学習通信060707
◎「資本家的共産主義」……
■━━━━━
われわれはいま、どのようにして、需要と供給の関係の変動が、あるいは価格の上昇を、あるいは価格の下落を、あるいは高い価格を、あるいは低い価格を、生みだすかを見てきた。ある商品の価格が、供給の不足や過度に増大した需要によっていちじるしく上昇すると、必然的にある他の商品の価格はそれにくらべて下落した。
なぜならば、ある商品の価格は、それとひきかえに第三の商品が得られるという関係を、ただ貨幣であらわしているにすぎないからである。
たとえば、一エレの絹織物の価格が五マルクから六マルクに上昇すると、銀の価格は絹織物にくらべて下落し、同様に、従来の価格のままにとどまっている他のすべての商品の価格も、絹織物にくらべて下落した。まえと同じ分量の絹製品を得るためには、ひきかえに、これらの商品をまえよりも多い分量であたえなければならない。
一つの商品の上昇する価格の結果はどうであろうか? 大量の資本がさかえている産業部門に投ぜられる。そして有利な産業の領域へこのように資本が移動することは、この産業がふつうの利得をあげるまで、あるいはむしろ、その生産物の価格が過剰生産によって生産費よりも下に低落するまで、長くつづくであろう。
逆に、一つの商品の価格がその生産費よりも下に下落するならば、資本はこの商品の生産から引きあげられるであろう。
産業部門がもはや時代に適合しておらず、こうして没落せざるをえないという場合をのぞけば、資本のこの逃亡によって、このような商品の生産、すなわちその供給は、需要に一致するまで、こうしてその価格がふたたびその生産費の高さに上がるまで、あるいはむしろ、供給が需要よりも下に低落するまで、すなわちその価格がふたたびその生産費をこえて上昇するまで、ひきつづき減少するであろう。
なぜならば、一つの商品の時価は、つねにその生産費の上または下になっているからである。
このように、資本は、一つの産業の領域から他の産業の領域へ、たえず出たり入ったりするものである。高い価格は過度の流入をひきおこし、低い価格は過度の流出をひきおこす。
われわれは、他の観点から、たんに供給だけではなく需要もまた、どのようにして生産費によって決定されるものであるかをしめすことができよう。しかし、それではわれわれの問題からあまりにもはなれすぎることになろう。
われわれがちょうどいま見たように、供給と需要との変動は、商品の価格をくりかえし生産費に引きもどすものである。
なるほど一つの商品の現実の価格は、つねに生産費よりも上か下になってはいるが、上昇と下落とはたがいに相殺するものである。
したがって、一定の期間内では、産業の浮沈を合算すると、商品はその生産費におうじてたがいに交換され、こうしてその価格はその生産費によって決定されることになる。
この生産費による価格の決定は、経済学者たちのいう意味に理解してはならない。
経済学者たちは言う、商品の平均価格は生産費にひとしい、これが法則であると。彼らは、上昇が下落によって、また下落が上昇によって平均されるという無政府的な運動を、偶然と見ている。
また、これと同じ権利をもって、他の経済学者たちのように、変動を法則とみなし、生産費による決定を偶然と見ることもできよう。
しかし、ただこの変動だけが、もっとくわしく見ると、もっともおそろしい破壊をともない、地震のようにブルジョア社会をその根底からゆり動かし、この変動だけが、その経過のうちに価格を生産費によって決定するのである。この無秩序の全運動が、その秩序なのである。
この産業的無政府状態の経過のうちに、この循環運動のうちに、競争がいわば一方の行きすぎを他方の行きすぎによって平均するのである。
こうして見ると、商品の価格はその生産費によって決定されているが、それは、これらの商品の価格が生産費をこえて上昇する期間が、生産費よりも下に沈下する時期によって平均され、逆の場合もまた同じであるというようにしてである。
このことはもちろん、ある一つの産業の個々の生産物にあてはまるものではなくて、ただその産業部門全体にだけあてはまる。こうして、それは個々の産業家にあてはまるのではなくて、ただ産業家の全階級にだけあてはまるものなのである。
