学習通信060809
◎スプーンの大きさをひろげても……

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労働組合とはなにか

二つの見かた

 労働組合の性格については、さまざまな意見があるが、大別して見れば、@労働組合は、資本家階級の支配と搾取に反対して、労働者の生活と権利を守り、高め、最終的には、資本の支配と搾取のくびきから労働者階級を解放することをめざしてたたかう階級的な大衆組織である、という階級闘争の立場に立つ見方と、A労働組合は労働者の生活と社会的地位の向上を図ることを目的とする労働者の組織である。労働者の生活を向上させるためには社会の生産力を向上させなければならない。今の社会の生産は資本と労働の協力によっておこなわれているから、労働組合は資本家と協力して生産性の向上につとめ、正当な配分を要求すべきである、という労資協調の立場に立つ考え方と二つに分けられる。

 労働組合が階級闘争の立場に立つか、階級協調の立場に立つかは、労働者階級の利害に重大な関係をもつ大切な問題である。どちらが労働組合の進むべき正しい道であるかを考えで見よう。

 賃金の引上げ、労働時間の短縮、首切り反対などの要求は現在どんな労働組合でもかかげている。これらは、一人ひとりの労働者が生活を守り、高めるためにどうしても実現しなければならない基礎的な要求である。労働組合はそのような労働者の一人ひとりの生活からにじみでる本能的ともいえる要求を実現するために同じ階級的な立場にあり、同じ要求と交渉相手をもつ労働者が団結し、その団結を恒常的に維持し、発展させるために生まれたものである。

 ところで、賃金や労働時間はどのようにしてきめられるだろうか?
 資本家が事業を経営するのはけっして労働者とその家族を養うことが目的ではない。牧場で乳牛をかうのは、牛乳をしぼるのが目的であるように、資本家が事業を経営するのは、その事業から利潤を得ることが目的である。このことは諸君が、資本家になったと仮定して、一つの事業をはじめるプランを考えて見れば疑う余地もなくはっきりするであろう。

 五〇〇〇万円の資本がある。この資本で、どんな事業をはじめたら、確実に利潤があげられるか?また将来の発展性があるかを諸君はまず考えぬくだろう。そしていちばん割のよい、つまり、もうけの多い、確実な事業を選ぶにちがいない。

 では、その利潤はどうしてえられるか? 資本家が熟慮のすえ、ある種の製造工業をはじめたとする。彼は五〇〇〇万円の資本金で、工場の敷地を買い、工場をたてる。機械、設備をととのえ、必要な原材料を買入れる。そして資本金の一部で労働者を必要な人数だけ雇い入れて、製品をつくらせる。

 ところで、工場や機械は新しい価値を生みだしはしない。これらのものは時のたつにつれて古くなり磨滅してゆく。工場は二〇年、機械は三年あるいは八年というように、その寿命に応じて消耗してゆく部分を計算して、減価償却として製品の価値の中に加えられるが、それは消耗してゆく価値部分がそっくり新しい製品に移されるだけである。鉄や石炭などの原材料も同じく新しい価値を生産するものではない。一トンの鉄材はそのままではいつまでたっても一トンの鉄材にすぎない。鉄や石炭などの購入に支出された資本部分(これらの商品の価値)は原材料費としてそっくりそのまま新しい製品の価格(価値の貨幣による表現)にくり入れられる。

 工場や機械設備、原材料などに投下された資本は、それ自身では何も新しい価値を生産することはできない。これらは過去の労働の生産物であって、現在は生命のない物品、すなわち、加工され、または、加工のための設備、道具として役立てられる受動的な存在にすぎない。ところが資本によって雇い入れられる労働力はこれらとまったく異なった性質の商品である。これは機械や原材料とちがって、これらを加工して新しい価値を創造する生きた力である。

 別な角度から考えてみよう。工場が建てられる。(これも労働者が建てたものだが)が工場だけではなにも生産されない。機械がすえつけられ、原材料が運びこまれる。(これも労働者がつくり、掘り出し、加工し、運搬したものであるが)だがそれだけでは新しい製品はなにも生まれてこない。

労働者が機械に、たとえば旋盤に鍛鋼のシャフト材をとりつける。機械のスイッチを入れる。ハンドルを操縦してバイトを材料に近づける。バイトのきっさきが材料にふれる。その瞬間に鋼材は煙をたてて削られる。機械の一回転ごとに、鋼材は削られ、新しい製品がつくられてゆく。こうしてりっぱなシャフトがつくり出される。ミーリング工がシャフトにキー溝を切り、組立工が、キーと溝とをしっくりと合うように仕上げて機械を組立てる。こうして新しい機械が創造されるのである。

