学習通信060726
◎対象の本質をとらえようとする科学は……

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はじめに

 科学の営みは、さまざまな段階から成り立っています。問題の設定から始まり、仮説を提案し、仮説から法則を導き、導いた法則を実験や観測結果と照合する、という段階です。導いた法則が実験や観測結果と合わなければ、仮説を変更して再度同じ手順をくりかえします。それがうまくいった場合、さらに、得られた法則からの予言を新たに工夫した実験によって確かめることも加わってきます。

そのおのおのの段階で、科学者はいったいどのように考えているのでしょうか。自分がやっていることが正しいと信じ切って進めているのでしょうか。それとも、いつもまちがっているかもしれないと考え、おそるおそる研究を進めているのでしょうか。むろん、どちらの場合もあるし、ときには自信を持ち、ときには自信を失って、試行錯誤で進んでいく場合もあるでしょう。

 問題の設定にしても、まったくまちがった前提から出発して思いがけない発見に導かれることもあるし、こうなるはずと決めつけて失敗する場合もあります。科学の営みは一筋縄でいかないところがあり、それがまた科学者を惹きつけている理由でもあるのです。多くの失敗や回り道をしたあげく、ごく簡単な解決法にたどりつき、それですべてがうまくいってしまった、というような場合の快感は、科学者でこそ味わえるものです。

あるいは、「定説」(それが正しいと信じられるようになった説)を疑い、別の立場から研究を進めて定説をくつがえしたり、定説を大きく包み込むような新しい理論を展開する、という場合もあります。その場合には、自分の疑いがほんとうなのかどうかたえず心配になりますが、思い切って飛躍したおかげでまったく新しい展望が開かれるのです。これも科学者が味わう醍醐味かもしれません。

 とはいえ、すべての試みが成功するわけではありません。むしろ、失敗した場合のほうがずっと多いでしょう。しかし、人は失敗から学ぶことができます。なぜ失敗したかを詳しく吟味し、失敗の原因を明らかにすることによって、つぎのステップでは失敗のない方法を探っていくためです。実際、二〇〇〇年にノーベル化学賞を授与された白川英樹さんや二〇〇二年に同じノーベル化学賞を授与された田中耕一さんは、むしろ失敗した実験から新しい発見をすることができました。

あるいは、偶然が新発見に導くこともあります。フレミングは、風邪をひいたときに自分の鼻粘液をシャーレに培養したままにしておいたところ、ある細菌が飛び込み、鼻水に含まれる活性物質によって殺されてしまっていることを発見しました。これが後に、抗生物質であるペニシリンの発見につながるのです。このように、失敗や偶然が科学の発展に寄与することも多くありました。それを「セレンディピティー」と呼んでいます。思いがけないところに科学の発見の糸口が潜んでおり、それに気づき、確実に科学の成果につなげていくのも科学者の仕事です。

 また、科学の営みは芸術と似ているところがあります。特に問題を設定する段階では、ふとした思いつきやインスピレーションなどという、科学的には説明できない「ひらめき」のようなものが必要で、それは芸術の活動と何ら変わりません。そのためか、科学の歴史において、複数の科学者が、独立で、まったく同じことを考えていたということがたびたびありました。キュビズムが起こったとき、ピカソやマチスやブラックなどが、それぞれ少しずつ異なってはいたけれど、二次元のキャンバス上に三次元の世界をどう描くかという観点では一致していたのと同じです。

 科学が芸術と異なるのは、科学は積み上げによって成り立っているということです。先人が打ち立てた揺るぎない法則を無視することができず、その法則の上に新しいことがらを付け加えねばならないのです。その意味では、科学の成果はつぎつぎと受け継がれていき、より高度なものへと変身していると言えるでしょう。科学は、つねに新しい成果に塗り替えていかれるものでもあるのです。

 このように、科学の営みにはさまざまな側面があり、そのおのおのについて科学者は独自の対応をしています。それをかいま見せてくれるのが、ここに集めた一〇冊の本です。科学者が研究の各側面で、どのように考え、どのように解決策を見出してきたかを知ることによって、きみたちの発想法に活かせるかもしれません。また、具体的な対象にそってどのように研究を進めたかが書かれているので、科学の考え方や学び方を自分のものにすることができるでしょう。

