学習通信060615
◎もっと短く、ズバリ……

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 経済学者たちが「労働」の生産費だとみなしてきたものは、労働の生産費ではなくて、生きた労働者自身の生産費であった。

そして、この労働者が資本家に売ったものは、彼の労働ではなかった。

「彼の労働が現実にはじまるやいなや」、とマルクスは言う、「それはすでに、労働者のものではなくなり、こうして、もはや彼によって売られるわけにはゆかない」と。

こうして、労働者はせいぜい彼の将来の労働を売ることができるだけであろう、すなわち、一定の時間に一定の作業を遂行するという義務をおうことができるだけであろう。

しかし、こうすることによって、彼は、労働を売るのではなく(労働を売るというときは、もうすでに労働がなされていなければならなかったであろう)、一定の時間にわたって(時間賃金のばあい)、あるいは一定の作業を目的として(出来高賃金のばあい)、彼の労働力を一定の支払いとひきかえに、資本家の自由処分にまかせるのである。

つまり、労働者は彼の労働力を賃貸または販売するのである。

しかし、この労働力は、労働者の身柄と癒着していて、それからひきはなすことはできない。

したがって、労働力の生産費は、労働者の生産費と合致する。

経済学者たちが労働の生産費と名づけたものは、まさしく労働者の生産費であり、したがってまた労働力の生産費なのである。

そこでわれわれはまた、労働力の生産費から労働力の価値にもどって、マルクスが労働力の購買と販売にかんする節でしたように(『資本論』第一巻、第四章第三節)、一定の質の労働力の生産のために要する社会的に必要な労働の分量をきめることができるのである。
(マルクス著「賃労働と資本 エンゲルスの序論」新日本出版社 p21-22)

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第3章 労働力の価値と使用価値

 この章から、資本と労働との関係、資本主義的富の秘密という、最も重要な問題に入る。

 資本主義の社会では資本家と労働者のあいだにひどい所得のひらきがある。現在の日本では、労働者の平均賃金は、月例定期給与一八・三万円、一時金など特別給与をふくめて年収約三〇〇万円弱、月平均二四・八万円である(規模三〇人以上、常用労働者、一九七九年)。これに家族の収入をふくめた勤労者世帯の平均年収は二九歳までで三〇〇万円、四五〜五四歳で四七〇万円となっている(総理府統計局家計調査、一九七九年)。

ところが巨大資本家の年間所得は、億円単位がめずらしくない。国税庁の長者番付には毎年、何億、何十億円といった高額所得者がズラリと並ぶが、たとえば、年間所得二四億円ならば、一ヵ月にして二億円、一日にして六六六万円、寝ているあいだも計算に入れて一時間二七万七五〇〇円、一分間四六二五円、一秒間七七円というわけである。この大資本家の一年間の所得は平均的労働者の八〇〇年分の賃金に相当する。

 では、現代資本主義社会における大資本家の大きなもうけはどこから出てくるのだろうか?

1 不等価交換では真の説明にならない

 ふつうの常識でいえば、資本のもうけは、商品を価値どおりの価格で仕入れてそれを価値以上の高い価格で売るか、あるいは商品を価値以下の安い価格で仕入れてそれを価値どおりに売るか、あるいはその両方の手をつかうことによって、得られるものだと思えるであろう。ところが、じつは、これでは本当の説明にはなっていない。

というのは、ある資本家が安く仕入れて、あるいは高く売って、もうけたときには、取引相手の資本家が安く売って、あるいは高く買わされてそんをしているはずで、社会全体、資本家全体では差引ゼロ、何ももうけはなかったことになるからである。だから、安く買うとか、高く売るというような、不等価交換はひとまず脇へおかねばならない。理論としては、まず商品は等価で交換されると前提したうえで、しかももうけが生まれるというしくみを明らかにすることが必要なのである。

2 資本主義では労働力が商品として売買されている

 資本主義社会をかたちづくる基本的な階級は資本家と労働者とである。
 資本主義経済の特徴をひとことでいうと、資本家が生産手段を所有していて、労働者をやとって働かせるような経済のしくみ、といえる。労働者は生産手段をもっていない、つまりプロレタリア(無産者)であるから、生活資料を買うのに必要な貨幣を手に入れるためには、大量の生産手段の所有者である資本家にやとわれるよりほかに道がない。

