学習通信060609
◎子どもの成長・発展をたすける……

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子どもにとってはガラクタが宝

 おとなは、遊びはつらい仕事の息ねきととらえがちです。しかし、子どものばあいには、クルプスカヤも指摘しているように、遊びは真剣な行動、学習です。ですから児童期にはいっても、遊びは学習とみることが大切です。その観点から、児童期のおもちゃについても考えてみましょう。

 幼児期から小学校低学年にかけて、子どもたちはいろいろなおもちゃ──遊び道具を使って遊びます。さらに子どもが大きくなってくると遊び道具についても少し変化してきます。それは、既成のものをつかうだけでなく、自分で作りだすもの、自分で選んだものを大切にするようになることです。自分の生きている世界、楽しんでいる世界にとって必要かくべからざるもの、つまり、おとなからみれば実にきたなくてくだらないもの、たとえば河原の石ころ、道に落ちていた自転車のチェーンのきれはしなども、大切な遊び道具になります。だから、大事に自分の机のなかなどにしまっておきます。

 こうしたものをみつけると、おとなはすぐにきたないもの、くだらないものとして捨ててしまいたくなりますが、それは誤りです。子どもにとっては、大切な「宝物」であり、子どもなりに大事にしようという気持ちがあります。この考え方や気持ちには、大きな意義があると思われます。おとなの立場と目からみて、くだらないからと捨てているだけでは、子どもの世界を否定することになりますし、一方ではものを大切にしない傾向を助長するかもしれません。

 子どもが自分あるいは仲間たちで集めたものを大切にするという行為を十分に尊重し、さらに自分たちで集めたものを整理したり、保存したりする態度を、おとなもまわりから具体的に応援してやりましょう。

 くりかえしますが、子どもには年齢に応じておもちゃ──遊び道具があるということ、それは子どもの世界の広がりに応じて変化・発展するということ、おとなの目から判断してやかましく干渉したり捨てたりしないこと(不良文化財のばあいはちがいますが)、さらに遊び道具を自分でキチンと整理・保存したりすることから、ものを大切にする習慣も身につけさせてやりたいものです。

ものにたいする興味・関心は、成長につれ、人間や事件へのそれに発展していきます。
(近藤・好永・橋本・天野「子どものしつけ百話」新日本新書 p88-89)

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就学前児童のおもちゃについて

 わたしたちは子どものおもちゃの問題を、そのおもちゃが大人に気にいるかどうかという点からとりあげることはできません。わたしたちは、子どもがなにを好み、なにを必要としているかという観点から、おもちゃの問題をとりあげなければなりません。

 たいせつなのは、どの年齢期にはどんなおもちゃが必要だということをはっきりさせることです。

 なによりも、おもちゃは学校まえの子どもに必要なものです。安くて、大衆的で、だれにも手のとどくようなおもちゃが必要です。

 小さな子どもにはどんなおもちゃが必要でしようか?

 このような小さな子どもは、まだ周囲の環境を知りません。子どもは観察、真似、同じ動作や単語や遊びの際限ない反復をつうじて環境をまなんでいきます。子どもの自主活動がなにをめざしているかを観察し、この自主活動をうながすようなおもちゃ、自主活動を組織し、一定の方向にそれをさしむけるようなおもちゃをもたせることか必要です。

 幼児はまだ、しかるべく色を識別することもできません。だから、色の識別をおしえるようなおもちゃをあたえる必要があります。(いろんな色の紙切れなどはたいへんよい、そうすれば子どもはこれで人形をつくったり、球や箱をつくったりなどする)。

