学習通信060718
◎経営者のレッド・パージの攻撃の前に裸で……

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十月五日  光雄から和子ヘ

 予期はしていたものの、また覚悟しないわけにはいかなかったが、あまりにも早くやってきた。レッド・パージです。

 今日、本局に出頭命令で辞職勧告なるものを受けました。依願退職か首切りか、二つに一つの選択だけが僕にのこされた自由だった。理由は「学生時代の活動」ということのみです。

 今後のことについては何にも含まらない。両親のことを思うと断腸の痛苦です。オメオメと家には帰れないし、立往生の感あり。職場のみなさんはみんな僕を擁護していてくれていますが、なにしろ労働組合は反共「民同」支配下にあり、残念ながら見通しは絶望的です。

 だけど僕はけっして権力に膝を屈して生をむさぼるようなことはしないつもりです。ともかく生きねばならないのです。又便りします。

十月八日  和子から光雄ヘ

 今日はこの学校の運動会なので、外のふくらんだ空気と私の感情とがブツカリあって、何ともいえぬほどのイライラです。ペンをとっても一向文字になろうとしないで、長いあいだボンヤリしておりました。

 第一に、レッド・パージの理由が「学生時代の活動」のみであるなら、おそらく卑しい方法かもしれないけど、現在のあなたの発言のし方では又職場の人たちの擁護運動でなんとかなるのではないのでしょうか? という希望的な観測……。あなたにはとっても苦しいことでしょうが、もっとオンビンな行き方をえらぶわけにはいかないかしら?

 第二にそれがほんとうにのがれ得ない事実であった場合の今後の方針について……。

これを機として職業革命家になりきること、踏み切りに相当の勇気のいることと思いますが、私はたえることができます。私が下宿したらすぐにでも私の所に来て下されば、私のサラリーだけでも二人くらい何とかやってゆけます。だけど、思わしくないときには、何もかも面白くないもので、十月に入ったら、すぐ下宿するつもりでしたのに、ちょっとした手ちがいから、もう少し先に延びることになりました。私が下宿すれば何とかこの場をきりぬけられると思いますので、又新しい方法で下宿を探します。十五日以後になっても出来ないようだったら、体の調子が悪いとか、何とかの理由をつけて、すこしのあいだ郷里にでも帰って下されば、十一月までには何としても探します。

またどうしても郷里に帰ることができなければ、現在のところで「活動」をつづけているわけにはいかないでしょうか。下関に来られたら、今年いっぱいでもかかってさがせばどこかに就職もさがせると思います。すぐに履歴書、三、四通送って下さい。私もぜんぜんあてがあるわけではないけど、どこかあたってみようと思いますので。

 まだ気分が落ちつかないので、心だけあせって思うことの半分もいえません。とりあえずいまのところはこれだけにします。

 夜になりました。又つづきを書くことにします。運動会のあとしまつも終わってさわがしかった一日もすんで静かな夜がやってきました。一日中、まだ半信半疑であれこれ考えて、なんだか三日も四日も徹夜をつづけた後のようにボーとしてしまいました。こんなときに私までメランコリックになってはいけない、と自分を鞭うちながらどうかするとわけもなく涙がでてしようがありません。信じ難いことだけど、まだまだほんとなのかしら? 夢でもみているような気がするけれど?

 私たちの道にはその第一歩から大きな難関がひかえておりましたネ。でもどんなことでも二人力をあわせていけば生きぬけないなどということはありません。

 トコトンがんばるほかありません。これまで生きているという事実をあまりにも当然のことのように思ってとりたてて考えたこともなかったのに、こんどのようにセッパツマッテみると、生きるためにこんなにも多くのエネルギーがいるってこと、やっと気づいたようです。

「宝石は摩擦なしには光らない。人間も苦悩の試練なしには完成しない」

 分かりきったことだけど、このルナンの言葉はちょうど今のあなたの力づけとなるのではないかと思います。たとえ私たちの生活は苦しく貧しくとも、完成の日のためにそれを愛することができます。卑しい生活で富や地位を得ようとするほど恥ずかしいことはありません。

 どのようなときにもあなたの高貴な思想が後退することのないように、そしてもっとも賢明な道を選択されるようにひたすら信じています。

 またコスモスの花の咲く頃になりましたネ。花の中にうずくまっているときはまったく平和そのものに思えるのに、何と激動なのでしょう。歴史の尺度からいうとその日は遠くないという春日さんの言葉にとてもはげまされています。そして自然にインターナショナルの歌が口をついてでてきます。それからもし郷里に便りされるのであれば、その内容がお母様に知れることは、それによってうけられる衝撃を考えると、たえ難いものがあります。だから内容をボカスとか、何か工夫が必要と思います。

