学習通信060703
◎性差のあらわれ方さえ
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娘たちの夢
長女のルミ子は、一九九六年十月十九日、私の五十八回目の誕生日に、結婚式を挙げた。父親の他界で、最初の予定より六ヶ月遅れたスケジュールを立てた。式は明治神宮、披露宴は明治記念館で行なわれた。結婚式は明治神官で、というのが、ずっと夢だったと長女は言う。式には夫の写真も参列した。
長女は家電メーカーで、衛星通信など通信関係の研究を進めているが、世界の標準基準を決める国連での会議などに日本代表として参加するため、チューリッヒに滞在して、国際的に活躍している。
子どもの教育のなかで私が腐心した「娘たちはバイリンガルに」の計画をしっかり受け止め、英語に加えて、フランス語やドイツ語も習得して、マルチリンガルを目指し、仕事に役立てている。
『現代日本女性人名録』(日外アソシエーツ発行)では、私の項目の次に、「米沢ルミ子」と長女の名前が載っている。こんなことを夫が知ったら、そのページをもう山のようにコピーして、知っているかぎりの人にばらまくだろう。
三十四歳で係長クラスのポストについたと、先日電話があった。私は会社のシステムが分からないので、これがどれほどのものかも位置づけられないが、とても楽しそうに生き生きと仕事をしているのは、うれしい限りである。
二女の恵美は、一九九七年五月に、カリフォルニア大学バークレー校の修士課程を終え、MBA(経営学修士号)を取得した。日本で大学を出たあとしばらく働き、自分で貯めたお金で学資を全額まかなった。本人もそれがとても誇らしい様子だった。「これで姉妹全員、修士課程を出たことになるね」と目を輝かせていた。
五月二十五日の卒業式には、長女のルミ子と、二女の婚約者と、私の三人で、サンフランシスコに出かけて、卒業式に出席した。式場は「グリーク・シアター」と案内状に書いてあったが、行ってみるとギリシャ式の立派な野外劇場だった。博士課程、修士課程、学部の合同の卒業式だった。
卒業生たちは、濃紺の角帽とマントを着ていて、外国の映画で見る格好そのままだった。日本の卒業式のように格式張ったところはなく、のびのびと明るく、それでいて格調高い雰囲気のなかで進められた。夫はこういう雰囲気が好きな人なので、もし出席していたらきっと大喜びで楽しんだだろう。
二女は英語力に関して、わが家のトップ格になった。ニュージャージーに住んでいたころ、娘たちのすばらしい発音に、夫と二人でメロメロの親バカぶりをみせていたように、今も私は娘たちの英語を聞いて、メロメロになっている。
仕事の分野としては、二女が父親の専門にいちばん近い。ファイナンスやネゴシエーションなど、幅広い能力を活かして、チャンスがあるたびにステップアップを狙っている。配偶者と一緒にいずれは会社をつくるのが夢である。
長女も二女も、夫婦別姓の法制化を待っており、今のところはいわゆる事実婚をしているが、そのことによってどこにも摩擦が生じていないのは、時代の流れとはいえ、心強い限りである。
三女の美由樹は、月刊の科学雑誌の編集をしながら、科学ジャーナリストを目指していたが、昨年(一九九九年)長男を出産し、とりあえず半休業状態で、育児のかたわら、パソコンや電子メールを使って自宅でできる編集などの仕事をしている。
湯川秀樹先生の名前の一字をもらった三女だが、息子には司馬遼太郎の名前をそっくりもらって、「遼太郎」とした。といっても、司馬さんはすでに鬼籍に入っておられるので、ご本人の許可はもらっていない。三女の子どものころにそっくりの顔をしている。あまりにそっくりなので、私は三十年前にタイムスリップしたのかと思ってしまう。孫というのは、子どもの場合と違ってちょっと距離を置いて眺められるので、自分の子育てのときには余裕がなくて見えなかったものも見えてくる。
遼太郎は額のあたりが広く、夫にも似ている。夫は娘たちに、「早く結婚しろ」などということは一切言わなかった。むしろ、職業人として一人前になることを、期待し奨励していた。私に向かって、「君の勉強している姿を最近見ない」と言ったのと同じスタンスで、娘たちにも接していた。だから「孫の顔を早く見たい」という発言をすることもなかったが、一度だけ酔って、それらしいことをふともらしたことがあった。自分に似た額を持った孫を、どこかから見ているだろうか。