 幼児はまだ大きさというものがわかりません。だから、容量をわからせてくれるようなおもちゃをあたえる必要があります。

 たとえば、大小さまざまの卵、大小さまざまの箱、おなじみのいろんな大きさの木製の動物、あるいは人形などのようなものは、とてもけっこうだとおもいます。そうすれば子どもたちは、背丈順とか、大きさ順にこれらをならべることができます。大人、女と男の子がそれぞれ一対になったおもちゃ、あるいは二人一組の大人の人形、三人一組の女の子の人形、五人一組の男の子の人形などもけっこうです。顔かたちは単純であるべきで、子どもたちを基本的なものから引きはなすような形式や色彩はさけるべきです。

 まだ子どもたちは距離感がわかりません。石盤と石筆をあたえて、子どもがいろんな長さの線を四方八方に引き、またそれを消して引き直せるようにしてやる必要があります。

 やわらかいボールをもたせると、子どもたちは、なにかこわしたり、だれかをけがさせたりすることなど心配しないで、それを上下左右になげたり、ころがしたり、マリのようについたりすることができます。

 この年頃の子どもは、まだ触覚がのびるときですから、なんでも手でふれさせる必要があります。柔らかいもの、硬いもの、なめらかなもの、ざらざらしたものをあたえなければなりません。

 そして、手ざわりで物を識別し、形を識別しながら、袋のなかからあれこれのものをとりださせるようにしこむことも必要です。

 就学前児童には、ベルや太鼓などいろいろ音響のでるものをもたせるのも、好ましいことです(もちろん、これは室内の遊びではありません)。

 単純で、こわれにくい、かっこうのよい人形を子どもにもたせることもたいせつです。子どもはこれを水浴させたり、顔をあらってやったり、着物を脱ぎ着させたりし、そのなかでひもをむすんだり、もつれを解いたりすることをおぼえるのです。人形はこのうえなく単純かつ安価で、しかも美しく、こわしたり傷つけたりできないような堅固なものでなければなりません。

 こわれにくい食器を子どもにもたせることもたいせつです。子どもはこれを並べ、砂や穀物をこれにいれたりして遊ぶことができます。まだ小さい子どもには、まだ実際にみたことのない象や虎、熊などをあたえる必要は必ずしもありません。熊のおもちゃが好きだとしても、それは、この熊のおもちゃがやわらかくて、手足がうごくからにすぎないのです。それよりも、子どもには猫や犬、馬などのおもちゃをあたえるほうが賢明です。これだと、子どもが生きた実物をみて、いろいろ観察できるからです。

 積木(軽くて大きいもの)その他の木材をあたえることも必要です。子どもはそれでいろんなものを組み立てることができます。

 夏には木製のシャベルや手押一輪車、おもちゃの荷車、カバン、カゴをあたえ、気のむいたところに何でもはこんでいけるようにしてやることもたいせつです。冬は小さなソリをもたせる必要があります。

 もすこし大きい就学前児童は、どんなおもちゃに興味をもつでしょうか?

 幼児は一人であそびたがるのにひきかえ、すこし大きくなった子どもたちは、すでに、仲間といっしょにあそぶのをこのむようになります。

 幼児の場合は、個々の猫、犬、乳牛、馬、女の子、男の子、おじさん、おばさんといったものに興味をよせるのですが、少し大きくなると、子どもたちはこれらが動くことに、一定の状態にあることに関心をもつようになります。この年齢期には状況画、その性格がとりわけ重要になってきます。

 すこし大きな就学前児童はまわりの人間に興味をもちます。たとえば、お母さんがいると、

 「お母さんは何をしてるんだろう?」とおもい、お父さんがいると、「お父さんは何をしてるんだろう?」とおもい、「兄さんは何してるんだろう?」と考える、といった具合です。

子どもが興味をもつのは、なによりもまず、物めずらしいものではなくて、じぶんに身近で、理解できるものです。じぶんの視界をこえたものではなくて、じぶんが日ごろ目にしている実生活、人間に興味をもつのです。