 今晩は何もまとまりません。いい考えが浮かばないのです。どうして思うようにいかないのでしょうネ。思い切って姉に話そうかと考えたりします。そうすれば、あなたがここに来られてもよくなるのですけど……。ほんとうに思うようにいきませんネ。じゃあ又、明日。

十月十二日  光雄から和子ヘ

 ありがとう。君のはげましは僕にとって千人力をあたえてくれました。僕はどんなにたたかれて、ふみにじられようとも、あの雑草の生命力でさいごまでたたかいぬく決意をかためています。この世の中でいちばんよく僕を理解し支持してくれている君のためにも。

 僕はいま、過去の政治活動を理由に現在まじめに働いている人間の首を切ることの不当不法を大いに糾弾して、たたかっています。職場の大衆は憤激しています。そして僕個人に対する全面的な同情を集めています。しかしいまはパージの理由は拡大され「主として学生時代の政治活動が馘首(かくしゅ)の理由だが、その後、各種の情報を総合した結果」などと奴らはいいだしています。官房長は「まことに同情にたえない。が、占領軍の命令である以上、どうしようもない」ともいいました。多少とも日本人の良心が残ってそういわせたのかもしれません。

 ともかく、状況は僕にとって決定的に不利なことに変わりはありません。第一肝心の労働組合は動かないし、然るべき連絡も指導もプッツリです。

 だけど、がんばった甲斐はあって、今月末まではなんとか首切りをのばさせることができました。いずれにしても、僕の直面している道は二つに一つ。全面的に膝を折って再就職を懇願すれば、まだその可能性がないわけではありません。だが、この道は僕の信念を放棄する以外にはとうていひらけるものでないことは明らかです。それは屈辱の道です。そんな道よりはむしろ僕は死んだ方がよい。僕は自由と平和のためにたたかって生きる道を選ぶ以外にない。わが道は一つ、この道を往かねばなりません。いま僕はあらためてあの『鋼鉄』の一節をくりかえしています。

 「人間にとって一番大切なもの──それは生命だ。それは人間に一度だけ与えられる。そして、それを生きるには、あてもなく生きてきた年月だったと胸を痛めることのないように生きねばならぬ。」

 「そうだ!」僕たちは世界でもっとも美しいこと、つまり人類解放のためにいっさいの力を捧げ、たたかいぬかねばならないのです。たたかいに身を投じること、それはなんとやり甲斐のある、しかも崇高、雄大な展望をあたえてくれることでしょう。僕はこの重大な人生の転機に立って、山なす困難をさけるようなことはせず、むしろ正面から立ちむかうつもりです。

 人生、まさにいたるところに青山あり、熟慮と決断、もってわれわれの人生をして光輝あらしめよ。詳細は面談の節にゆずりましょう。握手。
(有田光雄・有田和子「わが青春の断章」あゆみ出版 p103-108)

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レッド・パージと総評の結成

 つづいて、労働組合運動にたいして弾圧が加えられた。二・一ゼネスト後に成立した全労連は、その後の反共分裂攻撃のなかで、総同盟をはじめ右派幹部が指導する組合の脱退があいつぎ、左翼的労働組合の全国中央指導部としての性格をもつようになっていた。一九四九年一月には、世界労連への加入が承認されて国際的連帯をもった。産別会議は五〇年四月に組織をこの全労連に発展的に解消する方針を立てた。ところが八月末、マッカーサー司令官は全労連に解散を命じ、幹部一二名を追放処分にした。そしてその前後、民間産業、官公庁をつうじて、全国の職場から、共産党員やその支持者とみなされる一万二〇〇〇名以上の労働者を追放する「レッド・パージ」がおこなわれた。

 事実上のレッド・パージは、すでに述べた前年の行政整理、企業整備のなかでおこなわれ、その数は約三万名にのぼると推定される。さらに一九四九年秋から五〇年春にかけて、学校教員を対象に一七〇〇名ないし二〇〇〇名のレッド・パージがおこなわれた。

また、GHQ民間情報教育局顧問W・C・イールズは、一九四九年七月いらい各地の大学で講演して、共産主義思想をもつ教授の追放を勧告した。これにたいして大学教授連合、日本学術会議などは学問・思想の自由を守る立場から反対を声明し、日教組、全学連も反対闘争を展開した。五〇年五月、東北大学や北海道大学でのイールズの講演は教授・学生の手きびしい反撃を受けた。その結果、イールズの意図した、大学教授のレッド・パージは公然とはおこなわれなかった。

