学習通信060614
◎「ちょっと待て!」……

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──われわれは、この生活手段の貨幣価格が平均して毎日三マルクだと仮定しよう。

 すると、われわれの労働者は、彼をやとっている資本家から毎日三マルクの賃金をうけとる。資本家は、そのかわりに彼を、たとえば毎日一二時間働かせる。しかも、この資本家は大体つぎのように計算する。

 われわれの労働者──機械工──は、ある機械の一部分をつくらなければならず、それを一日で仕上げるものと仮定しよう。

原料──必要なものとして前もってつくられた形態での鉄や真鍮(しんちゅう)──は、二〇マルクするとしよう。

蒸気機関の石炭の消費と、この蒸気機関そのものの摩損、旋盤やその他われわれの労働者が労働するさいに用いる道具の摩損とは、一日分および彼一人分について計算すれば、一マルクの価値であるとしよう。

一日分の労賃は、われわれの仮定によれば、三マルクである。

総計すれば、この機械部分は二四マルクになる。

しかし資本家は、これとひきかえに彼の顧客から平均して二七マルクの価格を、すなわち彼が投下した費用を三マルクこえる価格を、うけとるように計算する。

 資本家がポケットにいれるこの三マルクはどこからでてくるか。

古典経済学の主張によれば、諸商品は平均してそれらの価値で、すなわちこれらの商品にふくまれている必要労働量に一致する価格で、売られる。

こうして、さきの機械部分の平均価格──二七マルク──は、その価値にひとしく、それにふくまれている労働にひとしいということになるであろう。

しかし、この二七マルクのうち二一マルクは、例の機械工が仕事をはじめる前に、すでに存在していた価値であった。

二〇マルクは原料に、一マルクは作業中に燃焼された石炭、またはそのさいに使用されてその作業能力をこの価値額だけ減少させた機械や道具に、ふくまれていた。

残っているのは、原料の価値につけくわえられた六マルクである。

ところが、この六マルクは、わが経済学者たちの仮定によれば、ただわれわれの労働者が原料につけくわえた労働からだけ生じうる。

彼の一二時間分の労働は、六マルクの新しい価値をつくりだしたのである。

こうして、彼の一二時間分の労働の価値は、六マルクにひとしいということになるだろう。

こうして、われわれはついに、「労働の価値」とはなにかを発見した。

 「ちょっと待て!」とわれわれの機械工はさけぶ。
「六マルクだって? しかしおれがうけとったのは、たった三マルクだけだ! おれの資本家は、おれの一二時間分の労働の価値はただの三マルクだけだ、とかたく誓って言う。そしておれが六マルクを要求すると、彼はおれをあざわらうのだ。どのようにしたら、これが合致するのだろう?」と。

 われわれはさきに、あの労働の価値について堂々めぐりにおちいったが、今度はいよいよ解決できない矛盾におちいってしまったのだ。

われわれは労働の価値をさがしもとめて、必要とするよりも多くのものを見いだした。

労働者にとっては一二時間分の労働の価値は三マルクであり、資本家にとっては六マルクである。そのうち資本家は三マルクを賃金として労働者に支払い、三マルクを自分でポケットにいれる。こうして、労働は一つの価値ではなく、二つの価値を、しかも非常に異なる価値をもつことになるのだ!

 この矛盾は、われわれが貨幣で表現された価値を労働時間に還元するやいなや、もっと不合理なものになる。

一二時間分の労働で六マルクの新価値が生みだされる。

こうして、六時間で三マルクが生みだされるが、これは労働者が一二時間分の労働とひきかえにうけとる額である。一二時間分の労働とひきかえに、労働者はひとしい対価として、六時間分の労働の生産物をうけとる。

こうして、労働が二つの価値をもち、その一方が他方の二倍の大きさであるのか、それとも一二が六にひとしいのか、どちらかなのだ! どちらのばあいにも、まったくの矛盾があらわれる。
(マルクス著「賃労働と資本 エンゲルスの序論」新日本出版社 p17-20)