 この時期には、この種の切抜き絵がたいせつです。むかしは、こんなボール紙の切抜き絵がありました──トルコ人の老人が木の切りかぶにかけて、キセルをくわえている。そのわきには、やはりボール紙のワクがあって、ほかの切抜き絵をさしこめるようになっている。「そこへ小さい女の子がやってきました」といって、バラ色の着物をきた女の子の切抜き絵をさしこむ……現在では、内容はもちろんかわらなければなりませんが、このような型のおもちゃは用いることができるとおもいます。内容が子どもたちに身近で、わかりやすければ、とてもおもしろいものになります。

 あなたたちが四〜五歳の子どもの絵をごらんになれば、かれらが物や人間をいつも一定の状態のもとで描いていることに気づくでしょう。こまごました細部にはまだ興味がありません。まだ絵をかきはじめたばかりの年齢だからしかたありません。かれらにはもう、紙や柔かいクレオンをあたえるべきです。

 そろそろ学校にあがるようになった年齢期は──おもちゃのサービスという点からみれば、もっともむずかしい年齢期です。というのは、この頃の子どもの生活状況はきわめて多彩だからです。この年頃の子どもには旧に倍する具体性が必要になってきます。

 この年齢期には、おもちゃも、まわりの具体的な現実を学ぶのにたすけになるようなものでなければなりません。この年齢期には、すでに子ども演劇を利用するのもたいへんけっこうです。たとえば、人形劇のペトルーシカ(道化役)は就学前児童のお気にいりです。しかし、劇の内容は具体的で、なるべく頭をひねらなくてもわかるようなものでなければなりません。

 ときには大人が、どうして子どもが笑ったり、おそろしがったりしているのかわからない場合があります。大人は子どもの年齢上の特徴を綿密に研究しておかなければなりません。これを研究してから、おもちゃをつくってやらなければ、せっかくつくったおもちゃもほんとうに子どもをよろこばせることはできないし、子どもの成長・発展をたすけることはできません。

 この文章では、就学前児童のおもちゃについて、ほんのいくつか考えをのべてみました。おもちゃづくりにかんしては、とくに理屈をこねる必要はなく、重要なのは単純で安くということです。託児所や幼稚園が広範に発展している今日、幼児のおもちゃの問題もたいへん注目されてきています。しかるべくこの問題を考える必要があります。(一九三七年)
(クルプスカヤ著「家庭教育論」青木書店 p66-71)

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 第二段階で親が要求されるものは何といっても注意力です。みなさんの息子さんは庭へ出て、よその男の子の仲間に入ります。みなさんはその男の子たちはどんな子であるか注意深く観察しなければなりません。みなさんの娘さんが幼稚園の女の子たちについていきます。その子をよく知っていなければなりません。

みなさんのお子さんのまわりにいる子どもたちはなにに夢中になっているのか、どんなことに気がつかないでいるのか、その子どもたちのあそびによくないことはないのか、知っていなければなりません。ひとりの父親や母親の注意と創意がその近所の子どもの全体の生活を向上させるということがよくあるものです。

冬になると山から滑りおりるように、子どもは凍ったゴミの山から滑っているのにお気づきかと思います。よその親と相談して、相談がめんどうなら一人ででも、子どものために山の雪をならしてみてください。自分の子どもにかんたんな木の橇(そり)を作ってやってごらんなさい。きっとほかの子も同じようなのを持ってきます。あそびのこの段階で特に重要かつ有益なことは、親同士のつきあいなのですが、残念なことには、ほとんどそれがありません。どの親も幼稚園での子どもの生活には不満をもっているのに、よその親と相談しようともせず、その生活をよくするためにいっしょに考えることもしません。

しかし実際にはそれほど難しいことではありません。だれにでもできるのです。子どももこの段階では、もういくらか集団らしいものに組みこまれているのですから、親もやはり組織的に子どもを指導するならば、おおいに役に立つはずです。

