学習通信060710
◎労働者大衆の自主的な自覚を基礎に……

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スポーツサイト 大野晃

自立した個の組織化へ
W杯の宿題

 サッカーのワールド力ップ(W杯)が大詰めを迎えた。世界トップの厳しくも素晴らしいプレーの連続が、到達点の高さを示している。

 日本代表は一勝もできずに敗退した。チームづくりに対する批判が強まっている。基本をしっかり身につけた選手の自主的判断を重視するブラジル流が日本には向いていなかったという。矢面に立ったジーコ前監督は寂しげに日本を去った。

 来年のW杯へ向けて、ラグビーの日本代表も強化の成果があがらない。太平洋5カ国対抗で大敗続きの4戦全敗。こちらも選手の自主的判断を重視するフランス流の導入が行き詰まっている。

 飛躍を目指す同類のフットボールで日本代表が同じ悩みを抱えていた。あるいはすべてのチームスポーツに共通しているのかもしれない。選手の自主的判断でたたかったのでは日本は世界で通用しないということか。

 あらゆる競技でプロ化が進む世界スポーツでは個人能力の高さが一段と重みを増している。それをW杯は明確に教えた。疲れを知らぬ体力、高い技術、強靭な闘争心、そして鋭い状況判断。それらを備えた個人が、指導者の作戦によって有機的に結合した組織へと導かれ、奇跡を生み、快進撃をもたらした。

 「選手が主人公」を体現するチームづくりの指導と戦術の成果である。
 世界トップを目標とするなら日本も大いに学び勇気を持って実践しなければなるまい。

 走りまくってパスをつなぎ、好機を確実に生かし防御にスキを見せないのがサッカー、ラグビー共通の日本の長所とされてきた。それを伸ばす戦術こそが体力差のある外国勢を上回る手立てと組織プレーが重視された。

 しかし個人が弱ければ組織には限界があることをW杯は痛感させた。とりあえずの勝利からの発想の転換が急務だろう。

 日本のチームスポーツはどれだけ個人能力を育てる努力をしてきたか。競技を始める子どものころから、指導者が型にはめた勝つための組織プレーの習熟を強要し、判断停止の猛練習を課し、創意工夫より従順を美徳として指導者専制を作り出してはこなかったか。それが日本の特長と錯覚してはいまいか。

 中学、高校とトップに近づくにつれ、その傾向か強まり、個人より組織の幻想が、自由より隷従へと惑わせる。目先の勝利至上主義が重い。

 自立した個人の組織化こそ偉大な力を生むことを肝に銘じ、日本スポーツの根源的問題に立ち向かうことが、W杯が突きつけた宿題に違いない。(スポーツ・ジャーナリスト)
(しんぶん赤旗 20060708)

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 職場を基礎にということの意味には、もう一つの重要な問題がある。

それは、労働組合はその大衆的性格からして、上からの押しつけや引きまわしでなく、闘争の主導的な力を大胆に職場におろし、広範な労働者大衆の自主的な自覚を基礎にしてこそ発展するということである。

あらゆる大衆闘争は、けっして上からの強制のうえには成り立たないものである。

なぜなら大衆闘争にあっては、広範な労働者の階級的自覚の度合いが運動の発展を終局的には決定するからである。

したがって、すべての闘争の準備とたたかいは、あくまでも職場を基礎に、大衆的に明白な目的を民主的につくりあげなければならない。

そして職場の労働者の自発性と創意性を発揮させることを基本としなければならないのである。これは大衆組織としての労働組合にあっては、その生命ともいえる組合民主主義の確立にかんする課題でもある。
(荒堀広著「労働組合運動論」新日本新書 p60)

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 最後に、目先を変えるために、共同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体を考えてみよう。