三女夫婦はニ人で協力し、子どもを大切に大切にして、一生懸命子育てしている。その様子は、見ていてもほんとうに微笑ましい。
娘たちは三人とも、夫婦で自然に家事の分担をしている。家事・育児にはまったく手を染めなかった私の夫とは、雲泥の差である。てんてこまいしていた母親の背中を見て育ったので、自分たちは正しい選択ができたのかもしれない。
娘たちが幼かったころ、私はこの娘たちをありとあらゆる世間の嵐や人生の苦労から守ろうと思った。母鳥としてそれが当たり前だから、私はたいして強くもない羽をいっぱいに広げて娘たちを荒波から守った。娘たちが成人して、私よりたくましくなっても、私は相変わらず娘たちを羽の下にかかえてがんばっているつもりだった。夫が他界したときも、夫の分と二人分、この娘たちを守らないといけないのだから、私は長生きをしなければ、と考えていた。そしてこういうふうに娘たちにメロメロの私は、子離れがむずかしいだろうと予想していた。
しかし、その後、娘たちが次々に結婚し、すばらしい伴侶と生活を始めたとき、私は「ああこれでお母さんを卒業できた」と思った。この思いは「ストーン」という感じで俯に落ちた。娘たちが困難に出くわしたとき、それぞれに「一番心配してくれる人」がいる。もちろん私も心配するだろうし、必要なら手もさしのべる。とはいえ、「一番心配しなければならない人」ではなくなったのだ。思いがけない解放感が胸いっばいに広がった。人生の使命のひとつを達成したような安らいだ気持ちになった。娘たちの幸福を距離を置いて見守っている幸せ、というものも最高である。
(米沢富美子著「二人で紡いだ物語」朝日文庫 p306-310)
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女の子のしつけ
男の子といっしょになって、泥と汗にまみれて遊んでいる女の子の母親がいいました。
「まあ、この洋服はきのう替えてあげたばっかりでしょ。何という遊び方をするんでしょう。女の子のくせに」と。
こんなしかり方はつつしんでほしいものです。なぜ女の子は、全エネルギーを出しきって、なりふりかまわずに、夢中になって遊んではいけないのでしょうか。
「ほらほら、ちょっとお友だちを見てごらんなさい。だれもそんなことしていないでしょ。あなただけよ。はやくやめましょう」というしかり方も見受けます。
これでは小さいときから周囲の人のことばかり気にするようにしつけていることになります。自分のしていることがいいことか、わるいことかを、自分の頭で考えるようにさせることこそ、ほんとうに教育的しつけなのです。
こういうおとなのもとでは、子ども、とくに女の子は、体操のときも一〇〇パーセントの活発さで手足を屈伸しなくなります。意見発表のときも、自分の意見の五、六割をのべたら、あとは相手と周囲の反応を気にする、というようになります。それが「女らしさ」であると自覚するようにもなりましょう。
これが日本の働く人びとのむすめを教育するのにふさわしいしつけでないことは、いうまでもありません。
幼稚園の遊動円木で、男の子はまたいで乗り、女の子は両足を片側にそろえ乗りました。男の先生が、「どういうふうに乗ればおちないか」「しっかりした乗り方をすれば、うんとこいでも大丈夫だぞ」と指導してやると、やがて男の子も女の子も、またいで乗りいっしょに思いきりこげるようになりました。ほかの運動の場面でも見ちがえるように活発になったとのことです。そうじのとき、男の子がほうきやぞうきんをあつかうのを、おかしいといった女の子も、教師の指導によって、男女が力をあわせて遊び、働く意義と楽しさを体得するようになりました。
ニューギニアの北、マヌス島では女が長時間の農耕に従事し、男は短時間の漁業ののち育児にあたります。ここでは人形をだいて遊ぶのは男の子だそうです。事実が証明しているように、性差のあらわれ方さえおとなの社会の投影で、けっして「生まれつき」「ひとりでに」なるものではありません。私たち働く人の積極的な教育観こそが大切です。
(近藤・好永・橋本・天野「子どものしつけ百話」新日本新書 p102-103)
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──むしろ、職業人として一人前になることを、期待し奨励していた。私に向かって、「君の勉強している姿を最近見ない」と言ったのと同じスタンスで、娘たちにも接し──。