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資本主義的搾取のしくみ

資本家は「もうけ」のために生産する

 メーデー歌に「永き搾取に悩みたる無産の民よ、けっ起せよ」とある。搾取とは何か。「それは資本家が労働者を低賃金、労働強化、長時間労働でこきつかうことである」。この答えはあやまってはいない。しかし、それは現象面からみたつかみかたにすぎない。搾取とは、もっと本質的なことである。本質的に搾取とつかみとったならば、その答えは次のようにならなければならない。

 「資本主義社会とは資本家による労働者の搾取によってのみなりたち、搾取によってのみ発展する社会である。そして、資本主義は搾取することによって、かならず、搾取される労働者階級の団結と統一の力を増大させ、その力によってかならずその社会制度がうち倒され、社会主義社会にとってかわらざるをえないのである。」

 つまり、搾取とは資本主義の始めから終わりまでつらぬいている資本主義の本質そのものである。

 ところで、資本家(産業資本家)は何のためにものをつくるのであろうか。それは、人間生活を豊かにするためであろうか。けっして、そうではない。資本家がものをつくる目的は、すべて「金もうけ」であって、それ以外ではありえない。

 資本家は、どんなに人間が生活のために必要としているものであっても、「もうけ」にならなければつくろうとしない。逆に「もうけ」になるならば人殺しの武器でも平気でつくるのである。

 さて、資本家は、その「もうけ」をどうして手に入れること、ができるであろうか。

 資本家がものをつくってから売るまでのすじみちを図にしめせば次のようになる。

貨幣─商品(生産手段+労働力)…生産…商品─貨幣

 さて、話をわかりやすくするために、例にしたがって考えていくこととしよう。

 ある資本家が一千万円の貨幣をもっていた。彼はそのうち五百万円を生産手段に投下し、のこりの五百万円で労働力を購入した。彼は、その両者をむすびつけて、「新しい商品」を生産し、それを販売することによって一千五百万円の貨幣を手に入れることができた。こうして、彼は五百万円の「もうけ」をえたのである。彼は、どうしてこの五百万円を「もうけ」たのであろうか。

 ちょっと考えると、「もうけ」は売買過程(流通過程)のなかで生み出されたように思いやすい。つまり、かれは販売する過程で一千万円しか価値がない「新しい商品」を、その価値よりも高い価格一千五百万円で買手に売りつけた結果、「もうけ」を手に入れることができたのではないかということである。

 なぜなら、「もうけ」はこうした売買過程をとおしてしか手に入れることができないからである。

 しかし、それはただしくないのであり、「新しい商品」は、すでに一千五百万円の価値をもっており、売買過程では、それを同額の貨幣にかえただけのことであって、けっして売買過程では「もうけ」は生み出されないのである。

 なぜなら、かりに、売買過程で「もうけ」が生み出されるとすれば、売った資本家はたしかに五百万円の「もうけ」を手に入れたわけだが、それを買わされた資本家(機械や材料の取引はつねに資本家どうしで行われる)は五百万円損をしたことになり、結局、資本家全体としてはプラス・マイナス・ゼロとなって、全体としては少しも「もうけ」がふえたことにならないということになってしまうからである。

 また、資本家が相互にだましあい、商品を相互に価値以上に高い価格でうりつづけ、最後にそのすべてを消費者をだますことによって背負わせればよい、と考えられるかもしれない。しかし、そうだとすれば、社会全体としては結局のところ、富は何一つふえていないということになってしまうのだが、それでは現実の実態とは全く相反することはあきらかである。

「もうけ」は生産過程のなかで生み出される

 資本家の「もうけ」は結局、売買過程からではなくて、生産過程のなかでつくり出されるのである。

 ある資本家が一千万円の資本を、生産手段に五百万円、労働力に五百万円をそれぞれ投下して、「新しい商品」、を生産すると、その「新しい商品」は一千五百万円の価値をもつものとしてつくり出されるのである。それは一体どうしてなのかを考えてみよう。

