから。そのような親の子どもがプラモデルなどを作っていて、組み立てにつまずくとさっそく父親や母親は側にすわりこんで、

 「そうするんじゃないよ。ほらこうするのさ。」と口をだします。
 子どもが紙で切り抜きをしていると、しばらくは父親や母親も子どもの動作をみていますが、やがて子どもからはさみを取り上げて、

 「どれどれ、切ってあげよう。いいかい。うまくできたろ。」とまた口をはさみます。

 子どもはみていて、父親のほうがたしかに上手にやってのけたことがわかります。子どもはもう一枚紙をだして父親にもっと切ってとたのみます。すると父親は自分のできばえにすっかり悦に入り、よしよしとばかりひきうけるのです。そんな親の子どもは、親のすることを繰り返すだけで、困難に打ちかつことや、独力で自身を質的に高める気力をつけることができずに、小さいうちからおとなだけがなんでも上手にできるのだと考えるようになります。そんな子どもには、自分の力が信じられない、失敗をおそれる気持が育っていきます。

 三番目の例を挙げると、おもちゃの数がいちばんものをいうのだと考えている親がいます。そういう親はおもちゃに大金をはりこんで、子どもにいろいろのおもちゃをどっさり与え、それを自慢しています。その子どもの部屋はおもちゃ屋の店先そっくりというわけです。そんな親はたいてい機械仕掛けの精巧なおもちゃが大のお気に入りで、そのおもちゃで子どもの生活を満たしているのです。そんな親をもつ子どもはせいぜいうまくいっておもちゃマニアになるか、さもなければ、こんな場合がいちばん多いのですが、なんの興味関心もないままにあのおもちゃ、このおもちゃと気が変り、夢中になって遊ぶこともなく、おもちゃをだめにしたりこわしたりすると、すぐ新しいのを買ってくれとねだるようになります。

 あそびを正しく指導するには、子どものあそびに対する親のより考え深い、より慎重な態度が必要です。

 子どものあそびはいくつかの発展段階を経過しますが、その発達段階に応じて、ふさわしいてだてが必要です。

第一の段階、それは室内あそびの時代、おもちゃの時代です。

そして五・六歳頃から第二段階に移ります。第一段階を特徴づけるものは、まれに一人か二人の友人を仲間に入れることがあっても、子どもはひとりで遊ぶことが多いということです。この頃の子どもは自分のおもちゃであそびたがり、ひとのおもちゃはいやがります。この段階にちょうど子どもの個人的能力が伸びるのです。ですからひとりで遊んでいるから大きくなってエゴイストになるのではないかなどと心配することはありません。むしろ、一人で遊ぶ機会をつくってやるべきです。

ただ子どもが適当な時期には第一段階から第二段階へ移れるように、この第一段階を長びかせないように充分気を配ることは必要です。第一段階では子どもはグループで遊ぶことができません。仲間とよくけんかをします。仲間とグループをつくって遊ぶおもしろさをみつけることができないのです。子どもには一人で遊ぶ自由を与えることが必要です。子どもに仲間をおしつけてはいけません。というのはそういうおしつけは遊ぶ意欲を阻害し、いらいらさせ、その上相手にいやな思いをさせるだけです。

小さい時に一人でうまく遊ぶ子どもほど先へいって、よい仲間づきあいができるものだとはっきりいいきることができます。この頃の子どもはきわめて強いガメツさを持っていて、いってみれば「我利我利亡者」です。いちばん大切な方法はこのガメツさや「我利我利主義」を助長する動機を育てないようにすることです。一人で遊んでいる子どもは自分の能力──想像力、構成能力、物質、物の組織力などを伸ばしているのです。これは有意義なことなのです。それなのに子どもの気持ちに反して、むりにグループで遊ばせようものなら、ガメツさやエゴイズムから子どもを救うことはできません。

 子どもによって早い、遅いの違いはあっても、ひとりあそびの傾向も仲間やグループのあそびに対する関心にやがて変っていきます。可能なかぎり、子どもに有利に、この極めて難かしい移行を完了させなければなりません。最良の環境のなかで、仲間づきあいの輪がひろがるように気を配りたいものです。ふつうこの移行は、さわやかな戸外で行われる活溌なあそびや、幼稚園のあそびに対して子どもの興味がたかまっていくという形で行われます。幼稚園の子どものグループに、まわりに対して権威をもち、年下の子どもの組織者としてふるまえる年長者が一人いるというのがいちばんよい状態だと考えられます。

 子どものあそびの第二段階は指導もいちだんと難しくなります。というのはこの段階になると子どもはもう親の目の届くところで遊んでるわけではありません。もっと広い社会的な舞台へでていくのです。第二段階は学校時代をふくめて十二・三歳まで続きます。

 学校はより広範な友だち仲間、より広範な興味の対象、特にあそびという活動にとってはより困難を伴う舞台を提供しますが、そのかわり学校はきちんと準備された、より明確な組織、一定の、厳密な体制を提供してくれます。くわえてもっとも大切なことは、熟練した教育者の援助があることです。子どもも第二段階ではもう社会の一員となりますが、ただ社会といっても、厳格な規律も社会的統制もない子どもの社会です。学校はこの二つのことを提供してくれますが、同時にあそびの第三段階への移行形態でもあるのです。

 この第三段階になると子どもはもう集団の一員としてふるまいます。その上集団は単にあそびの集団であるばかりでなく、仕事の集団であり、学習の集団でもあります。従ってこの時期のあそびはより厳しい集団の形態をとり、だんだんスポーツ的なあそびになります。つまり一定の体育的な目標とルールを伴うあそび、そして最も重要なことは、集団の意義、集団の規律という考え方に結びつくあそびになっていくのです。

 あそびの三つの発達段階のどの時期をとっても親の影響というものは重大な意義をもっています。勿論、この影響という意義からすればまず挙げなければならないのは、家族という集団を除いて他の集団に属すことなく、親を除けばほとんど他に指導者がいない第一段階です。けれども第二、第三の段階でも親の影響はきわめて大きく力を発揮するはずです。
(マカレンコ著「子どもの教育・子どもの文学」新読書社 p35-40)

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◎「つねに自分で力いっぱい遊べるような可能性を与えてやると同時に、ちょっとした示唆や助言、組織づけも有益」と。