(マルクス著「賃労働と資本」新日本出版社 p42-46)
■━━━━━
利潤率の均等化。平均利潤率の法則
さて、できるだけ高い利潤を追い求めるのが資本の本性である。産業部門によって利潤率に差があるとすれば、資本が利潤率の低い部門をきらって、利潤率の高い部門へゆこうとするのはとうぜんである。このような資本の運動をつうじて、平均利潤率の法則が成立することになる。このことを、資本の有機的構成のちがいによる利潤率の差をもとにして説明しよう(回転速度の差による利潤率の差ははぶいておく)。
次ページの表は、皮革、繊維、鉄鋼という、有機的構成のちがう三つの生産部門を例にとったもので、社会には資本主義的部門はこの三つだけしかないと仮定する。それから、ここでは、剰余価値率は三部門とも同じ一〇〇%であること、資本の回転はすべて年一回であることが仮定されている。
さて、表の数字のほうをみていただきたい。三つの部門のうち、皮革は有機的構成が低いので、利潤率が高く(三〇%)、鉄鍋は有機的構成が高いので、利潤率が低くなっている(一〇%)。そうすると、資本家である以上、だれしも皮革部門へ資本を投下しようとする。わざわざ、利潤率の低いところへ投資するバカはいないからである。
ところが、このあと、たいへんな変化がおこる。
まず、利潤率の高い皮革部門へは、どんどん資本が入ってくる。すると、皮革の生産が増大する。べつに皮革にたいする需要がふえたわけではない。だから、供給が需要を上まわってしまう。すると皮革のねだん(市場価格)が価値以下に下がる。ねだんが下がれば、皮革部門のじっさいの利潤率は下がってしまう。──利潤率が下がりすぎると、資本はほかの部門へ逃げだす。
これとぎゃくに、利潤率の低い鉄鋼部門には投資する者がない。資本が減少する。需要にくらべて供給の少なすぎる状態がつづくと、鉄鋼のねだん(市場価格)が価値以上に上がる。ねだんが上がれば、鉄鋼部門のじっさいの利潤率は上がってゆく。──すると、資本がほかからこの部門へ流れこむ。
このような、資本の流出・流入にともなう需要供給関係の変化、市場価格の変動というものをつうじて、それぞれの部門の利潤率が変動する。そして、この利潤率の変動がまた、部門から部門への資本の移動をよびおこし、それによってまた各部門の需給がかわり、ねだんがうごき、利潤率が変化する。その結果、ある時点をとると、甲部門の利潤率が高く、乙部門は低いのに、べつの時点には乙が高くて、丙は低く、甲は中くらいだ、……というように、はてしない変動がくりかえされ、とどまるところがない。
つまり、高い利潤を追い求める資本の部門間移動によって、有機的構成のちがいから生じる各部門のもとの利潤率の差は、すっかりかきまわされてしまう。そして長い期間を通算してくらべてみると、さまざまの部門の利潤率のあいだにはあまり大きなひらきがなくなり、どの部門の利潤率もだいたい似たりよったりの高さになり、社会の平均的な利潤率の水準に近づくのである。この平均的な利潤率を平均利潤率という・それは、社会のすべての部門でつくられた剰余価値の合計額を、社会のすべての部門の資本の合計額で割った大きさである。
表の数字でいうと、平均利潤率は、60M÷(240C+60V)で、二〇%である。部門から部門へとうごきまわる資本の無政府的な運動のために、皮革や繊維や鉄鋼のもとの利潤率の差がならされ、二〇という平均利潤率へ還元されたわけである。
そして、投下資本にこの平均利潤率をかけあわせたものを平均利潤といい、これが各部門の手に入る。皮革の平均利潤率は(70十30)×0.2=20 繊維のは(80十20)×0.2=20 鉄鋼は(90十10)×0.2=20である。
皮革部門では剰余価値が三〇つくられ、繊維では二〇、鉄鍋では一〇の剰余価値がつくられたのだが、じっさいに各部門の手に入ったのは、おなじ二〇の平均利潤であった。おのおのの部門別にみると、平均利潤の大きさと剰余価値の大きさは、くいちがっている。けれども、社会全体の合計額でみると、平均利潤の合計と剰余価値の合計とは、どちらも六〇で、一致している。
