学習通信060628
◎たえず新しい奴隷が……

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──労働力はつねに商品であったわけではない。

労働はつねに賃労働、すなわち自由な労働であったわけではない。

奴隷は彼の労働力を奴隷所持者に売ったわけではなかったが、それはちょうど、牛がその仕事を農民に売ったのではなかったのと同じことである。

奴隷は、彼の労働力ぐるみ、いっぺんに彼の所有者に売られる。

彼は、一人の所有者の手から他の所有者の手にゆずりわたすことのできる一つの商品である。

彼自身が一つの商品であるが、労働力が彼の商品であるのではない。

農奴は、彼の労働力の一部だけを売るにすぎない。彼が、土地の所有者から賃金をうけとるのではない。むしろ、土地の所有者が彼からみつぎ物をうけとるのである。
(マルクス著「賃労働と資本」新日本出版社 p36-37)

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原始共同体制度

 人間のいちばん最初の経済制度は原始共同体とよばれている。共同体の内部では、人間の性や年齢による体力のちがいにおうじて「自然的な分業」がおこなわれていた。たとえば狩猟は男の仕事だが、えものの分解や皮を干したり、畑をたがやしたりするのは女の仕事、木の実をひろうのは子どもの仕事、また、老人は経験がゆたかだから狩りのさしずをし、若者はからだがつよいから獣と格闘するといったような分業である。このような分業以外に、人間の人間による搾取とか支配と従属というものは存在しなかった。

 この社会では生産物の分配は共同体のメンバーのあいだに平等におこなわれていた。それは、この社会では土地や労働用具など、すべての生産手段が共同体全体の共同所有物となっていたことによるものであった。人類史の始源は、こういう原始的な共産主義の社会であったということをはじめて述べたのは、アメリカ・インディアンのイロクオイ族を研究したモルガンの『古代社会』(一八七七年)という本であったが、やがてエンゲルスは『家族・私有財産・国家の起源』(一八八四年)という本を書いてこの社会の経済のくみたてをくわしく説明した。

私有財産制度(生産手段の私有制)に馴れてしまった人びとは、このエンゲルスの学説をなかなか認めようとしなかった。けれどもその後いろいろの学者の研究や旅行者の見聞によって、それが事実であり、科学的な正しい主張だということがたしかめられている。

 だが、搾取がなく、平等だといっても、原始共同体をすばらしい社会とみるのはまちがいである。生産力が低かったから、人びとの生活はみじめであった。この時代の人間にとって食人の習慣は普通であった。

 生産手段の共有、生産物の平等分配というこの時代の経済制度は、じつは、この社会の生産力の低さからきたことであった。この時代の生産用具は、粗末な石器、木や骨の道具、植物のセンイをもんでこしらえたアミ、竹のカゴなど、ひじょうに幼稚で貧弱なものばかりであった。だから、狩りをするにも、栽培をするにも、共同体の人間が総がかりで、力をあわせてしなければならなかった。そこで生産手段は共同体全体の共有物となったのである。

また生産物はきわめて少なく、共同体メンバーを養うのに、せいいっばいであった。だからだれかが余分にとることができなかったのである。つまり、労働手段の貧弱だったことが、集団労働を必然的なものとし、このことが生産手段の共同体的所有と平等分配の制度を生みだしたのであった。

 ところが、労働手段が進歩し生産力が発達してくると、もはや共同体が総がかりで生産にとりくまなくても、数人単位で生産することができるようになった。そこでいちばん近い血縁の集まりである家族という小集団が共同体のなかに出現した。家族は、歴史のはじめからあったのではなく、生産力があるていどすすんだ段階に生まれたものである。いまや家族が生産の単位となった。

そこで生産手段もだんだん個々の家族の私有物にかわっていった。このばあい、わりあい早く私有に移ったのは労働用具であって、土地や山林はずっとおそくまで共有物であった。こうして血縁的な「氏族共同体」は私有をはらんだ「村落共同体」へと変わった。生産物の余剰ができるようになり、富んだ家族と貧しい家族とへの分化があらわれた。こうして原始的共産主義経済はしだいに崩れていったのである。

 なお、原始共同体制度は、おおむね母系社会であった。これは、男のおこなう狩りよりも女の牧畜・農耕のほうが収穫が確実だったことによるものであった。さらに、この時代の結婚は一夫一婦でなく乱婚だったので、子どもの父親がだれなのか、はっきりしなかった。だから財産は女親から女の子をつうじて相続され、他部族へ富が流れ出るのを厳重に防いだ。生産力がすすんで、人びとが家庭に定着し、農業・牧畜が主な仕事になり、しかも体力のいる生産用具(動物にひかせるスキ)がつかわれはじめると、男のほうが経済的に重要な役目を果たすようになった。そこで母系制は滅んで家父長制度にかわったのである。

