学習通信060719
◎口説きます……

■━━━━━

芸とは口説くことである

 「芸とは口説くことである」と言ったのは確か夏目漱石だったと記億していますが、漱石の場合、芸とは文芸のことで、口説かれる相手はもちろん読者でしょう。小説のなかで架空の事物を、さも実在するもののように表現して、読者をその気にさせる。そして、興奮させたり、感激させたり、共鳴させたり、反発させたり、びっくりさせたり、笑わせたり、悲しませたり、自由自在に読者の心や神経を操るわけです。

 「口説く」という言葉自体、近頃はあまり使わなくなりましたが私の大好きな言葉です。説得などとは一味も二味も違った、人間味のある、チョッとスリリングで、どこかユーモラスな、大和言葉の傑作の一つだと私は思うのです。

 口説くを一番多く使うのは、男女の仲でのやりとりの場合ですね。昔はほとんど男が女を……今はかなりの場合女が男を、口説きます。できる限りのいわゆる手練手管を操って、男が女を、女が男を口説きます。普通は言葉で口説きます。美辞麗句を駆使する男もありましょうし、言葉少なにすねてみせる女もありましょう。また、言葉に頼らないで、雰囲気作りに苦心する男もありましょうし、肉体的な魅力の顕示に神経をすりへらす女もありましょう。

なかには物の、あるいはお金の威力をちらめかす男女も少なくはないでしょう。もちろん全身全霊をもって口説く者があっても少しも支障はありません。その手段はどうでもよろしい。要するに、いろいろの手を使って相手をその気にさせる。「私は、僕は、この人のものになるべく運命づけられている」……そんな気持ちに次第次第に相手がなってくる……そして、成功!

 こうして口説きおおせたときの感激は(私にはほんのわずかの経験しかありませんが……本当です)格別のものがあります。相手には悪いなと思いながらも、してやったりという気分です。この場合、「口説きおおせた」という言葉以外では、──たとえば説得に成功したなんぞという無粋な言葉では、とてもとてもその爽快な気持ちは表現できません。説明できません。口説くとはまことに素晴らしい言葉ではあります。

 ほかに、商談や政争の場などでも口説くは使われているようですね。ビル街や、とくに永田町界隈では、それこそ明けても暮れても口説き口説かれている人たちがひしめいているようです。この場合、その八〇パーセントほどは男たち同士で口説き口説かれているのでしょうが。それも会社や国会のなかよりも、口の固いことを取り柄としている女性たちをはべらせた薄暗い畳の部屋やソファーの上で……。この口説きは薄汚くて気持ちが悪い。男女間の口説きが醸し出すホンワカとした愛嬌がありません。リベートや利権などというおぞましいものが絡まり合ったりして、義理にも健康的とは言い難いですね。

 ところで「芸とは口説くことである」の本題に戻って、この言葉は漱石が使った文芸についてよりも、むしろ芸能に関しての方がより適切な言葉ではないかと、私は思うのですがいかがなものでしょう。「芸能とは口説くことである」というわけです。文芸が読者を口説くと同じように、いやそれ以上に、芸能は観客を口説きます。
(茂山千之丞著「狂言じゃ 狂言じゃ」文春文庫 p25-27)

■━━━━━

芝居を観にゆく女たち

「なぜ芝居を観にゆくと女が多いのか」とある人から質問を受けた。これは私が劇作家であるから、きっと専門的な答えが貰えるだろうと考えたのであろう。さよう。私は実はこの女客に悩まされているのだ。

 女客といってもOLと申し上げるべき、サラリーをとっているお若い女性がお客の大半である。この人々をたいせつにすることが目下の私たち劇作家の生きてゆくコツである。

 まず「ストリップ劇場にゆくとなぜ男客ばかりいるのでしょう」という質問を受けたとする。答えは最初の女客と同じなのである。つまり男は女が好きで女は男が好きなのである。だが女は上品で趣味がよいし「陰翳礼讃」の心があるから、同性の女が出てきても我慢して下さるのであって、女ばかり出てくる宝塚なんていう不思議な芝居にも押しかけるのである。

 昔の女性は、もう少し自主性が強く女権が強かったから、男性中心の新国劇なんていう芝居に押しかけた。今は老人になったが、辰巳なんていう役者は、何かというと褌(ふんどし)一本の裸になってチャンバラをやって見せた。つまり婦人への大サービスである。だから新国劇の女性ファンは非常に多かった。今もそのせいかアングラの芝居は褌芝居が多い。それもうす汚れた赤褌が多いのは、どういうことだろう。私の考えでは、切りたての晒の六尺でも締めて主人公が現われたら、アングラ芝居はもっと女客がつめかけると思うのだ。

