学習通信060613
◎社会的平均的生活費……

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 こうして古典経済学は、方向を転換して試みた。すなわち、一商品の価値はその生産費にひとしい、といったのである。

だが、労働の生産費とはなにか? この問いに答えるためには、経済学者たちは、論理にすこし暴力をくわえなければならなかった。

労働そのものの生産費は残念ながら確かめられないので、そのかわりに、彼らはいまや、労働者の生産費とはなにかを研究する。

そして、これは確かめられる。

それは、時と事情とにおうじて変動するが、一定の社会状態、一定の地方、一定の生産部門にとっては、やはり一定であり、少なくともかなりせまい限界内にある。

われわれは今日、資本主義的生産の支配のもとに生きているが、そこでは人口の大部分であり、ますます増大している階級は、生産手段──道具、機械、原料──と生活手段との所有者のために、労賃とひきかえに労働するときにのみ、生活することができる。

この生産様式の基礎のうえでは、労働者の生産費とは、彼を労働できるようにし、労働できるように維持するために、そして彼が老齢や病気や死によって退場するさいには、新しい労働者によってこれを補充するために──つまり労働者階級を必要な力で繁殖させるために、平均的に必要である生活手段の総量──またはその貨幣価格──である。
(マルクス著「賃労働と資本 エンゲルスの序論」新日本出版社 p17)

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賃金とは

賃金は「労働力の価格」である

 われわれはいま、資本主義社会で生活している。資本主義社会とは、人間が生きていくために欠くことのできない衣、食、住の一切のものが商品として生産され、商品として売買されている社会のことである。

 われわれ労働者は、この資本主義社会で生きていくために、何かを商品として販売し、その代金を手に入れ、そのお金で生活に必要なすべてのものを買わなければならない。

 ところで、労働者は、自分の身体にそなわっている精神的・肉体的労働能力(労働力)を売る以外には、ほかに売るべきものを何一つもちあわせていないのである。

 そこで、労働者は生きていくためには、労働力を一つの商品として販売し、それとひきかえに賃金を受取っているのである。

 こうして、資本主義社会の下での賃金とは、労働力という商品の価格にほかならないのであり、労働者階級とは、労働力を販売するほかには、何一つ販売するものをもちあわせていない階級のことである。

 これにたいして資本家階級とは、生産手段(機械、建物、原材料)などを私的に所有し、労働者から労働力を商品として買い入れ、金もうけを目的として労働力を使用することができる階級のことなのである。

 そして、資本主義社会とは、基本的にみて、この労働者階級と資本家階級の二大階級が対立しつつ存在している社会のことである。

 さて、ここで明確にさせておかなければならないのは、賃金は「労働力の価格」であって、けっして「労働の価格」ではないということである。

 労働力とは、人間自身にそなわっている精神的・肉体的労働能力のことであり、労働とは、この労働力のはたらきのことである。つまり、労働力を使って労働するのである。

 ところで、人間が労働するためには、労働力だけでは不可能であり、労働力と生産手段が結合されてはじめてそれが可能となるのである。しかし、労働者は、資本主義社会では生産手段の所有からきりはなされており、労働者が所有しているのは労働力だけである。そこで、労働者は、その労働力を、生産手段の所有者である資本家に売りわたし、こうしてはじめて労働力と生産手段が結合され、労働することができるのである。

 したがって、労働者が資本家に販売しているのは労働力であって労働ではない。そして、賃金はあくまで「労働力の価格」であって「労働の価格」ではないのである。(この労働力と労働の区別はきわめて重要であり、この区別を明確にすることによってはじめて、搾取のしくみをあきらかにすることができるのであるが、この点についてはあとでのべることとする。)

 ではつぎに、「労働力の価格」である賃金はどうしてきまるか考えていくこととしよう。

商品の使用価値と価値

 労働力は商品である。

 ところで、労働力に限らず、すべての商品は使用価値と価値をもっている。

 商品の使用価値とは、その商品自身がもっている人間の欲望をみたすことができる性質(ものの属性)のことである。

 さて、商品の価値とは何か。

 すべての商品は自分が消費するためではなくて、他人に売るために、あるいは他の商品と交換するためにつくられたものでなければならない。

 ある商品Aと他の商品Bとが交換されるということは、どういうことであろうか。商品Aと商品Bが交換されるということは、両者に何か共通のものがあるからであろう。

 何が共通しているだろうか。それは使用価値ではない。使用価値の等しいものは交換する必要はない。使用価値が異なるからこそ交換が必要なのである。

 両者に共通なのは、商品はすべて人間の労働の生産物であり、A商品をつくる労働の大きさとB商品をつくる労働の大きさが等しいということである。

 すべての商品は人間労働の生産物である。どんなに使用価値をもっているものであっても、人間が労働してつくりだしたものでないかぎりは商品にはならない。空気ほど人間にとって使用価値をもつものはない。しかし、空気は商品ではない。それは、人間が労働によってつくりだしたものではないからである。

