学習通信060731
◎心ここにあらざれば見れども見えず……

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ひとつのことをやりとげる喜びを

 仕事をねばり強くおこなってゆくということは、どんな人間にも要求されることです。しかし消費文化≠ノ慣らされたおとなの影響をうけて、子どもたちのあいだには「あきやすい子ども」「なげやりな子ども」がふえています。どうしたらねばり強い、意志の強い子になれるか考えてみましょう。

 子どもの意志の形成はだいたい小学校一、二年生ころからとされています。小学生以前乳幼児期にも「意志的な行動」、つまりものごとに熱心にとりくむ態度がみられますが、まだ、意志とはいえません。

というのは、意志的行動はことばや思考の発達と深いつながりをもっています。自分ないし自分たちでたてた課題とその課題をやりぬくための有効な手だてを頭の中にえがいたり話し合ったりして、行動してゆくのが意志的行動です。

ですから意志的行動はことばやものごとを考える力がつかないと出てこないといえましょう。したがって心ある幼稚園、保育園の先生は仕事がなぜ必要なのか、まず話し合い、行動し、そして行動の結果を確めあうという保育方法をとっています。これは、自分や自分たちの仕事や行動の理解を深めますし、仕事にたいする積極的態度を養います。

 ある保育園の例ですが、自分たちのへやのそうじを子どもたちがまわり番でやっていました。ところが、当番のやり方がだんだん乱暴になり、なげやりな仕事になってしまいました。

そこで、保育者と子どもたちがなぜ仕事が乱暴になってしまったかを話し合いました。結果、みんなが早く遊びたいためにめいめい勝手に行動していることがわかり、そうじを協力してやる手だてについて話し合い、新しいそうじの仕方──一ヶ所にみんなでゴミを集中させる──を考え出しました。

 こうしたことは、なに気ないことですが、子どもたちに仕事の積極的態度、仕事を工夫してすすめるということを身につけさせるうえで大きな教育といえましょう。

 なお、幼児にかぎらず小学生の教育にあっても子どもが仕事にあきがきたり、中途でなげ出したばあい、課題が高すぎたかどうか、なぜ途中でやめたのか、おとなと子どもがたしかめあうことも、しっかりした意志をつくりあげるうえで大切なことです。さらに、ひとつのことがらに成功したばあい、成功をともに喜びあうのもつぎの高い意志行動へみちびくことになります。

ひとつひとつの仕事の目的と意義、そして具体的な手だてと努力、そしてやりとげた喜びをかみしめる──このくりかえしが大切です。
(近藤・好永・橋本・天野「子どものしつけ百話」新日本新書 p114-115)

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意志

 「つらいけれども、大事なことだから、がんばろう」という。「つらい」というのは感情であり、「大事なことだ」というのは認識、「がんばろう」というのは意志である。意志とは、一定の認識にもとづいてからだに(つまり感情に)むかって制御信号を自覚的におくりだすこと、といえるだろう。だから、意志とは認識の「意識された結論」だといわれる。

また、つぎのようにも説明される──「意志は、目的をめざして意識的に進んで動く……瞬間に、直接的反射的におこる反応を制止し、目標にむかっての手段行動の遂行を組織しつづけるはたらき」であり、「いいかえれば、最少抵抗線にすべりこもうとする現在における自己の行動傾向を、意図的に(つまり第二信号系による自家刺激によって)のりこえ、より本質的な適応をするはたらきである」と。

 「怒りをおさえてわなわなとふるえる」というのは、怒りの感情としてあらわれる高密度のパルス信号にたいして、それをおさえるためのパルスを「頑張って送っている」ことを示すもので、「意志の力というのもそういうパルスの密度(単位時間に送られる数)に対応しているのであろう」ということができる。

 もちろん「制御」とは、マイナスの形のものだけをいうのではない。

「怒りをかきたてる」ということもある。これは、プラスの制御信号を頑張って送ることである。いずれにせよ、これが、意志の生理的基礎である。──意志の原初形態は動物にも見られる。「ネコがとびおりるとき考えこむ〔ように見える〕ことがあるが、〔これは〕熟慮というより怖いのにうちかとうとするのであろう」。

ただし、あくまでもそれは「原初形態」にすぎない。それは「神経系における力関係の必然的な帰結」であり、「そこには、外的に与えられた刺激秩序を、頭の中にえがかれた@搗zに従属させるいとなみはなく、したがってその努力の自覚もありえない。意志は、生物学的水準をこえる働きにかかわるのである。」

 理性の強いものほど感情もゆたかだ、と先に述べたが、これは、意志の強いものほど、といいかえてもよい。

「意志は、目的=手段の統一的把握、目的への自らの態度、すなわち、感情の高まりときりはなせない統一のうちにはたらくものであって、孤立しえないものである。したがって、いわばとくに理性的≠ネいとなみである。だからまた意志のよわい人≠ニいわれるのは、意志的側面にのみ欠陥があるわけではない。百万べん意志することを意志≠オても、意志が強くなりはしない。」

 意志は認識の結論であるだけではない。認識の結論であることによって、それは認識をみちびきもする。

 ここで認識というのは、ディジタルな認識にかぎらない。アナログなものをもふくむ。認識というものをこのようにとれば、そもそも「意志をふくまない認識などはどこにもない。あるいは意志の形をとらぬ認識というものは一つもない」ということができる。

「心ここにあらざれば見れども見えず」というが、心をここにあらしめるはたらき、すなわち問題意識のはたらきに意志が関与することはいうまでもない。

 以上、この節で考えてきたことの一つの総括として、つぎのようにいうことができるだろう──「知も情も意も、意識は全体として物質的現実の反映なのである」と。

「この場合、知が外界の反映であるにたいして、情や意は主体の内部現実(=生理)の反映であるということもできる。しかしながら、外部の反映と内部の反映は機械的にきりはなせるものではなく、本来密接な相互依存関係にあり、客観的現実の反映という一つの過程の諸相であって、それぞれが純粋な自律性などはもっていないのである。それは外部と無関係な純粋に孤立した存在などというものがどこにも実在しないということと完全に照応する結果である。」

「情や意は、本来内へむかう反省的意識ではなく、ひたすら外へ外へとむかう傾向性であって、外界こそそれらの最大の関心事なのである。その点では知よりもさらに徹底した外部の意識だということもできる。」

(高田求著「人間の未来への哲学」青木書店 p99-102)

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◎「ひとつのことがらに成功したばあい、成功をともに喜びあうのもつぎの高い意志行動へみちびくことに」と。