学習通信060724
◎金モールで飾られた上着の中では……

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観念オンチと宝石と

 何をまちがえてか私ごとき貧乏人のところに、宝石展示会の案内状が舞い込む。カラー写真でいろいろと宝石が印刷されているが、私にはガラス玉と変りなく映る。むしろガラスの透明感のほうが美しいと思う。私はフランスのパリのサント・シャベル堂のステンド・グラスの輝きには讃嘆の声を借しまない。シャルトルの教会のあの薔薇窓の美しさも大いに認めるつもりだ。あれはほの暗い礼拝堂の中ならばこそ、あの色ガラスを透かしてはいってくる太陽光線の美しさには、えもいわれぬ美しさが認められる。

 女性の(たまには男性も)指の上に輝く宝石類は、反射の光で透過光線ではない。つまり、いやに自己主張の強い光である。そのせいか私には謙遜さが感じられず、自己顕示が強い。光にも謙遜なのと傲慢なのとあるなんて実に面白いと思う。

 もっとも詩人は夏草の葉の上に輝く露の玉に美しさを見つけるかも知れないが、あの程度の小ささなら私も自己顕示とはいわない。里芋の葉や蓮の葉の露はグロテスクで、詩人の魂を動かすわけにはゆかないだろう。

 ところが里芋の露的なダイヤモンドなど、誇らし気につけたり、ほしがったりする女性が大勢いるらしいので、私は野蛮だと思うのだ。

 ロンドン塔にゆくと、女王の冠る王冠の上に輝くダイヤモンド、世界最大という記録的なやつを見ることができるが、実に野蛮な感じしかしないものである。ガラスじゃないのかと思う。思っても私の自由だが、パリにビュルマという字を掲げた看板を見る。あのビルマの国と同じ綴りである。人に聞くと、とくにあの国とは関係ないそうだが、この看板を掲げた店はイミテーション専門なのだ。

だからここで売ってるものは、過去の名人の細工師の作った装身具のデザインそっくりの、このごろ風にいうと「お求めやすい」もので、われわれにも手にはいる。しかし全部ガラス玉である。ところがデザインは凝っているから、大量生産のとは品格が違う。日本の婦人雑誌を見ても、エルメスやサン・口ーランの店の紹介は出ていてもビュルマの紹介は出ない。

 私はいつも「汲取り式便所にまたがってオシッコしててエルメスでお買物か」といって、あんな店の前は素通りしている。よく女の子から「先生、エルメスのスカーフを買ってきて」と頼まれるから「おれ、そんな田舎者と違うぞ。別のヤツに頼め」といって、そっぽを向いている。

 女性のお洒落は、ひどく「観念的」に私には見える。ひと口にいうと「お利口でない」のだ。実質主義でなく、つまり「美」より「えらさ」のほうが重要のようである。日本は立身出世主義とよくいわれるが「美」より「優位」のほうが女性にとっても関心事のようだ。

 だから亭主の非「えらさ」に腹を立てて、これ以上望みなしというと子供の「えらさ」に望みを託すことになる。それより私が女なら、もの凄くセックスに強く、人がよくて神経質でなく明るい男に亭主を仕立て上げる。とくに出世しなくても人から「いやなやつだ」といわれない男なら、そして夫婦仲よくゆけるならそれで十分ではないか。

 こういう考えで宝石をながめると、ビュルマのアクセサリーはお値ごろからいっても実に日本人向きと思うのだが、日本婦人は「ふん、飯沢先生、偽物なんかすすめて程度わるいわ」と馬鹿にするのである。本当にそうかな。聞くところによると欧米の貴婦人たちは滅多に本物はつけて夜会に出ないそうではないか。ビュルマに注文してイミテーションを作り、それでご出席遊ばすということじゃないか。

みんなガラス玉に「さすがぁ……」と感じ入ってるなんて、阿呆じゃあるまいかと思われる。何々夫人が売り立てで何億の宝石を落札したというと社交欄に出る。そこで人々はそのことを記憶する。そしてある日、それをつけて、その婦人は会に出席する。強盗やギャングか反体制のテロリトが当然それをねらう。となると「ビュルマ」の必要性がいやが上にも高められる。

 「今日はビュルマだそうだ」という噂が流れる。それでも「えらさ」は変わらない。少なくともデザインだけは人々の目に残るというわけだろう。つまり、これくらい観念的なもので「えらさ」すなわち優位だけが問題になるのだ。