 出雲の阿国の歌舞伎の始原から、芝居と「性」は切りはなせないので、本質はストリップ劇場と大差ないのである。それにしだいに文学性や哲学や思想が加わっただけの話で、そういう本質を忘れて枝葉ばかり茂らせると、芝居は生命感を失う。このごろアングラなどが原点ということをいうのはそういうことで、女性が芝居を観にゆき、ヒーローやヒロインにキャーキャーいうのは、たいへん人間的な行動であって、むしろ取り澄ましているほうがどうかしているのだ。

 徳川の終り、田之助という女形がいて、その女形の使った鼻紙が「お鼻紙」といって、女性間で奪い合いであったという伝説が残っているが、今の歌手に対する偏愛が時々、硫酸をぶっかけるなんていうところまで発展するのも、その変形にすぎない。私は硫酸事件にもさして驚かない。そういう陶酔、忘我の境が芝居の本質で、道徳も自己制御もなくなる恍惚の境が芝居なのである。

 戦後「踊る宗教」というのがあり、踊っていて無我の境にはいるという形式であった。信徒は示威のために銀座の広場でその無我の境の踊りをやっていたが、私は「これぞ宗教」と感心した。芝居もこうでなくてはならないので、舞台と観客と一致して無我の境にはいらせれば、大成功の「ブラボー」ということになる。恥ずかしさも忘れて大声で「ブラボー」と叫ばせるほどの芝居を書いていない私を恥じているので、元禄のころ「忠臣蔵」を見ていて思わず舞台に駆け上り、吉良上野介の役の俳優に斬りつけた観客がいたという伝説は私を羨望させる。それほどに観客を忘我の状態に導く、つまり理性を失わせるとは、なんというえらい作者であろう。

 再びストリップ劇場に戻るなら、中年男はスターの何々嬢の「特出し」に恍惚となり、涎を流したり唾を飲み込むのであって、もし誰か女性のために男性の持出しをやったら、女性ファンは押し寄せるであろうか。

 いくらウーマン・リブを叫ぶ人たちでも、そこまではいかないであろう。そこいらが女性の気の毒な点で、女性の扮した男性のオスカルに絶叫するくらいで耐えているのである。私は不幸にして「ベルばら」というものを見ていないが、女性が男性に扮してその男性が女性に扮し、それがまたどうとかして性の転換がたいへん複雑になっていると聞いた。ここいらにも「ベルばら」の成功の因があるのじゃないかと私は思っている。女性はまだ男性ストリッパーを持っていないのである。それほどウーマン・リブは行き渡っていないのである。だからこういう複雑な性の転換という手続きをとらないと、自己を解放して恍惚の境にはいることができないのである。

 男の不幸はすべての生活が直接的で紆余曲折がないことである。女性の生活はこの反対で、冒頭にもいったとおり「陰翳礼讃」なので、平明をきらい複雑を好み婉曲をよしとするのだ。

 つまり、そのほうが人間として高尚なのであるが、これは永年男が女をそのように導いたのか、女が自発的にそうしてきたのか。まさに大問題である。

 いずれにしても、男性はストリップ劇場を持っているし「エマニュエル夫人」を映画劇場で観ることができるので、芝居にはなかなか足を運ばないのだ。このごろはテレビにまでストリップまがいのものが放映されていて、男性は中学生時代から性の恍惚に耽ることができるのである。こうみてくると芝居の世界は、まだまだ男性中心であるといえるだろう。

 しかし劇作家とストリッパーとは違うのであって、この点、劇作家は女性に近いかも知れない。

 「陰翳礼讃」派で生に性を舞台の上には出さない。紆余曲折させて出す。出しかけて引っ込めたり、すれちがいさせたり、いろいろとハラハラさせるのである。犬でいえば「オアズケ」をたくさんすればするほど、観客は劇作家の飢餓戦術にかかって、ご不浄に行くのも我慢してくれるというわけだ。

 ところが私という人間は、芝居の本質の「性」という原点から、一番遠いところにいる種類の劇作家なのである。喜劇というのは恍惚から覚めさすのを使命としている。つまりショック屋が私の本分なのである。喜劇は仮面をはぐ。人間的な恍惚とは呪術の一種であるが、それから覚めさすのが喜劇作者の運命なのだ。