 はじめに、生産手段に投下された五百万円の価値について考えてみよう。生産にあたっては、この価値はその大きさを少しも変えないで「新しい商品」の価値のなかに、そっくりそのまま移されていく。もちろん、その移り方は、機械や建物の場合と、原料や材料の場合とではちがいがあることに注意しなければならない。

 原料や材料の場合には、その価値は一度に新しい商品の価値に移転されていくのだが、機械や建物の場合は、そうではない。たとえば、百万円の価値をもち十年の耐用年数のある機械は、一年につき十万円ずつの価値が新しい商品の価値に移転していくのである。

 どうして、価値の移転の仕方はそれぞれちがうのだが、いずれにせよ、生産手段の価値は、少しもその大きさをかえないで新しい商品に移されていくのである。

 しかし、労働力に投下された五百万円の価値はそれとはちがうのである。それは、生産にあたっては価値が移転するのではなくて、それとは別に、より大きな、新しい価値一千万円をつくりだし、これが、「新しい商品」の価値につけ加えられることとなるのである。さて、それは一体、どうしてなのであろうか。ここにこそ、資本主義的生産の搾取のしくみの根本がかくされているのである。

剰余価値の搾取について

 労働力は商品である。商品は使用価値と価値をもっている。

 「労働力の価値」とは賃金のことである。いま、何十人かの労働者に「労働力の価値」どおり賃金五百万円が支払われたと仮定する。ところで、「労働力の使用価値」とは何であるか。

 それは労働力を使用し、生産手段とむすびつけて労働させるということである。そうすると、この労働は新しい価値を創造するのであり、しかも、それは、労働力自身のもっている価値五百万円よりも、一層、大きな新しい価値一千万円を生み出し、「新しい商品」の価値を形成することとなるのである。

 なぜ、労働力の使用価値は、自分自身のもっている価値よりも、より大きい価値を生み出すのであろうか。

 それは、こんにちにおける生産力の発展によるものである。
 人間があらわれたのは、いまからおよそ二百万年前である。それ以来、人間社会は、生産力を低い段階から高い段階へとしだいに発展させてきた。そして、こんにちの資本主義社会の下で、機械制大工業をつくりあげ、そのことによって、こんにちでは、労働者は、かりに一日に八時間の労働をすれば、彼の「労働力の価値」の一日分(五人家族の一日の平均的生活費)に相当するものよりも、ずっと大きな価値を生み出しているのである。

 それを別のことばでいえば、こんにちのように生産力が発展している条件のもとでは、労働者が、自分の「労働力の価値」の一日分に相当するだけの価値をつくり出すためには、八時間ではなしに、たとえば四時間ぐらい労働すればよいということである。しかし、資本家にしてみれば、この労働者に、「労働力の価値」の一日分だけの賃金さえ支払えば、この労働力をまる一日(といっても二十四時間という意味ではない、睡眠時間、休息時間もいる)、たとえば八時間働かすことができるのである。すると、八時間の労働は「労働力の価値」に相当する分の二倍の新しい価値をつくり出すこととなるのである。

 ところで、こうして、労働者がつくり出した新しい価値一千万円は、すべて資本家のものであって、労働者のものではない。

 なぜなら、労働者は労働力を資本家に売り渡したのであり、この労働力を使用するのはすべて資本家であり、それによってつくり出した「新しい商品」とそれにつけ加えられた新しい価値も、すべて資本家のものとなるのである。そして、労働者がつくり出した「新しい価値」一千万円から、「労働力の価値」五百万円を差引いたのこり五百万円が剰余価値であり、これが資本家によって搾取されるのである。そして、資本家の「もうけ」のすべての源泉は、この剰余価値の搾取にあるといわなければならないのである。
(全国自動車運輸労働組合編集「労働組合員教科書」学習の友社 p50-55)

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◎「われわれは労働の価値をさがしもとめて、必要とするよりも多くのものを見いだした」と。