学習通信060705
◎買い物に……

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買い物

 少しつき合いが深くなった若い女性から、「私、買い物依存かも」と打ち明けられる機会がときどきある。ほとんどの場合、カード破産にいたるような深刻な状態ではないのだが、買い物をする予定のない日でも、ドラッグストアや雑貨屋に寄るとつい何千円か買い物をしてしまう。ブティックで試着だけ、と思ってもつい「買うわ」と言ってしまう。「今月も貯金、できなかったんですよねぇ」と明るく笑う顔を見ながら、「買い物が気晴らしになってるならいいんじゃないの」と答えるが、心のどこかで少しだけ心配にもなる。今は気晴らしになっている買い物が、いつかそうでなくなっていく例をいくつも見たことがあるからだ。

 では、気晴らしにならない買い物、とはどういうものなのか。それは自己肯定感を与えてくれる買い物だ。

 たとえば、私が治療者としてかかわっていた買い物依存症の若い主婦は、こう言っていた。「毎日、一生懸命、家事や育児をしていても、だれも何も言ってくれません。こんな私を唯一ほめてくれるのは、お店の店員さんだけ。試着をすると、本当にお似合いですね、かわいい、と言ってくれる。「じゃ、いただきます」と言うと、お目が高い、ぜったいお買い得ですよ、ともっとほめてくれる。それを聞くたびに、とてもいい気分になって自信がわいてきます……。店を一歩出ると、「また買ってしまった」と落ち込むんですが」。

 もちろん、店員は商売でほめているのを知ってはいるのだが、それでも「すごい」「すばらしい」と手放しで自分を肯定してくれることばがほしい。趣味や仕事などほかのことでは、それほど簡単にだれかにほめられるかどうかは、わからない。もちろん、家庭ではだれにも ほめてもらえない。

 本当は、思春期の年齢を超えたら、人は自分で自分をある程度、ほめたりなぐさめたりできるようになるものだ。「自分で自分をほめたい」と言ったマラソン選手がいたが、マラソンの場合だけでなく、毎日の仕事や勉強、家事でも人は「よしよし、よくやった」「失敗したけど、またがんばればだいじょうぶさ」と、自分で自分をほめたり励ましたりしなければならない。

 しかし、今の若者たちはどうもそれが苦手なようだ。いつもまわりの誰かから、「よくがんばってるね」「すごくいいじゃない」と肯定してもらえないと、不安になる。そして、それをわかっているから、若者どうしは「今日の洋服すっごくかわいいね」「カラオケの天才じゃないの」などと過剰に、しかし何気なくほめ合って、お互いの自己肯定感が薄れないように気をつけ合っている。相手のちょっとしたファッションや持ちものにほめるべき点を見つける彼らの感覚には、驚かされる。

 ところが、そう毎日毎日、だれかがほめてくれるわけではない。まして、会社に勤めたり主婦になったりすると、ほめてもらえる場面などほとんどなくなってしまう。そのときに、自分で自分をほめる能力がそなわっていない人の場合、「とにかくだれかにいいね、すごいね、と言ってもらいたい」とあせりを感じ、ついデパートやブティックヘ……となりがちなのだ。

 今、数百円、数千円のちょっとしたムダづかいを楽しんでいる多くの若者の買い物好きには、そういった自己肯定を渇望する病的な一面はない。しかし、「ありがとうございました」「すごくステキですよ」と、店員に全面的に肯定される快感に慣らされてしまうと、それがいつか「もっと私をほめて」という、より深刻な買い物依存に結びつかないとは限らない。実際、私ですら学生たちに日ごろ、「先生、そのクツ、かわいい」などとほめられ慣れていると、それがない日にはふと不安になることがある。

 もちろん、その前にだれにほめられなくても自分で自分を支え、自己肯定感を身につけることができれば、買い物に過剰に走ってしまうこともなくなるはず。そのためには、失敗してもひとりでやり直せる、挫折しても違う形で夢をかなえられる、というリセットのきく社会≠作る必要があると思う。一度、つまずいてもまたゆっくり立ち上がれる、という経験を積んでいけば、若者は「よしよし、これでいいんだ」と自己肯定感を育てて行くことができるのではないだろうか。そのためには、大人もつまずいた若者にすぐ手を差しのべるのではなく、自分の力で彼らが再スタートをし始めるのをゆっくり待ってやることが大切だ。
(香山リカ著「若者の法則」岩波新書 p72-75)

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おしゃれ

 小学校三年生の私の娘は、机の前にすわると女の子をかきます。それも一ページー着ずつ、ファッションショーの展開です。いま流行のパンタロンスーツをはじめミニスカート、ドレスにいたるまでいっきょにかいてしまいます。

 六年生の娘はデパートにいくのが大好きで、洋服の品さだめに夢中です。スポーツシャツからスラックスまで、一つひとつ注文をつけ、遠足の前日など友だちと服装のうちあわせをします。流行とおしゃれにたいする関心のつよさをみていると、親として少々末おそろしくなります。少女雑誌には女性週刊誌のミニ版のように少女ファッションがならび、夢のような小説や絵がのっていますし、テレビも娘たちを刺激します。

 女の子ばかりでなく、男の子も幼稚園くらいから毎日着るものに文句をいって困るとおかあさんたちが話しています。

 資本主義社会のなかで、いつも目新しいデザインを宣伝され、みせつけられている私たちは、子どもも含めていつも流行に追いかけられる気分になります。そんななかで子どもの服装についてどう考えたらよいでしょうか。

 幼稚園などのバザーでおかあさんたちが自分の子どもを前に立たせてたがいに、「これうちの子に似合うかしら」と何枚もあててみて選んでいるのをみかけます。きちんとした、小ざっぱりした服装ならばどんなデザィンでも子どもには合うのに、色や柄をあれこれ選んでいると、子ども自身が、こんどは「これぼくに似合わないよ!」というようになります。

 親の品選びや、親自身の服装や流行にたいする考え方が、知らないうちに子どもに影響してきます。しじゅう外観を気にして子どもに文句をいっていると、やはり経済的事情も考えず「みえっぱり」の要求が子どもからうまれます。

 消費ブームのなかで私たちが無意識に身につけてしまうぜいたくや消費ぐせを、よく反省しながら、生活形態や子どもの服装などに気をくばる必要があるのではないでしょうか。

 使用目的にみあった品物──たとえば子どもの服は洗たくがよくできる丈夫なもの──を選ぶ合理性を身につけたいものです。「センス」を養うのだといって色や柄に注文をつける母親がいますが、「センス」は教養からうまれるものです。
(近藤・好永・橋本・天野「子どものしつけ百話」新日本新書 p104-105)

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◎「いつも目新しいデザインを宣伝され、みせつけられている私たちは、子どもも含めていつも流行に追いかけられる気分になります」と。