このような例外はあったが、朝鮮戦争勃発とともに、アメリカ占領軍の勧告と指導にもとづいて、日本政府と経営者の手で、全面的なレッド・パージが強行されたのである。

 労働省の数字によると、七月ニ八日の新聞通信放送関係の五〇社、七〇四名を手はじめに、電気産業二一三七名、映画二一三名、日本通運五一五名、石炭二〇二〇名、金属鉱山三〇二名、石油九一名、私鉄五二五名、車輛九四名、造船六〇一名、鉄鋼一〇〇二名、自動車一四七名、印刷出版一六〇名、電工三八一名、化学一四一〇名、機器四三八名、電線三一名、非鉄金属四六名、食糧一五名、繊維一四四名、医療四六名、木材一一名、銀行二〇名、生命保険一九名と全産業を軒なみにおそった。

 九月一日、政府も公務員のレッド・パージを決定し、農林省二〇七名、通産省四五名、電通省二一七名、運輸省一九名、郵政省一一八名、国鉄四一名、専売公社四三名、大蔵省三五名、厚生省七名、労働省四名、建設省三名、海上保安庁一九名、国家警察二名、電波管理委員会六名、特別調達庁二名などを追放した。一九五〇年一二月一〇日現在の労働省調査によると、民間産業のレッド・パージは二四の産業部門、五三七社、一万九七二名にのぼっている。また同年一一月一五日の政府発表によると、政府機関のレッド・パージは、一一七一名(一一月末現在では一一九六名)にたっしている。

この数字のなかで、たとえば国鉄関係の人数が少ないのは、前年の定員法による行政整理のさいに、事実上のレッド・パージが大量におこなわれたからである。他の産業部門にも同様の事情があったと推測される。

 レッド・パージの実施にあたって、GHQ労働課、労働省、企業経営者側は綿密に準備を整えたが、その首切りリストの作成に、労働組合の右派幹部が協力した形跡がみとめられる。代表例は、組合員再登録によって左派を組合から排除し、経営者のレッド・パージの攻撃の前に裸でさらした電力産業のばあいである。

 思想上の理由だけで、労働者の生活権をはじめとする諸権利を奪うレッド・パージの不法、無効、憲法違反を訴えても、裁判所ではほとんどすべてが身分保全の申請を却下し、労働委員会も審問拒否の態度をとったため、法の救済を求める道がほとんどまったく閉ざされた。労働者の権利擁護のためにたたかうべき労働組合では、右派幹部が当局や経営者に協力的態度をとるもとで、一般組合員は保身の立場から傍観し、左派分子は孤立し、有効な反撃を組織することができないで職場を追われた。長い裁判闘争をつづけて職場復帰をかちとったものは、例外的な少数であった。

 労働組合運動から左翼勢力はほとんど一掃された。労働組合はこれまでのような戦闘性を失ない、朝鮮戦争に反対する運動は部分的にしか展開されず、職場で労働者はおさえこまれた。

 レッド・パージの一方、敗戦直後に「軍国主義者」=「反民主主義者」として公職追放処分をうけていた人びとの追放解除や、岸信介、児玉誉志夫などA級戦犯容疑者の釈放がおこなわれた。旧軍人も追放を解除されて、警察予備隊に迎えられた。

 労働戦線は、反共民同派の主導のもとに再編成された。総同盟および反共民同派が指導権をにぎった諸単産は、産別会議にかわる新しいナショナルセンターの結成をいそぎ、一九五〇年三月には日本労働組合総評議会(総評)の結成準備大会が、七月には結成大会がひらかれたが、この「史上まれにみる速度」での総評結成を推進したものがアメリカ占領軍当局であったことはよく知られている。

 朝鮮戦争勃発直後の緊迫した空気のなかで七月一一日にひらかれた総評結成大会は、三七七万名を結集したと発表して、次のように宣言した。


われわれは日本共産党の組合支配と暴力革命的方針を排除し、労働階級の永き要望に応え、自由にして民主的なる労働組合に依って労働戦線統一の巨大なる礎をすえたのである。


 その反面で総評は、「平和的・民主的手段によって社会主義社会を実現せんとする政党と積極的に協力提携」することを唱えて、日本社会党を中心とする社会民主主義政党支持の態度をあきらかにした。また総評は「北朝郷軍の武力侵略に反対する。ただし、日本が占領下にある現在、総評は戦争に介入しない」という態度を表明し、さらに「国連軍」の行動を支持するという表現で、アメリカ軍の朝鮮での軍事行動を是認した。レッド・パージについても総評は、暴力分子の破壊活動を排除することは当然である、という表現でこれを受け入れた。

 国際自由労連は総評結成大会にメッセージを寄せ、代表が出席して祝福した。アメリカ占領軍当局、日経連、日本政府は総評の結成を公然と歓迎した。
(塩田庄兵衛著「日本社会運動史」岩波全書 p211-215)

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◎「宝石は摩擦なしには光らない。人間も苦悩の試練なしには完成しない」……。