現在、科学館や天文台など多くの社会教育施設があり、そこで科学の営みを実体験するのも良い経験になると思います。同時に、ここに紹介するような優れた本を読み、自然界の全体構造を知りながら、それらがどのような研究によって明らかにされてきたかを学ぶことも重要です。自らの想像力を鍛えることになるのですから。
(池内了著「科学の一〇冊」岩波ジュニア新書 p1-4)

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経済学研究を構成する三つの部分について

 あらゆる科学はその固有の対象あるいは対象領域をもっており、科学的研究はその対象の法則性を発見し、それが何であるかを明らかにすることを任務としている。

科学的研究の対象が人間の意識の外部に存在する客観的実在であることを意識的にせよ無意識的にせよ認め、そうした客観的実在の研究を行なう経験的科学においては、研究が次の二つの部分をふくんでいるということは、一般に自明のこととして承認されている。

その一つは、現実に存在している客観的な対象それ自体の分析(経済学的にいえば、いわゆる現状分析とよばれる部分である)であり、もう一つは、対象それ自体の発生史あるいは成立史、つまり対象の歴史の研究(経済学的にいえば、経済史の研究)である。しかし、研究はこの二側面だけから行なわれると考えるのはまちがいである。

 科学は科学研究の長い歴史、理論の歴史をもっており、研究の出発は、さしあたりは対象についての理論史によって与えられる理論的素材と、現実に存在し発展しつつある対象とをつきあわせるところからはじまる。もしわれわれが対象についてなにものをも認識していないならば、対象を分析し研究する要求などはまったく生じる余地はない。

学習や経験によって獲得されたある対象についての知識がすでにあり、しかもそうした知識が対象につきあわされ、それがその対象を疑問なく十分に説明するものではないと感じられた時に、対象についての新しい創造的な研究がはじまるのである。

したがって、ある対象についての研究は、その対象についての理論史の研究・学習をその不可分の一環としてもっているのである。また、対象の本質をなすその法則性をとらえようとして苦闘した過去の理論的素材・理論史をふまえないならば、対象についての「新しい発見」をしたように見えても、形態を変えた古い理論のむしかえしにすぎないかもしれず、「新しい発見」が本当に新しいかどうかはいうことができない。

客観的対象の本質や法則をつかまえず、現象する姿のうえをはいまわる実証主義的立場からすれば、対象の本質についてだんだん深く認識してきた認識の歴史をふりかえる必要はないが、対象の本質をとらえようとする科学は、認識の歴史をふりかえらねばならない。

 以上のことから、科学は、現実に存在し発展しつつある対象の分析、その対象の発生史、およびその対象についての認識の発生史(理論史)の三側面から行なわれる。このことは、経済学についていえば、経済学的研究は、現状分析的な経済学研究、経済史の研究、経済学史の研究とからなるということである。

認識の発展とその原動力について

 客観的対象について科学的研究をする人間の具体的認識は、対象についての直観的、感性的認識と、多かれ少なかれこの直観的認識と矛盾している既知の認識とを合わせもっている。

社会や自然に働きかけることによって生じる人間の具体的認識内部の矛盾、あるいは対象的事実とそれについての既知の理論との矛盾が認識の発展の動力であり、こうした矛盾こそが科学や研究の本性である既存の理論を改造し変革するエネルギーの源となるのである。

とくに社会科学では、現実社会の階級的矛盾を核とする諸矛盾を直観的に認識する労働者階級の階級的立場、あるいはそこから生じる階級的な実践こそが、既知の認識をそのままさしおかないで、それを変革しようとするのである。

したがって、科学的研究の発展は、一方では対象の現象する姿を追いかけることでのみ行なわれるのではなく、また他方では、対象についての既知の認識だけを研究の素材として、既知の認識内部の論理的非整合を見つけ出して、それに整合性を与えることでのみ行なわれるのではない。

前者は対象の本質をつかまえない現象追随的な実証主義であり、後者は事実の分析という科学の任務を忘れた解釈学である(もちろん、既知の認識の論理的非整合の批判は、『剰余価値学説史』におけるマルクスのスミスやリカード批判にみられるように、それが事実の分析という科学的任務を遂行するための不可分の要素として自覚されて行なわれている場合には、大切な意義をもっている)。

 既知の理論は、対象との不一致のなかで批判され、のりこえられて新しい理論に席を譲ると同時に、対象との一致が確認された場合には、その真理性がふたたび保証され、このことによって既知の理論は保存されるのである。このような科学的研究活動の本性を、ヘーゲルは、次のように見事に描き出している。