つまり、社会のさまざまの部門でつくられた剰余価値がぜんぶひとまとめにされ、これが投下資本の大きさに比例した割合で各部門へ均等に配分しなおされたことになる。各部門の資本家はそれぞれ投下資本にたいして同じ割合の剰余価値をうけとる。この関係は、ちょうど、株式会社のもうけが、各株主のもとへその持株数に比例した割合で配当として平等に配られるのとよく似ているので、マルクスはこの関係を「資本家的共産主義」と名づけている(一八六八年四月三〇日付、マルクスのエンゲルス宛の手紙、『資本論に関する手紙』)。
このように、ひとつひとつの資本は、できるだけ高い利潤を追い求めているにもかかわらず、この盲目的な資本の運動によって、結果的には、各部門の利潤率が均等化されることを平均利潤率の法則、またはかんたん化して平均利潤法則という。
この法則は、資本主義の初期の段階にはまだ成立していなかった。資本主義が社会の大半の領域へひろがり、たくさんの産業部門があらわれ、それらの部門のあいだを資本が流入・流出するという資本主義の発達した段階になってはじめて、平均利潤法則が作用しはじめたのである。
ここでまちがいやすい点があるので一言つけくわえておきたい。いま社会の総剰余価値が各部門の資本家たちのもとへ均等に配分されると述べたが、この均等な配分とは各生産部門への配分のことをいっているのであって、ただちに大企業や中小企業など個々の企業への配分のことではない。
資本主義経済では、各部門の労働者のつくりだした剰余価値が社会的にひとまとめにされて各生産部門へ均等な割合で(各部門の投下資本の大きさに比例して)配分=分け取りされ、ついでその分け取りされた分が、各部門それぞれの内部の大企業と中小企業とのあいだで不平等に分け取りされるわけである。
ただ、この各部門のなかに、巨大企業ばかりから或る部門や、ぎゃくに中小零細企業だけしか存在しないような部門があるばあいは、社会総剰余価値の各部門への均等な配分ということ自体もねじまげられ、各部門の力関係に対応した不均等な配分となる。この問題は本章6節の「独占利潤」のところで述べる。
平均利潤率の法則の意義
平均利潤率の法則は、各生産部門の資本家たちが利潤をうばいあってあらそいながら、しかもかれらが共同の利益でつながっていることを、ハッキリと証明している。かれらの利潤は、労働者階級のつくりだした社会の総剰余価値をごたまぜにして、そのなかから、投下資本の大きさに比例して均等にじぶんの部門へ分け取りした分配物なのである。
だから、ある部門の資本利潤には、その部門の剰余価値だけでなく、ほかの部門でつくられた剰余価値も、まじっている。労働者のほうからいえば、かれはじぶんの部門の資本家だけでなく、ほかの部門の資本家にたいしても貢物をしているわけである。つまり、労働者と資本家とは、その所属する産業部門のワクをこえて、たがいに階級として経済的に対立しあっていることが、この平均利潤法則によって証明されるわけである。
また、平均利潤の法則は、この後の章の、商業資本や利子生み資本(貸付資本)の運動、および資本主義的地代の原理など資本主義経済のいっそう複雑なメカニズムを説明するための出発点として、理論上も重要なものである。
生産価格
平均利潤が成立するまでは、商品は価値を基準にして売買された。すなわち、商品の市場価格の変動の中心軸は価値であった。価値は、生産費に剰余価値をプラスしたもの、C十V十M であらわされる。Cは消耗された不変資本、Vは可変資本=賃金、Mは剰余価値である。この合計が価値である。
ところが、平均利潤が成立すると、商品の市場価格の変動の中心は、価値ではなくて生産価格にとってかわられる。生産価格とは、生産費に平均利潤をプラスしたものである。記号でいえば、C十V十P であらわされる。Pは平均利潤である。商品は価値ではなく生産価格を基準として売買されるようになるわけである。
ブルジョア経済学の代表者のひとりであるベームーバヴェルクという理論家は、生産価格は価値の原理とあいいれないものと考えた。そしてマルクスの経済学説が最初に価値法則を説きながら、あとでそれを否定する生産価格の原理を説くのは、自己矛盾であり、マルクスの学説体系は自己崩壊をとげていると宣言した(『マルクス体系の終結』木本幸造訳、未来社、一九六九年)。