生きた人間の労働力だけが生命のない機械、設備や工具を使って、原材料を加工して新しい商品、すなわち新しい価値を創造する力を持っている。

 資本家が、この商品の生産に直接支出した資本の総額は、工場、機械、設備、工具などの減価償却費と原材料費と労働者にたいする支払い賃金の総計である。かりに、原価償却費四五〇万円、原材料費二〇〇〇万円、労賃五〇〇万円とすれば、新しい商品のために支出された資本は二九五〇万円になる。もし資本家が彼の商品を二九五〇万円で販売したとすれば、彼は自分の支出した資本を回収するだけで一文の利潤も手に入れることができないことは明らかである。じっさいには、資本家は彼の商品を原価よりも高く売るのが普通である。かりに、彼の商品を五四五〇万円で売ったとしよう。すると彼は二五〇〇万円だけもうけたことになる。これは彼の投下した総資本にたいして、五割の利潤率になる。こういうことがどうしてできるのだろうか?

 この資本家は二九五〇万円の価値しかない商品を五四五〇万円に売りつけてもうけたのだろうか?そうではない。商取引きの上で相手をごまかして法外な利益をえることもありうることである。現に一二万円の中古エンジンを一四〇〇万円で防衛庁に売りつけた資本家もいる。だが、こういうごまかしをしてもうける者がいれば、かならず、ごまかされて損をするものがあるはずである。こういうやりかたでは、もうける者もあれば損をするものもあるが差引すれば社会全体の富の総額は変わらないはずである。

ところが、資本主義社会では、資本家階級は全体として年々大きな利潤をあげ資本を蓄積している。とすれば、二九五〇万円の資本を費して、新しく五四五〇万円の価値がつくりだされたと考えるよりほかないではないか。このことは私たちの身のまわりを見まわしただけでもはっきりする。年々、新しく工場やビルディングなどが増設され、鉄道が新設され、船の数もふえている。新しい性能の機械や設備が建設されている。明らかに、新しい財貨がつくりだされ蓄積されている。

 こう考えてくると、利潤の源泉は労働者の労働によって、あらたに創造され追加された価値であることがわかる。くだいていえば、労働者の日々の創造的な労働によって新しくつくりだされた財貨の一部が賃金として労働者に支払われ、労働者の生活のために消費され、残りが利潤として資本家のふところに入れられるのである。だから賃金の支払額が多くなれば利潤はそれだけ少なくなる。反対に利潤を多くしようとすれば、賃金を引下げなければならない。賃金と利潤とはこのようにたがいに、食うか食われるかの敵対関係にある。

 労働時間の問題についても同様のことがいえる。労働時間が長くなれば、一日についても一年を総計してもそれだけ、新しく生産される物の量が多くなる。前の例で計算してみよう。(この場合減価償却、原材料費、労賃も比例的に増加すると単純に仮定する)。八時間労働で五四五〇万円の商品を生産し、二五〇〇万円の利潤をあげたとすれば、一〇時間労働の場合には生産総額は六八一二万五〇〇〇円、利潤は三一二五万円となり年利潤率は五〇〇〇万円の資本にたいして六二・五%に高まる。かりに二五%の残業割増金をつけたとしてもその総額は三二万円弱にすぎない。定時間内で労働を強化してより多くのものを生産させる場合にも資本家の利潤は増大する。

 だから資本家は賃金引上げや、労働時間短縮、労働強化反対など労働者の切実な要求を頑強に拒絶するのである。そして、労働組合の圧力によってしかたなしに賃金の引上げを認める場合でも、それとひきかえに作業基準量を引上げて、労働強化によって賃上げ分をとりかえし、あるいは、それ以上の利潤を確保しようとするのである。こうした場合、労働組合が上にのべたような搾取のからくりを理解し、階級闘争の立場に立たないかぎり、資本家のペテンを打ち破って、労働者の利益を守ることはできない。

労働組合の運動は階級闘争だ

 このように、賃金引上げ、労働時間短縮、労働強化反対その他、労働者の生活の安定と向上のための切実な要求は、より多くの利潤を追求する資本家の欲望とまったくあい入れない敵対関係にある。したがって労働者の要求を実現することを目的とする労働組合の運動は、運動そのものの性質から見て、労働者階級と資本家階級との食うか食われるかの闘争に発展せざるをえない本質をもっている。

 このことは、労資協調の立場に立つ同盟会議系の全繊同盟が労働基準法の深夜業禁止の条項をたてにとって賃下げなしの一五分間の時間短縮を要求したのにたいして、資本家側が頑強に反対して、ついにストライキという闘争手段に訴えてはじめて要求を貫徹した事実にもはっきりと示されている。

 それにしても、労働の生産性が向上し、生産性が増大すれば、資本家の利潤も労賃も比例的に増加することができるから、労資協力して生産の向上を計ることが、生活向上の早道ではないか? 資本家にも人間性はあるのだから、生産が増大すれば、その利益の一部を労働者にふりむけてくれるにちがいない。資本家を鬼のように考えて、ひたすら闘争をとくことは誤りではないか? と労資協調論者は主張する。この主張は正しいだろうか?