 「行為は既存の素材を自分の前提として、それに対してはたらく。しかも、それを単に材料の附加、拡大によって増すのみでなく、本質的に加工し、改造するのである。各世代が科学において、精神的生産において現に有するものは、あらゆる前の世代が相ともに蓄積してきた相続品である。……この受け取った遺産は、精神の変形する当の材料に引き下げられる。受け取られたものは、こういうふうにして変化される。

 そうして加工された材料は、まさにこうして豊富にせられ、同時に保存されるのである。

 既存の学問〔哲学〕を理解し、その上でそれに自分の手を加え、まさにそうすることによって学問をさらに発展させ、より高い立場に高めること、このことこそわれわれの、また各時代の役目であり、仕事である。われわれは学問を自分自身のものとすることによって、それを前にあったものとはちがった何かとして打ち出す。既存の精神世界を前提し、それを自分のものとして改造するというこの生産の本性のなかに、われわれの哲学が本質的に前の哲学との関連においてのみ生じうるということ、またそこから必然的に生じたということの意味がある」(『哲学史序論』[武市健人訳、岩波文庫、一九七六年、四一〜四三ページ])。


 ここでヘーゲルのいう「哲学」を学問とか科学の意味に広くとれば、ヘーゲルは、科学研究と科学史、特殊的には経済学と経済学史の関係をまったく正しく表現している。

対象の理解とは、その対象にかんする理論史が与える理論的素材の批判、改造にほかならず、また対象が示す新しい現象(社会科学では社会的現象)──対象が発展せず不変である場合には新しく発見された現象であり、対象が発展・変化する場合にはさらにその発展・変化によって生じた新しい現象がふくまれる──による既知の理論的素材にたいする批判に正しく答えることにほかならない。

したがって、科学史や経済学史の研究は認識の発展のためには不可欠であるというにとどまらず、認識の発展は科学史や経済学史の研究との関連においてのみしか生じえないのである。

この意味で、それぞれの科学にとって認識の歴史(理論史)の研究は、研究のためのたんなる予備作業であるとか、現実的な対象の分析のための補助的研究であるとかということはできないのである。

かつて、経済学史の意義と方法を一つの中心的なテーマとする座談会で、経済学史は「刺身のつま」であり、「刺身」ではないということが平瀬巳之吉氏によってのべられたが(「経済学の論理と人間の問題」『経済評論』一九五四年四月号)、こういう見解が誤っていることは以上のことから明らかであろう。

 しかし、平瀬氏がこういうことをのべられたのは、理由がないわけではないのである。それは、経済学史の研究を対象である現実の経済学的分析からまったく分離してそれを経済学史上に存在する理論的素材の論理的整合性を追求する解釈学的研究と考える考え方、あるいは経済学史の研究を杉本栄一氏が分類した第一の型の経済学史研究すなわち「話の泉式な知識の寄せ集め」(『近代経済学史』[岩波全書、一九五三年])的な研究と考える考え方が存在するからであった。平瀬氏の批判はこうした誤った経済学史の方法にたいする批判ではあったが、やはり、一面的であり、経済学研究における経済学史の研究の意義を正しくとらえたものでなかったのである。

 認識の発展の動力は、対象(あるいは現実)と経済学史の研究によって与えられる既知の理論的素材をつき合わせることによって生じる、理論と対象とのあいだの不一致にある。

知識蒐集的な経済学史研究や解釈学的なそれでは、認識が発展するための動力は生まれず、したがって認識は発展しようがない。

真理は客観と意識の一致、すなわち対象の法則性の人間の意識への反映であるが、しかし、なんのために真理を探究するのかという点からみれば、客観と意識の一致をいうかぎりでの真理はまだ抽象的である。

目的からみれば、本当の真理は、認識されたこと、すなわち理論が現実化することのうちにある。

対象を理論化し、次に認識された理論を現実化するというたえまない相互作用こそが人間に対象と理論の不一致を自覚させ、この不一致が認識の発展の動力となって、理論が発展させられ、そして世界が変革されるのである。こうした真理観に立脚して、経済学史は研究され、学習されねばならない。
(上野俊樹著「経済学史の学び方」上野俊樹著作集A 文理閣 p11-14)

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◎「その意味では、科学の成果はつぎつぎと受け継がれていき、より高度なものへと変身し……。科学は、つねに新しい成果に塗り替えていかれるものでもある」と。