●……資本主義社会には、このほか小生産者(農民、手工業者)や小商人がいる。この階級は、自分のわずかばかりの生産手段を所有していて、ほとんどあるいはもっぱら自分と家族とで労働する。

 ところで、労働者が資本家にやとわれるとき、じつは、かれは自分の労働力を資本家に売っているのである。労働力とは、《人間の身体にそなわっていて、人間が使用価値を生産するたびにつかうところの、肉体的および精神的能力の総体》をさしている。かんたんにいえば、労働力とは「労働能力」のことである。労働者は、ほかに売るものがないので、この労働力を売って、貨幣をえている。資本家のほうからいえば、労働者から労働力という商品を買いとっていることになる。労働者が資本家にわたす「履歴書」は、この労働力という商品の内容紹介、効能書にあたる。このように資本主義社会では、労働力が商品として売買されているのである。

●……われわれはいま、労働者は労働力を売るといったが、もちろんこれは奴隷の売買とは性質がちがう。奴隷のばあいは、奴隷自身が、丸ごと売られてしまう。そのため、奴隷の人格なんてものは認められず、物として、役畜なみに扱われた。しかし、労働者はそうではない。労働者は自分自身を、丸ごと売ってしまうのではない(それなら人身売買)。労働者自身が売り主になって、自分の持ち物である労働力を(それも時間ぎめで)売るだけである。これは純然とした、商品取引であって、売り手(労働者)と買い手(資本家)とは、法律的にも、人格上でも、まったく対等である。「雇われている身だから」といって卑屈になるのは、大きなまちがいである。

 さて、労働力の売買から、どんなからくりが展開するだろうか。

3 労働力の価値はなんで決まるか

 労働者は資本家のために労働力を支出し労働するかわりに、資本家から賃金をうけとる。では賃金とはなんだろうか? 賃金とは労働力という商品の価格である。

 資本主義社会では、商品を買うと、代金を払わなければならない。資本家は労働者から労働力という商品を買ったから、この商品の持ち主である労働者に代金を支払わなければならない。だから賃金とは労働力という商品の価格である。常識では賃金とは労働にたいする報しゅう、労働の価格だとおもわれている。しかし、げんみつにいうと、これはまちがいである。賃金とは労働力の価格なのである。

 では賃金、労働力の価格は、なにによって決まるか?

 ここで、まえに商品の価値と価格について述べたことを復習しよう。──すべての商品は、ある大きさの価値をもっている。価値とは、価格であらわされるねうちのことである。ある商品がどれだけの大きさの価値をもっているかは、その商品をつくるのにどれだけの分量の労働が社会的に必要であるかによって決まる。そして、この価値を中心としながら、そこへ需要と供給との状態、あるいは売り手と買い手との力関係が働いて、商品の具体的な市場価格が決まる。

 労働力商品についてもこれと同じである。「労働力の価値」、を中心として、これに売り手(労働者)と買い手(資本家)との力関係が加わって、労働力の価格(賃金)が決まる。このばあい、労働者の力が強くなれば賃金が上がり、資本家の力が強くなれば賃金が切り下げられるということは、すぐわかる。

 むずかしいのは、労働力の価値である。ここが経済学のなかでの一番の難関なのである。

 商品の価値とは、その商品のねうち(ねだんでいいあらわされているねうち)であった。労働力もまた、商品として売買されるからには、ほかの商品と同じように、そういうねうちをもっている。では、労働力の価値の大きさは、どういう原理で決まるのだろうか?