 私は喜劇作者の始原はインポテントだったのじゃないかと思っている。つまり原始的人間社会で、呪術師によって大衆がそろって恍惚状態──その名残りは盆踊りや南米のサンバなどの群舞にみられる──そういう性的興奮の大ルツボに居てインポテントであった彼は、その忘我の態を冷ややかに見て、それが、なんとも通常でなく、あまりに特殊であるのに気がついた。またその起因が何かのキッカケ──音楽とかリズムという人間的なもの、すなわち呪術──で起こってることを知り、その起因を急激に打ち切ることによって、人々に異和感を与えた時に起こるショックを考えた。ちょうど催眠術にかけられた人々が、忘我の境から急に旧の正常な世界に戻った時のぼんやりした心理。もしそれを急激にやるとむしろ不快になる。そこのあたりの呼吸を喜劇作者は意地悪く考えていたのであろう。

 そうやって彼のインポテントを正義づけるというか、平均感を得たかったのであろう。

 これは飯沢珍説にすぎないにしろ、喜劇は、性的にはなれないのである。性的な笑いは原始的であり、大勢の人に喜ばれる。インポテントな喜劇などに人は来ない。

 さて今日の芝居は美男が出なくてはならない。今でも長谷川一夫先生がお出ましになると大劇場が一杯になるのである。だから新劇に客が集まらないわけである。なぜなら、なかなか美男がいないからである。そのため新劇もこのごろは美男の蒐集(しゅうしゅう)に腐心している。文学座の江守徹なんていう人はその代表的人物といえるか。美男だけでなく演技がよろしいからあの大成功になったわけであろうが、女性のファンが芝居をご覧になるのは役者が中心のようである。
(飯沢匡著「女の女におゝ女よ!」文化出版局 p15-19)

■━━━━━

みちでバッタリ 岡真史

みちでバッタリ
出会ったョ
なにげなく
出会ったョ
そして両方とも
知らんかおで
とおりすぎたョ
でもぼくにとって
これは世の中が
ひっくりかえる
ことだョ
あれから
なんべんも
この道を歩いたョ
でももう一ども
会わなかったよ
   −詩集『ぼくは12歳』

 一九七五年、十二歳で自殺してしまった岡真史の『ぼくは12歳』という詩集のなかの一篇です。

 どうして自分は生まれてきたのだろう? などと考えて、まごまごしているうち、からだのほうは、どんどん成長して、今度はまた、わけもわからず生むほうの側にまわっているのです。それはアッ! というまの出来ごとです。

 おさない詩ですが、十二歳の少年の心に、もう異性をおもう心が芽生え、このましい少女(たぶん)に出会ってドキンとし、それは自分にとって世の中がひっくりかえるぐらいの大事件に思われます。また会いたいと思うのに「もう一ども会わなかったよ」と、きびしいリアリズムで終わっているのが哀切です。自分の存在以上に他人の存在が気にかかり、場合によっては他人のために死ぬことさえできる恋の不思議な仕掛けは、十二歳の作者が直観でとらえているように、ほんとに世の中がひっくりかえるぐらいの出来ごとです。金子光晴(一八九五―一九七五年)の詩に、「路傍の愛人」というのがあり、これはおとなの詩ですが、行きずりの恋人という意味で発想はまったく同じなのです。

 鳥や蝶なら、すぐにも行動を開始できるでしょうが、人間はなんて厄介なんでしょう。岡真史の詩には、「ぼくは一九歳」とか「かたおもい」などの言葉がちらばっていて、ずいぶん背伸びをしている感じですが、すみずみまで読んでも、おさない心にどのようなドラマを抱えていたのか、自殺の動機はわからないままです。

 けれど、「みちでバッタリ」という詩で、この未知の少年の魂に、それこそバッタリ出会えたような気がするのです。五年、十年、つきあったってうまくはとらえられない人の心ですが、良い詩は瞬時に一人の人間の魂を、稲妻のように見せてくれることがあるのです。大昔の人でも、身近な知人の誰かれよりも親しく感じられたりすることがあるのも、詩の一つの力なのでしょう。

 十二歳くらいの少年と話すとき、しばしばこの詩が私の脳裡をよぎってゆきます。
(茨木のり子著「詩のこころを読む」岩波ジュニア新書 p28-30)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「喜劇は、性的にはなれない……性的な笑いは原始的であり、大勢の人に喜ばれ……インポテントな喜劇などに人は来ない」と。