 この段階では、子どもは、よくけんかをしたり、なぐり合いをしたり、たがいに罪をなすり合ったりするものです。そんな時にさっそく自分の息子や娘の肩をもって、相手の父親や母親に自分でもんくをつけにいくというのは間違いです。子どもが泣いて帰ってきたり、ばかにされたとか、たたかれたとかいってわめいていてもすぐさまかんしゃくを起したり、相手の子どもやその親にくってかかってはいけません。まずおだやかに息子や娘にことの次第をたずねてみます。

よくその情況をつかまえてみることです。どちらか一方だけが悪いというようなことはめったにないものです。あるいは自分の子どもがなにかのことで頭にきたのかもしれません。遊んでいる時はそんなに意地を張るものではない、もめごとがおこったらうまくそれをおさめる方法を考えるんだよといいきかせてください。とにもかくにもその相手と仲直りさせることが第一で、けんか相手を遊びによんで、その子ともよく話してみることです。親とも知り合いになって、きちんと事情を明らかにしたいものです。

この問題で大切なことは、自分の子どもだけを念頭におくのではなく、子どものグループ全体を考えて他の親といっしょに育てなければならないということです。そうすることによってはじめて、自分の子どもにもおおいに役立てることができるのです。親は家庭第一主義者ではない、親はみんなのために働いているということに子どもは気がついて、自分も親のようにしなければならないと考えます。父親や母親の隣近所の家庭に対するはげしい攻撃的態度ほど有害なものはありません。そういう攻撃的態度がまさに、子どもの心に意地わるや猜疑心(さいぎしん)、野蛮で盲目的な家庭第一のエゴイズムを育てるのです。

 第三の段階ではあそびの指導はもはや親の手からはなれ、学校やスポーツ団体にひきつがれていますが、子どもの性格に正しい影響を与える大きな可能性は親に残されています。

第一には、スポーツに対する執念がこうじてすっかり取りのぼせることのないように注意深く気を配り、ほかにも活動することがあるのだと教えてやらねばなりません。

第二には、個人の勝利に誇りをもつばかりでなく、あくまでもチームや団体の勝利を誇りに思う気持を男の子や女の子におこさせなければなりません。また、一切の慢心をおさえて、相手の力倆に対する尊敬の念を養い、チームとしての組織力、トレーニング、規律に目を向けさせることが大切です。この段階でも、親が息子や娘のチームメイトとごく親密になるならば、たいへんよいことに違いありません。

 三つの段階のどの時期であっても、あそびが子どものいっさいの精神生活を育ってしまわないように、労働の習慣も平行して育てられるように親はしっかりと見守らなければなりません。

 この三つの段階のあそびのなかでは、単なる見物、単なる満足よりももっと値打ちのある充実感を求める気力を育て、障害をのり越える雄々しさを育て、想像力と思考活動を育てることが大切なのです。第二、第三の段階では、ここまでくるともう子どもは社会に仲間入りしていて、遊ぶ能力ばかりでなく、きちんと人々に接するそういう能力まで子どもに要求されているのだということをいつも忘れてはなりません。

 きょうの話で述べたことを要約してみましょう。
 あそびというものは、人間の生活では重要な意味をもっています。あそびは労働の準備教育であって、やがて労働にかわっていくべきものなのです。多くの親はあそびを指導するという問題には十分気を配ることもなく、子どものしたいようにさせておくか、余計なおせっかいや、余計なおもちゃであそびを取り囲んでいるだけです。

親はあそびのそれぞれの段階でいろいろな方法をとらなければなりませんが、いつでも子どもが自主的に活動ができるように、自分の能力を伸ばせるように気を配ると同時に、つまづきがみられた時には援助を惜しんではなりません。

 第二、第三の段階になれば、あそびを指導するというよりむしろ、ほかの人々や自分の集団に対する子どもの態度を指導することが大切です。
(マカレンコ著「子どもの教育・子どもの文学」新読書社 p45-49)

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◎「ものにたいする興味・関心は、成長につれ、人間や事件へのそれに発展」すると。