ここでは、ロビンソンの労働のすべての規定が再現されるが、ただし、個人的にではなく社会的に、である。

ロビンソンのすべての生産物は、もっぱら彼自身の生産物であり、それゆえまた、直接的に彼にとっての使用対象であった。

この連合体の総生産物は一つの社会的生産物である。

この生産物の一部分は、ふたたび生産手段として役立つ。

この部分は依然として社会的なものである。

しかし、もう一つの部分は、生活手段として、連合体の成員によって消費される。

この部分は、だから、彼らのあいだで分配されなければならない。

この分配の仕方は、社会的生産有機体そのものの特殊な種類と、これに照応する生産者たちの歴史的発展程度とに応じて、変化するであろう。

もっぱら商品生産と対比するだけのために、各生産者の生活手段の分け前は、彼の労働時間によって規定されるものと前提しよう。

そうすると、労働時間は二重の役割を果たすことになるだろう。

労働時間の社会的計画的配分は、さまざまな欲求にたいするさまざまな労働機能の正しい割合を規制する。

他面では、労働時間は、同時に、共同労働にたいする生産者たちの個人的関与の尺度として役立ち、それゆえまた、共同生産物のうち個人的に消費されうる部分にたいする生産者たちの個人的分け前の尺度として役立つ。

人々が彼らの労働および労働生産物にたいしてもつ社会的諸関連は、ここでは、生産においても分配においても、簡単明瞭である。
(マルクス著「資本論@」新日本新書 p133-134)

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「生産手段の社会化」とは?

 この矛盾から抜け出す道は、どこにあるのか。

本来一体の関係にある「生産者」と「生産手段」を切り離したところに、矛盾の根があったのですから、活路は、もともとの一体性を回復するところにあるはずです。

しかし、機械制の大工業が生産の主要な形態となった現代では、以前のように、生産手段を一人ひとりの生産者の手に返すことはできません。生産手段を、生産者の集団、あるいは生産者の集団を代表する資格をもつ社会の手に返す以外に、生産者と生産手段の一体性を回復する道はありません。
 これが、「生産手段の社会化」です。

 「生産手段の社会化」にあたって、いちばん本質的なことは、生産手段の所有・管理・運営のすべてが、企業にせよ個人にせよ、ばらばらな私的な所有者から、社会の手に移る、ということです。

 社会化の方式には、いろいろな形態がありうるでしょう。マルクス、エンゲルスにしても、その具体的な形態として「国有化」をあげたこともあれば、当時、イギリスなどでかなりの発展をとげていた労働者の集団による協同組合工場を頭に描いて、協同組合による社会化の形態を実例としてあげたこともあります。

高度に発展した生産力をふまえて、生産手段の社会化を実現するというのは、人間社会にとって新しく開拓される経験ですから、当然、そこには、いろいろな形態が生まれ、その有効性、合理性が実際の経験によって試されて、またそれにもとづく淘汰や進化の過程をへることでしょう。

 党綱領は、そのことを考慮して、これが社会化の日本的な形態となるだろうという調子で、あれこれの特定の形態をあげることはしていません。そのことは、第一六節のなかで、次のように述べています。

 「生産手段の社会化は、その所有・管理・運営が、情勢と条件に応じて多様な形態をとりうるものであり、日本社会にふさわしい独自の形態の探究が重要である……」。

 引用はひとまずここで切りましたが、実は、この問題では、それに続く注意書きが大事です。

 「……重要であるが、生産者が主役という社会主義の原則を踏みはずしてはならない。『国有化』や『集団化』の看板で、生産者を抑圧する官僚専制の体制をつくりあげた旧ソ連の誤りは、絶対に再現させてはならない」。

 マルクスは、未来社会の経済体制を論じるとき、「結合した生産者たち」が生産手段を所有する主役となることを、くりかえし強調しました。

その立場から、社会主義・共産主義の生産様式のことを、「結合した労働の生産様式」あるいは「結合的生産様式」という用語で規定づけたこともあります。

協同組合工場というのは、労働者の集団自体が、工場の所有・管理・運営にあたる形態ですから、文字通り、「結合した生産者たち」が主役だという原則を、いちばん直接的な形で表わした形態だと言えるでしょう。

しかし、この原則は、国有化などの場合でも、それにふさわしい形で具体化されなければなりません。国有化だからといって、上から任命された官僚集団が全権をにぎり、かんじんの労働者はその指揮のもとで労働するだけというような経済は、社会主義でもなんでもありません。

どんな場合でも、そこで生産手段を使って生産活動にあたっている生産者の集団(「結合した生産者たちしが、主役としての役割を果たしてこそ、社会主義なのです。
(不破哲三著「新・日本共産党綱領を読む」新日本出版社 p367-369)

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◎「自立した個人の組織化こそ偉大な力を生む」と。