学習通信060720
◎「ブルジョアジーの墓堀り人」……

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──こうして、資本は賃労働を前提とし、賃労働は資本を前提とする。両者は相互に制約しあい、相互に生みだしあう。

 ある綿布工場の一労働者は、ただ綿布だけを生産するのであろうか? そうではない、彼は資本を生産する。

彼は、彼の労働を指揮し、その労働によって新しい価値をつくり出すのにまたもや役立つ価値を生産するのである。

 資本が自己を増殖することができるのは、それが労働力と交換され、賃労働を生みだすことによってのみである。

賃労働者の労働力が資本と交換されうるのは、これが資本を増殖することによって、すなわち、これをその奴隷とするところの支配力を強めることによってのみである。

したがって、資本の増加はプロレタリアートの、すなわち労働者階級の増加である。

 だから資本家と労働者との利害は同一だ、とブルジョア、および彼らの経済学者たちは主張する。また、実際にもそうである! 労働者は、資本が彼をやとってくれないと滅びてしまう。

資本は労働力を搾取しないと滅びてしまう。そして、搾取するためには資本はそれを購入しなければならない。

生産にむけられた資本、生産的資本が急速に増加すればするほど、したがって産業が繁栄すればするほど、ブルジョアジーが富めば富むほど、景気がよくなればなるほど、それだけいっそう資本家は、多くの労働者を必要とし、それだけいっそう労働者は、自分自身を高く売ることになる。

 労働者のまずまずの状態にとって不可欠な条件は、だから、生産的資本が、できるだけ急速に増大することである。

 だが、生産的資本の増大とはなにか? 生きた労働にたいするたくわえられた労働の支配力が増大することである。

労働する階級にたいするブルジョアジーの支配の増大である。

賃労働が、これを支配している他人の富、これに敵対する支配力、すなわち資本を生産するならば、この敵対する支配力から、雇用手段、すなわち生活手段が賃労働に還流してくる、──ただし、賃労働がふたたび資本の一部となり、ふたたび資本を加速度的な増殖運動に投げこむ槓杆となる、という条件のもとで。

 資本の利害と労働者の利害とが同一であるというのは、資本と賃労働とが一個同一の関係の二つの側面である、ということにすぎない。一方が他方を制約しているのは、高利貸と浪費家とが交互に制約しあっているのと同様である。

 賃労働者が賃労働者であるかぎり、彼の運命は資本に依存する。さかんにもてはやされている労働者と資本家との利害の共通性というのは、このことである。
(マルクス著「賃労働と資本」新日本出版社 p55-57)

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 「生産力と生産関係の矛盾」についてみれば、こうである。

生産力の発展は同時に資本蓄積の増大であるが、資本蓄積の増大は一方では資本あるいは資本家の力の増大を意味し、資本主義の強化、発展であり、資本の支配の安定性の維持を意味する。

しかし、他方で、資本蓄積の増大という同じ事態が、「ブルジョアジーの墓堀り人」としての労働者の数の増大、その反抗の質的・量的強化を生み出す。

同じ一つの事態が、二つの相反する事態を生み出すのであるから、これは矛盾である。

これは、いいかえれば、「資本蓄積は資本の肯定的条件であるとともにその否定的条件である」、または、「資本蓄積は資本の肯定的条件であるとともにそうではない」ということになる。

この表現は、同一の主語に相反する述語が置かれているから、現実の矛盾は、アリストテレス以来、形式論理学で禁じられている「AはAであって同時に非Aである」という論理的矛盾の形式において表現されているわけである。

現実の矛盾は論理的矛盾の形式で表現されざるをえないのであり、この表現こそ「生きた現実の魂をよくとらえる」のである。

「生産力と生産関係の矛盾」といった場合は、矛盾の内容は二つの相反する事態の同時存在ということである。この矛盾の認識への反映は科学的には「同一の主語が相反する二つの述語をもつ」という論理的矛盾によって表現される。

「生産力と生産関係の矛盾」という表現の科学的意味は以上のような内容をもっている。

「矛盾」とは、同一の事態が相反する傾向に貫かれているからこそ、その事態は永遠ではありえず、変化し、やがて消滅せざるをえないことを表現する論理的カテゴリーである。
(上野俊樹「全般的危機論と資本の矛盾の激化」上野俊樹著作集 文理閣 D p127-128)

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◎「賃労働者が賃労働者であるかぎり、彼の運命は資本に依存する」と。