 まず、つぎの定理をおもいだしていただきたい。──《商品の価値の大きさは、その商品を生産するのに社会的に必要な労働の分量で決まる》。

 これを労働力の価値にあてはめてみよう。──《(労働力の)価値の大きさは、(労働力を)生産するのに社会的に必要な労働の分量で決まる》となる。だが、これだけではまだなんのことかさっぱりわからない。

 この「労働力を生産する」というのは、いったいどういうことか? ふつうの商品は工場で製造されるし、牛や豚なら牧場や養豚場で飼育される。けれども、まさか労働力がこれと同じようなやり方で製造されたり飼育されるわけはない。なぜなら、労働力とは人間の労働能力のことであって、人間のからだから切りはなせないものだからである。労働力の「生産」は、じつは労働者が生活しているなかでひとりでにおこなわれているのである。

 「労働力を生産する」ということには二つの意味がある。

第一は、労働者本人が、毎日の疲れをなおし、生命エネルギーを回復し、日々新たに労働能力をつくりだすことである。こうするためには労働者は衣・食・住の糧(生活資料)を手に入れなければならない。

 第二の意味は、労働者が家庭で次の世代を生み、子どもから一人前の労働力を備えた人間に育ててゆくことである。そのためには労働者の家族ぜんぶが生活資料を手に入れて消費できなければならない。

 そこで、さきに書いた「労働力を生産するのに社会的に必要な労働の分量」というチンプンカンな言葉を、ふつうの言葉になおすと──「労働者本人およびその家族が生きてゆくために必要な生活資料、を生産するのに社会的に必要な労働の分量」ということになる。これなら、わかる。けれども、まだ長すぎる。もっと短く、ズバリというと──《労働者とその家族とが生きてゆくのに必要な生活資料、の価値》。これでよい。これが労働力商品の価値の大きさを決めるものなのである。

 石川啄木の有名な歌に、「働けど 働けどなお わがくらし 楽にならざり じっと手をみる」というのがある。じっさい、賃金を家へもってかえっても、生活に必要な費用をさしひくと、あとにはほとんど何ものこらない。これこそ、労働力の価値は「生活資料の価値」で決まるということの経験的なあらわれである。

 なお、労働力の価値について、二、三のことをおぎなっておこう。
 熟練労働者として、複雑な機械をとりあつかえるようになるまでには、熟練修得のために一定の労働を支出しなければならない。この支出は、労働力の訓練育成費として、労働力の価値のなかに入る。

 だから、労働力の価値とは、@労働者本人の生活資料の価値、A労働者家族の生活資料の価値、B特別な訓練育成のための支出、の三つの部分から成り立っているわけである。

 つぎに、労働力の価値を決める「生活資料の価値」というときには、たんに物質的な生活資料だけでなく、文化的な生活資料もふくまれている。たとえば、新聞や書籍やステレオの購入、観劇や音楽会にゆくこと、子どもの教育費などがそれである。

 労働力の価値のなかから文化的要素のすべてを除去し、その線をこえると人体の再生産さえおぼつかなくなるというギリギリの最低線まで切り下げたものを労働力の価値の最低限界とよぶ。

 労働力の価値の大きさは、時代によってまた国によって、変化する。それには、その国の労働者階級が形成されてきた歴史的な事情や、封建制度や外国帝国主義の支配がどの程度までとりのぞかれているかといったことや、あるいは自然的な条件なども作用する(たとえば、アメリカで労働力の価値が外国よりもずっと大きかったことの一つの理由は、国がひろくて、自動車がすべての人の生活必需品になってしまっていることにあった)。

 しかし、ある国、ある時代では、労働力の価値は一定の大きさをもっている。また労働力の価値を決定する重要な要因は、労働者階級の社会的地位の高さ低さである。労働者階級の社会的地位によって、「労働者とは、ふつうどの程度の生活をするものであるか」という社会的な通念ができ上がり、それによって労働力の価値の水準が決められるからである。だから労働者は、賃金を上げるためには、せまい意味での経済闘争だけでは足りないのであって、どんどん政治闘争に参加し、社会的・文化的活動をおしすすめ、その社会的地位の向上をかちとってゆかなくてはならない。これは、労働力という商品の価値の特殊性からして、必然的にそうなるのである。
(林直道著「経済学入門」青木書店 p27-34)

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◎「労働の生産費と名づけたものは、まさしく労働者の生産費であり、したがってまた労働力の生産費なのである」と。