学習通信060630
◎鋳型に流し込む……

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娘の育て方

 私の学んだ時代には小学校から女学校まで数年間、裁縫の時間がありました。無器用な私は人の二倍の努力をして、やっと人なみに針を持てるようになりました。結婚後、仕事をもちながら、子どもの遊び着などを作ったり、それはそれなりに便利であったけれども、仕事をもって働く私の生活をかえっていそがしくさせ、いらだたせる面もありました。

そしてふと考えたことは「男の人たちは女が家事、育児、裁縫につかったエネルギーをどこでつかったのかしら」ということです。私の夫は無器用で、電気器具ひとつなおせないけれど、読書力、集中力はすばらしい。私はなんでも一通りできるかわりに、職業的には能率悪く、男性たちにおとり、気おくれしています。

 「女だから」と女だけが小さい時から実生活からかけはなれた和裁、洋裁をおしえこまれ、うんとエネルギーをついやされてきた私の過去の生活は、私が職業人として立つうえにあきらかなハンディになってしまったのではないでしょうか。

 女も男も差別なく、家事を処理する最低の技術や能力をつけることは必要だけれど、それよりも大切なことは、その子のもっているあらゆる能力や可能性をひき出し、得意なものを徹底的にのばすことの方が大切なのではないか、ということです。

 いわゆる「良妻賢母教育」が、教育の反動化とともに復活し、高校教育でも、女らしい教育が強調され、女子には家庭科を四単位必修課目にすることがきめられていますが、こうしたことは男子に比べて婦人の職業能力をますます低め、差別を大きくする結果をみちびきます。

 婦人の解放は社会的な生産にたずさわることによって、その第一歩がはじまることを考えるとき、私は娘たちに、女だからといって家事、育児の教育を強いるとすれば、結果として、娘たちをせまい家庭≠フなかにとじこめてしまう危険があると思います。

 つまり私が娘の育てかたでいちばん大切だと思うことは、男性と肩をならべて社会的な仕事のできる人間になる能力を身につけさせるために、女としての育て方よりも、人間としての育て方に心がけたいということです。

 ただここで注意しなければならないのは、どんなにわが娘をしっかり職業人にするべく育てても、資本主義社会へおくり出すかぎり、差別とたたかわないで女が働きつづけるのは不可能だということをはっきり知らさなければなりません。そういう現状の分析と展望が今日の父母に必要になっているのではないでしょうか。
(近藤・好永・橋本・天野「子どものしつけ百話」新日本新書 p100-101)

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教育基本法改悪
わたしはこう考える
帝京大学教授
東京大学名誉教授
浦野東洋一さん

押しつけても変わらない

 政府「改正」案は、教育を受ける権利をはじめとする子どもの権利の観点、子どもを成長・発達していく独立した人格の主体とみる観点が乏しいと思います。

 「改正」案の「教育の目標」に書かれていることは法律に書くべきことではありません。態度とか、道徳心は教育の課題ではあるけど、それはいろいろな実践の成果として子どもたちが身に着けていくものです。鋳型に流し込むようにして結論を押しつけても態度も能力もつきません。結局は子どもを学校嫌いにしてしまいます。

 私は開かれた学校づくりをテーマに、フィールドワークをしています。長野県の辰野高校では生徒と保護者、教職員、地域住民がともに学校について話し合う取り組みがおこなわれています。かつて服装や頭髪のことが話題になって、ファッションの自由だとかいろいろ議論になりました。そこには企業の経営者も来ていて「そんな頭髪で面接に来てもだれも採用しないよ」といった話をするんです。思っていることを率直に交流して、結果的に服装も頭髪も落ち着いていきました。

 自分たちの意見が大切にされることで子どもは変わっていきます。一方的に「お前たちはだめだ」というのでは変わっていきません。

 しかし、現場の先生にそういう話をすると「うちの学校ではとてもそんなことはできない」といわれることがあります。服装や頭髪が校則に違反している生徒は門で追い返すという学校もあって、そういうところではとても率直に親や教師が生徒と話し合うなんてできない。教育基本法が「改正」されたら、そんな学校がもっと増えていくのではないでしょうか。

 「改正」案の前文や「教育の目標」には「公共の精神」という言葉がでてきます。

 「公」とは何でしょうか。戦前の日本では公とは国家でした。教育勅語には「いったん緩急あれば義勇公に奉じ」とあります。この場合の「公」は国家、天皇です。教育は国家の支配的権能で、学校は軍隊や警察と同じく統治機構の一部でした。

 「改正」案をつくった人たちには、戦前と同じように「公」はお上のもの、教育は支配的権能だという発想があるようです。

 自民党が昨年発表した改憲案では「公の秩序」に反しないことが「国民の責務」とされ、国民の自由や権利より優先されています。小渕内閣のときに首相の私的諮問機関である「21世紀日本の構想」懇談会が出した報告(二〇〇〇年一月)では「国家にとって教育は一つの統治行為だ」「警察や司法機関などに許された権能に近いものを備え、それを補完する機能を持つ」と述べています。

 しかし、戦後は新しい憲法のもとで主権在民となり、教育は支配的権能ではなく、子どもの学習の権利を保障するもの、子どもの利益のためにおこなわれるべきものだとされました。

 現行の基本法には「学校は公の性質を持つ」とありますが、この場合の「公」は戦前とは違います。「公」はみんなに開かれているもの、みんなで対話し合意を形成してつくっていくものです。学校もそうです。

 私は「愚痴を公論」にといっているんです。教育ヘの不満はいろいろある。愚痴をいうのもいいけれど、どうしたら改善できるのかを子ども、親、教師、住民が知恵を出し合い、コミュニケーションを活発にして学校をつくっていく。そうした開かれた学校づくりは各地で着実に成果を上げています。それは現行の教育基本法を生かした取り組みなのです。
(「しんぶん赤旗」2006.6.27)

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◎「大切なことは、その子のもっているあらゆる能力や可能性をひき出し、得意なものを徹底的にのばすことの方が大切なのではないか」と。