 ダイヤモンドのカラットを誇るというのは、福沢諭吉の「天は人の上に人を作らず」というのをもじれば「女は人の上にカラットを誇る」ということになるだろう。


 私は日本の文化の中に宝石に対する執着がないのを不思議に思っている。神話時代、古墳時代には、宝石はあの曲玉の首飾りを見てもあった。現に天皇家の宝器である「三種の神器」の一つは曲玉という宝石である。畏れ多くて学者といえども、この曲玉が何という宝石かは知らないが、たぶん、めのう系の玉であろう。ダイヤモンドやサファイアやエメラルドなど透明感の強いものではないことは確かだ。

 私の疑問は、上古にはあった曲玉の趣味、それから貝で作った輪、その貝も学者にいわせるとタカラ貝という南海(沖縄付近)のものを磨いて輪にしたものであって、古墳からはそれをいくつも腕にした遺骸が出てきている。指輪もあったというが、私は見たことがない。要するに首飾りも腕輪も指輪もあったというのに、いつの間にかそういうアクセサリーが日本婦人の体から消え去ったというのは、どうしてであろう。

もう源氏物語の女性になると、そんな風俗はなくなってしまっている。そして不思議なことに、日本婦人は髪に関する櫛やかんざしに関心を集中してしまうのだ。それも主としてサンゴという海中からのものだ。あとは金の箔を漆で固めた蒔絵細工に美を求めるのだ。もう平安期には漆で固めた螺鈿(らでん)という蝶貝をちりばめたものがある。聖徳太子時代には、玉虫の厨子という昆虫の美しい羽根を装飾にしたものがある。

 これは日本と中国に透明なガラス式の宝石類は水晶以外産しなかったからであろうか。中国も玉(ぎょく)というと、めのう風なもので、乳白色のように濁っている。

 中国はこの玉でいろいろアクセサリーを作っている。あんなに中国の影響を受けたのに、日本婦人が首飾り、腕輪も指輪も拒否したのは、昔の日本婦人は美の追求者で「観念」(すなわち「えらさ」)は問題にしなかったのじゃないかなと思う。

 こういう伝統は日本の男子にとっては実に有難いことで、西欧の亭主たちのように常に妻から宝石について切り出されないことを、神に祈ってるのと比べたら天地の差があろう。

 江戸時代の婦人のアクセサリーは「櫛こうがい」という言葉があるのでもわかろうが、こうがいとは海亀の殼のことで、べっ甲というと早わかりする。そのころのべっ甲の消費量はたいへんなものであったろう。それが明治維新を境にして消滅してしまったのだから、日本婦人の伝統を捨てるのにあっさりしていること驚くほかはない。それにしても、日本髪というピンツケ油というねばっこいもので形をつくり、それを崩さぬことに苦心していたというところは、私は女のマゾヒストぶりというか、観念的なのに感心する。だから「洗髪のお……」とかいうような綽名(あだな)を持った素敵な女が人の口の端にのぼったのであろう。

──略──

 宝石から日本婦人の「観念」好きに及んだが、この観念好きが教育ママにも結びつくし、流行にもつながるのである。実質主義、観念より実体の持つ「美」。その追求者になってほしい。私はつねに思っているのだが「観念オンチ」とは「お利口でない」ということに気がついている婦人が何人いるかな。

少なくとも、<おんな小学>の愛読者は、お利口な方々にちがいない。宝石なんかつけてないでしょうね。いや財産だって? あなたお金持ちなんですね?
(飯沢匡著「女のおゝ女よ!」文化出版局 p20-25)

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 リンネルの価値関係のなかで、上着が、リンネルに質的に等しいものとして、同じ性質をもつ物として、通用するのは、上着が一つの価値だからである。

だから、上着は、ここでは、価値がそれにおいて現われる物として、または手でつかめるその自然形態で価値を表わす物として、通用する。

ところで、上着は、上着商品の身体は、確かに一つの単なる使用価値である。

上着が価値を表現していないのは、リンネルの任意の一片が価値を表現していないのと同じである。

このことは、ただ、上着はリンネルにたいする価値関係の内部ではその外部でよりも多くの意味をもつということを示すだけである。

ちょうど、多くの人間は金モールで飾られた上着の中ではその外でよりも多くの意味をもつように。
(マルクス著「資本論@」新日本新書 p88)

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◎「宝石から日本婦人の「観念」好きに及んだが、この観念好きが教育ママにも結びつく……流行にもつながる……。実質主義、観念より実体の持つ「美」。その追求者に」と。