けれども、このベームの批判はまちがっている。個々の商品種類が価値を基準とした価格ではなくて、生産価格を基準とした価格で売買されるということは、なんら価値の原理が無効になったということを意味するものではない゜。価値が生産価格の土台として生きていることはつぎの二点をみれば明らかである。
もういちど、さきの一〇一ページの表を見ていただきたい。皮革産業の欄をみると、その生産価格は一二〇となっている。ところが同じ皮革の価値は一三〇である。だから皮革のばあいは生産価格が価値よりも一〇だけ少ない。つぎに鉄鋼についてみると、その生産価格は一二〇で、価値は一一〇である。だから鉄鋼のばあいは生産価格が価値よりも一〇だけ多い。つまり皮革のばあいとぎゃくになっている。
このように、たとえば鉄鋼とか皮革とかいうように個々の商品種類をとってみると、たしかに生産価格の大きさと価値の大きさとは、くいちがっている。ところが、それらをひっくるめて、社会全体、商品全体についてみると、生産価格の社会的合計は三六〇で、これは価値の社会的合計旦二六〇と、びったり一致することがわかる。つまりさまざまな部門、さまざまな商品を全部ひっくるめて社会全体でみれば、価値がちゃんと貫徹しているわけである。
生産価格は価値と無関係なものではない。部門間資本移動によって社会総剰余価値が部門間に分配しなおされた結果として、個々の商品種類ごとに価値の大きさと異なった生産価格が成立したのであって、この変化は社会総商品の価値を前提とし、そのワクのなかでおこっている事柄である。
第二に、労働生産性が上昇すると、生産価格が低下するが、これは労働生産性の上昇によって商品を生産するのに社会的に必要な労働時間が短縮され、商品の価値が低下したことの結果である。
このように生産価格の原理の土台には、依然として価値の法則が有効にはたらいているのである。
独占利潤と独占価格
独占資本主義のもとでも、できるだけ高い利潤を追い求めて部門から部門へと移りうごく資本の運動はなくならない。資本移動がつづくかぎり、各部門の利潤率を均等化し、剰余価値を平均利潤に還元しようとする平均利潤の法則は、いぜんとして生きているわけである。けれども、独占利潤を確保しようとする独占資本の力がつよくはたらくために、平均利潤法則は不十分にしか作用できない。
たとえば、ある部門で過剰生産がおこったとき、ほんとうなら市場価格が暴落して利潤率が下がるはずだが、独占資本は必死に価格をつり上げて、利潤の低落をふせぐ。また、ある部門で高い利潤率がえられているとしよう。とうぜんほかから資本が流入し、そのため生産量が増大し、やがて価格と利潤率とを引き下げる結果になるばずである。ところがこの部門を独占資本がにぎっているばあいは、さまざまの方法で防壁をきずき、ほかから新参の資本の入ってくることをじやまし、商い利潤率をひとり占めしつづけようとする。
このようにして、独占資本は平均利潤よりもずっと高い超過利潤をかくとくする。超過利潤は、独占以前の資本主義のもとでもあらわれたが、それは新式技術を採用したようなときに一時的にえられるだけであった。ところが独占資本は、いつでも独占的に超過利潤をかくとくしているので、これを独占利潤という。
生産費と平均利潤とをたしたものが生産価格であるが、平均利潤のかわりに独占利潤を生産費にくわえたものを、独占価格という。
このことは、労働者階級のつくりだした社会の総剰余価値が、一つのるつぼに投げ入れられ、それのなかから独占資本がガッポリと獅子のわけまえをうばいとっていることを意味する。
けっきょく、独占資本主義時代には、平均利潤法則は、いぜんとして作用しているが、これとならんではたらきはじめた独占利潤の法則によって、その作用をねじまげられるわけである。
(林直道著「経済学入門」青木書店 p100-109)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「この無秩序の全運動が、その秩序なのである」と。