奴隷制度

 原始共同体の解体期には、生産用具の発達、生産力の発達のために、共同体の内部に、生産手段の私有があらわれてきたことは前項で述べたとおりである。私有が発生すると、いままで共同体の指導者すなわち族長だったり、また祭司役をつとめていたものが、その地位を利用して共同体の共有財産をしだいに私有物にかえてゆき、いちばん多くの富をたくわえるようになった。ところが、生産用具の発達、生産力の発達は、もう一つの重大な変化をもたらした。

それは、労働によって人間が剰余生産物を、すなわち自分の生活に必要な分量以上のものを、つくることができるようになったことである。このことは、ほかの人間を働かせ、その剰余生産物をとりあげること(「剰余労働」を搾取すること)が可能となったことを意味している。こうなると、いくさの捕虜の運命に変化がおこった。

 この時代には、ある共同体とほかの共同体とのあいだで、とくに牧畜種族と農業種族のあいだで、生産物の交換がおこなわれていた。これは平和な取引である。しかしいつもこのような平和な関係ばかりではなかった。共同体どうしが争いをおこすことも、まれではなかった。争いがおわると、捕虜が共同体へつれてこられた。生産力が低くて、人間の労働によって自分の食べる分しか生産できなかったころには、捕虜を働かせてその剰余生産物をとりあげることができないから、捕虜は殺され、喰われてしまった。原始人が人喰人種だったのはそのためであった。

 ところがいまや、その捕虜が労働するならば、この捕虜が生きてゆくのに必要な分と、なおそれ以上のいくらかの剰余の生産物とをつくりだせるようになった。そこで、捕虜を殺さないで、労働させ、その生産物を搾取するということになった。つまり捕虜は奴隷となったのである。こうなるとこんどは、はじめから捕虜を手にいれることを目的にした奴隷狩りの戦争がおこなわれるようになり、奴隷の数がふえていった。

 また、この時期には、社会的分業がすすみ、市がひらけ、商品の交換がさかんになった。貨幣があらわれ、商人や高利貸も生まれた。そして借金をかえせないときには、罰として奴隷の身分におとされるということがおこなわれた。こうして、捕虜だけではなくて、共同体のメンバーのなかからも奴隷になるものがでてきた。

 こうして社会は、「奴隷所有者」と「奴隷」という二つの人間集団、すなわち二つの階級に分裂したのである。

 この時代には、原始共同体の遺制(なごり)である「村落共同体」(家畜や生産用具は私有物だが、土地の一部や山林はその村落の共有物になっている制度)がひろく残っており、この共同体には小農民がたくさんいた。かれらは奴隷とちがって「自由民」だったが、自分の労働だけで生計をたてていたから、経済的に貧しかった。これにたいして奴隷所有者の経営ははるかに生産力が高く、経済的にもゆたかであった。

 奴隷所有者階級は、いつ奴隷が反抗しても、これを鎮圧できるように、とくべつの機関をこしらえ、武装した人間を常設した。この階級的抑圧機関が国家である。

 奴隷制度は、四、五千年も前からエジプトや小アジアや中国にあらわれたが、それがいちばん典型的なかたちをとったのは、古代ギリシアとローマ帝国とであった。

 日本では一世紀ごろ奴隷所有主の権力組織であるくに≠ェつくられ(たとえば三世紀の邪馬台国)、のち、大和盆地にくに≠フ統合体であるヤマト国家ができた。有力な豪族が交代で首長となり、大陸から伝わった道教に出てくる神の名をとって「天皇」とよんだ。世襲的な古代天皇制が確立されたのは大化改新(六四三年)ののちである。

 さて、奴隷制という経済制度(生産関係)の特徴は、支配階級が生産手段を私有しているだけでなく、奴隷をも生産手段と同じように私有していたことである。奴隷は、同じ人間でありながら、人間としては扱われなかった。奴隷は商品として売買され、からだに焼印をおされ、逃げないように鎖や首輪をはめられていた。かれらは結婚したり家庭をもつことはゆるされなかった。奴隷所有者は、気にいらなければ奴隷を殺しても、かまわなかった。奴隷は「ものをいう道具」として家畜なみに扱われた。

