学習通信060803
◎自己調節能力……

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 もし彼がこの結論を否定するならば、彼は、この結論がそこからでてくる前提を捨てなければならない。

彼は、賃金額は不変量だといってはならないのであって、むしろ賃金額は上がることはできないし、また上がってはならないが、資本がそれを引き下げたいと思うときにはいつでも下がることができるし、また下がらなくてはならない、というべきなのである。

もし資本家が、諸君に、肉のかわりにジャガイモを、また小麦のかわりに燕麦(えんばく)を食わせておこうと思うなら、諸君は、資本家の意志を経済学の法則としてうけいれ、それに従わなければならないのである。

もしある国では賃金率が他の国よりも高いならば、たとえば合衆国ではイギリスよりも高いならば、諸君は、賃金率のこの相違を、アメリカの資本家の意志とイギリスの資本家の意志との相違によって説明しなければならないわけである。こうしたやりかたは、たしかに、たんに経済現象の研究のみならず、他のあらゆる現象の研究をも、非常に簡単にするであろう。

 だが、そのばあいでも、われわれはこう質問することができよう。なぜアメリカの資本家の意志はイギリスの資本家の意志とちがうのか?と。そしてこの質問に答えるためには、諸君は意志の領域のそとに出なければならない。

牧師なら私に、神はフランスではあることを、イギリスでは他のことを欲したもう、と告げるかもしれない。もし私が彼に意志のそうした二重性を説明してくれるよう求めるならば、彼はあつかましくも、神はフランスではある意志を、イギリスでは他の意志をもつことを欲したもう、と答えるかもしれない。しかし、わが友ウェストン君が、いっさいの論証をこのようにまったく否定するような議論をする人ではけっしてないことは、たしかである。

 資本家の意志とは、たしかに、できるだけ多く取ることである。われわれがしなければならないのは、資本家の意志を論じることではなく、彼の力、この力の限界、この限界の性格を研究すること、これである。
(マルクス著「賃金、価格および利潤」新日本出版社 p91-92)

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質問8 現在の資本主義の本質、特徴とその自己調節能力をどう評価するか

 私は、この設問を最初に読んだとき、資本主義の「自己調節能力」の評価、という最後の提起に、たいへん興味を引かれました。私たちは、さきほど述べたように、党綱領で、二一世紀を、資本主義制度の存続の是非が問われる世紀と意義づけていますが、「自己調節能力」とは、資本主義が、この制度を脅かす矛盾や危機が現われたときに、制度の補修≠竍調節≠してその矛盾や危機による破綻を回避する能力がどれだけあるかを問う、という問題提起だったからです。


(注)
 資本主義の「自己調節能力」についてのエンゲルス。エンゲルスは、その著作『空想から科学へ』のなかで、資本主義の発展のなかで生まれる株式会社、トラスト(独占体)、国有化などの経済形態が、「資本主義的生産関係の内部で可能なかぎりで、……生産力を社会的生産力として扱う」諸形態であるとし、それによって、生産力の発展が引き起こす矛盾をある程度緩和するのだと説きました。これは、現代的な用語で言えば、当時の段階での資本主義の「自己調節能力」についての分析として、読むことができます。エンゲルスは、続いて、それは矛盾の一時的な緩和ではあっても、資本主義の矛盾の根本的な解決とはならないことを、次のように論じています。
 「株式会社とトラストヘの転化も、国有への転化も、生産力の資本という性質を廃棄するものではない」。


 この質問への回答でまず話したことは、私たちは、『資本論』でマルクスが展開した資本主義批判が、現在の資本主義にたいしても基本的に有効だと考えている、ということです。

 マルクスが『資本論』を書いたのは、資本主義の発展から言えば、本当にごく初期の、いわば「初級段階」とでもいうべき時期でした。工場の動力はまだ蒸気機関で、電力の利用はずっとあとの時代です。電話もないから、マルクス、エンゲルスの日常の対話の多くが手紙で残っている、私たちにはありがたいことですが、ともかくそういう時代です。もちろん、現在のような金融資本の高度に発達した体系もない、日本経団連のような資本家階級の組織もない。

マルクスは、そういう「初級段階」の資本主義を研究・分折して、資本主義の本性──利潤第一主義≠ニいう資本主義の発展と没落の全過程を支配する内面の論理を非常に骨太に明らかにしたのです。私は、そのことが、マルクスの経済学説に、資本主義のその後のどんな発展段階にたいしても指導理論たりうる力を与えているのだ、と思います。

 こういう話をしたあとで、私は、〔質問8〕の中心問題である現代の資本主義の「自己調節能力」の問題を取り上げました。

 はじめに紹介したように、資本主義の「自己調節能力」とは、自分の本性が生み出す矛盾や危機にたいして、それに対応する力をどれだけ持っているか、という問題です。マルクスの時代には、資本主義の矛盾としていちばん問題になったのは、恐慌・不況の問題ですが、マルクスは『資本論』のなかで、株式会社という経済形態をこの角度から研究しましたし、エンゲルスは、『空想から科学へ』で、株式会社──トラスト──国有化という一系列の形態を取り上げました。

 この面での資本主義の「自己調節能力」の開拓は、それ以後の時代に、大いに進みました。第一次世界大戦の時期と一九二九〜三〇年の大恐慌の以後に発展をとげた、経済にたいする国家の大規模な介入のシステム──国家独占資本主義の体系がそれで、この政策を経済学的に理論づけたのが、ケインズ経済学でした。ケインズ理論にもとづく国家介入の政策システムは、第二次世界大戦のあと世界の資本主義諸国でこぞって採用され、「恐慌の克服」が声高に叫ばれたりしましたが、七〇年代の初めには、その効力もついに失われました。経済学界でも「ケインズは死んだ」といわれたものです。

その後、いろいろな経済学が登場していますが、資本主義諸国の経済政策の指針として、かつてのケインズほどの力をもったものは、まだ登場しえていないようです。一方、世界経済の実態の方は、経済のグローバル化の進行とともに、危険な要素をいよいよ大規模に蓄積しつつありますから、この面でも、二一世紀が、資本主義の「自己調節能力」を問われる時代となることは、間違いないと思います。
(不破哲三著「二一世紀の世界と社会主義」新日本出版社 p54-56)

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◎「われわれがしなければならないのは、資本家の意志を論じることではなく、彼の力、この力の限界、この限界の性格を研究すること、これである」と。