 すべての商品にふくまれている人間の労働を商品の価値とよぶ。そして価値の大きさはその商品にふくまれている労働の大きさによってきまり、それは、労働時間によってはかられるのである。

 A商品とB商品が交換されるのは、両者の価値が等しいからであり、価値の大きさは、その商品を生産するために社会的に必要な労働(時間)の大きさによってきまるのである。

 そして、商品の価格とは、商品の需給関係による変動を別にすれば、商品の価値を貨幣量でいいあらわしたものにほかならないのである。

「労働力の価値」について

 賃金は「労働力の価格」である。そして、「労働力の価格」は、需給関係を別にすれば、それは「労働力の価値」を貨幣量でいいあらわしたものである。

 「労働力の価値」とは何か、その大きさはどうしてきまるか。

 それは、他の商品の価値と同じように、「労働力をつくるために必要な人間労働のことであり、その大きさは、労働力をつくるために社会的に必要な労働時間の大きさ」によってきまるのである。

 ところで、「労働力をつくる」ということは、労働者が今日と同じように、明日も明後日も、ずっとひきつづいて労働することができるような状態になるということを意味する。

 そして、そのためには、何よりも労働者が人間として生存をつづけていかなければならない。

 そこで、「労働力の価値」は何よりも、労働者自身の(再)生産のための生活資料の値段によって、規定されなければならない。

 それだけではない。労働力はくりかえし再生産されなければならないが、労働者は人間であり、彼は寿命がきたら死ななければならない。しかし、彼が死んだあともひきつづいて労働力が再生産されなければならない以上、労働者本人が生きているあいだに結婚し、子供を生み、その子供を一人前の労働者に育てなければならないのである。

 したがって、「労働力の価値」のなかには、本人ばかりでなく、家族の生活資料の価値もふくまれなければならないのである。

 さらにまた、労働力は精神的・肉体的能力である以上、たんに生理的な生存のために必要な生活資料ばかりでなく、その社会に必要な平均的な精神生活を営めるための文化的な資料の価値もふくまれなければならない。

 もう一つ、つけ加えるならば、労働力の価値には、現に行っている労働の性質による熟練の度合や養成期間のちがいにもとづいて熟練資料や育成資料の価値のちがいがあり、これらの価値もまた、そのなかにふくまれなければならない。

 以上をまとめていえば、「労働力の価値」とは結局、本人と家族の社会的平均的生活費のことであり、その内容としては次のようなものがふくまれるのである。

 第一に、本人の生活費
 第二に、家族(ふつう妻と子供三人)の生活費
 第三に、平均的な文化費
 第四に、労働力に応ずる熟練費、または修業育成費

 ところで、こんにち、もしかりに賃金が「労働力の価値」どおりに支払われたとすれば、一か月の額にしてどれくらいになるか。それを正確に計算することはできない。

 しかし、「労働力の価値」(熟練費をのぞく)は一定の国で一定の時代に一定の大きさをもつのである。労働組合などで、よく理論生計費として計算される金額は、そのための一つの参考と考えてもよいといえる。それによれば、一九七二年の総評の計算では四人家族で三十一万円いるということになっている。

 だとすれば、こんにちのわれわれの賃金(一九七〇年現在、日本の労働者全体の平均賃金は約八万三千円)は、はるかに「労働力の価値」以下に切り下げられているといわなければならないのである。

 なぜそうなっているか、この点をあきらかにすることは、きわめて重要なことであるが、ここではそれをしばらくあとまわしにして、それよりももっと重要なことをあきらかにしていくこととしよう。

 つまり、われわれの賃金が、かりに「労働力の価値」どおりに支払われたと仮定しても労働者は資本家によって剰余価値を搾取されている、ということについてである。
(全国自動車運輸労働組合編集「労働組合員教科書」学習の友社 p44-49)

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◎「つまり労働者階級を必要な力で繁殖させるために、平均的に必要である生活手段の総量」と。