 奴隷制度の時代には、原始共同体時代とはくらべものにならぬほど生産力が増大した。これはひとつには金属製の用具の出現によるものであった。けれども、じっさいには、奴隷はいつも第一級の生産用具をつかって働いたわけではなかった。というのは奴隷は、その労働の苦しさにたえかねて労働用具を乱暴にあつかい、たいていすぐにこわしてしまうから、いくら能率がよくても、貴重な用具類をうっかり奴隷にもたせることはできなかったのである。

じっさいは奴隷に与えられたのは、能率はわるいが、そのかわり、ふんでもぶっつけてもこわれない「頑丈な点だけがとりえ」といったような用具であった。能率よりも頑丈さで用具を決めるこのやり方をマルクスは、「奴隷制の経済原則」と名づけている。

 奴隷制時代の生産力を支えた最大の要素は、なんといっても奴隷の肉体を極限まで酷使したことであった。この時代には、奴隷所有者の権威をみせびらかすために、とてつもなくでかい大建造物がつくられた。エジプトにあるピラミッドとスフィンクス、ギリシアやローマの神殿、日本の古墳や大仏などがそうである。

たとえば、ピラミッドは古代エジプトのファラオ(王)の墓であるが、なかでも有名なケオプスのピラミッドは高さ一四八メートル。つみあげられた岩の数はなんと二五〇万個。総重量は六〇〇万トンで、ニューョークのエンパイア・ステート・ビルディングの二〇倍もある。これが今から四六〇〇年も昔に、石のオノと、丸太の滑車、そまつな捲上げ機とツナでつくられたのである。それはピラミッド建設にかりたてられた一〇万人の奴隷たちの血と汗と涙の結晶なのであった(その規模世界一といわれる堺の仁徳御陵は、高さ七〇メートル、敷地一四万坪。巨大な前方後円墳の土の量は一四〇万立方メートル)。

 奴隷制度は、たえず新しい奴隷が供給されなければ、成り立たない。そこで奴隷かくとく戦争がひんぱんにくわだてられた。このばあい軍隊の主力を構成したのは、自由民すなわち小農民と手工業者であった。ところが、かれらは生産物の一部を商品として市場で販売したが、奴隷所有者の大経営でつくられる安価な商品との競争にうちまかされるため、貧しかった。そのうえ、うちつづく戦争で、国家の租税とりたてがひどくなったために、しだいにおちぶれていった。そこで軍隊が弱くなるのは当然だった。敗戦がつづいた。新しい奴隷は、もう手に入らなくなった。奴隷が不足したので、奴隷制は頭うちとなり、経済はおとろえていった。

 奴隷制度にとどめをさし、これを崩壊させたのは奴隷の反乱であった。社会を袋小路からすくいだし、経済をいっそうすすんだ、高度な段階へおしあげたのは、奴隷の階級闘争の功績だったのである。

 けれども、奴隷は、自分たちが主人公となって、搾取と抑圧のない社会をつくりだすことはできなかった。かれらは、原始共同体という、滅んでしまった過去の世界への復帰を夢みるだけであった。このように、現世のなかに解放の道をみいだすことができないばあいには、その階級は、苦悩からの逃れ道を死後の世界に求めるほかはない。このことは、ローマ時代の奴隷反乱の革命思想であった原始キリスト教の教義によくあらわれている。それは人びとに、「大いなる獣」(ローマ皇帝)とその一味にたいする徹底的な抗争に立ち上がれとよびかけた。

そして、神の裁きによって、敵は終局的に滅ぼされ、「火と硫黄の池」になげこまれ、昼となく夜となく責めさいなまれる運命にあること、これにたいして、主の教えをまもってたたかいぬき、敵に虐殺され、「小羊の生命のフミに書きしるされた人びと」だけがエルザレムの天国で永遠の生命の水を汲むことを許されるのだと予言している(以上『ヨハネ黙示録』による)。原始キリスト教は、後年の(ニケア宗教会議後の)支配階級と妥協したキリスト教とちがって、戦闘的精神にみちた革命の教義だったけれども、革命の勝利と人びとの救済とが、この世でなく、あの世でしか実をむすばないという結論になっている点は、まさに奴隷の階級闘争の歴史的制約をあらわしたものである。
(林直道著「経済学入門」青木書店 p185-193)

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◎「奴隷は彼の労働力を奴隷所持者に売ったわけではなかったが、それはちょうど、牛がその仕事を農民に売ったのではなかったのと同じことである」と。