 資本家の経営する事業は、それ一つだけで孤立して経営されているわけではない。すべての産業で多くの会社が自社の商品の市場をひろめ相手をうちまかすために互いに競争している。A社が製品のコストを一割引下げたときB社がもとのままの状態にとどまれば、B社の市場はA社に奪われてしまう。B社が生きのびるためにはA社におとらず、あるいは、より以上にコストを引下げなければならない。B社は、労働者の賃金の引下げ、労働のいっそうの強化によってコストの引下げを実現するか、新しい性能の高い機械設備を導入することによってそれをおこなうか以外に道はない。古い機械設備を新しい機械設備ととりかえるには多額の資本をあらたにつぎこまなければならない。その資本の蓄積のために、労働者にたいする搾取のいっそうの強化がさけられなくなる。

 こうした競争は、たんに、A社とB社のあいだでおこなわれるだけでなく同一産業のすべての経営のあいだではげしくおこなわれる。ことなる産業のあいだでもおこなわれる。それは国際的な規模でもおこなわれている。弱肉強食の資本の無政府的な競争にかちぬくために資本家たちは搾取の鬼にならざるをえないのである。一九五六年の春の賃上げ闘争のときには、資本家は神武いらいの好景気で笑いの止まらないほどもうけていた。にもかかわらず、彼等は、「海外市場での競争に勝つために、新しい設備、機械を入れる資本を蓄積しなければならない」と主張して頑強に賃上げを拒否した。そして労働者の激しい闘争によってはじめて一三〇〇円程度の賃上げを認めたのである。

 現在、日本では、資本蓄積の少ない中小零細企業では主として、低賃金と労働強化による搾取の強化がおこなわれており、資本力のゆたかな大、中の企業では、最新の機械、設備の導入と結びついた賃金の実質的な引下げ、労働の強化による搾取の増大がおこなわれている。日本の独占資本とその政府がおこなっている生産性向上運動は、このような方法によって労働者階級をより以上に搾取し、国際的な資本の競争にうち勝とうとする目的のもとにおこなわれている搾取の強化の運動である。このことを政府も資本家も公然と宣言している。

 海外市場でアメリカ、イギリス、ドイツ、フランスなど外国の資本との市場争奪競争に勝つためには、日本の商品のコストをもっと引下げなければならない。そのためには新しい機械、設備で日本の産業を装備しなければならない。この機械設備をととのえるためには巨額の資本が必要である。その資本の蓄積のために、労働者諸君は現在の低賃金にあまんじて、いっそう生産性を高めてほしい。

 これが彼らのいい分である。現在、生産はすでに戦前の二倍半をこえ、独占資本の利潤は、日本資本主義はじまっていらいの巨額のものに達している。にもかかわらず、独占資本と政府は労働者の賃金引上げに頑強に反対して、より以上の資本蓄積をはかっているだけでなく、国の予算においても、社会保障費や教育費、民生安定費などを削って、独占資本のための財政投融資を増額している。これは農民その他の勤労人民を収奪して、これを産業設備資金につぎこむことである。

そして、競争に勝ったら賃金もあげるから、それまでしんぼうしてくれと労働者階級と勤労人民を説得しようとする。だが、同じことが他の資本主義諸国の独占資本と政府によっておこなわれている。したがって、この競争は限りなくつづけられ、労働者階級にたいする搾取のむちはますます強まってゆく。この傾向を阻止するのは労働者階級の闘争以外にはない。
 このことは労働組合運動の歴史がまざまざと証明している。
(春日正一著「労働運動入門」新日本出版社 p46-53)

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 ウェストン君は、彼の理論を例証するために諸君にこう言った。一つの鉢に一定量のスープが入っていて、それを一定数の人が飲むばあいに、スプーンの大きさをひろげても、スープの量をふやすことにはならないであろう、と。

彼には失礼だが、この例は私にはいささかスプーニーに〔たわいなく〕見える。それは私に、メネニウス・アグリッパが用いた比喩を思いださせた。ローマの平民たちがローマの貴族たちと衝突したとき、貴族のアグリッパは、平民たちにむかって、貴族という腹が政治体〔国家〕の手足である平民を養うのだ、といった。

アグリッパには、ある人の腹をみたすことによって他の人の手足が養えるということは証明できなかった。

ところでウェストン君のほうは、労働者たちが食物をとる鉢は国民労働の生産物全体でみたされているということ、また彼らがこの鉢からもっと多くを取りだすのを妨げているのは、鉢が小さいからでもその中身が少ないからでもなくて、ただ彼らのスプーンが小さいからだということを、忘れていたのである。
(マルクス著「賃金、価格および利潤」新日本出版社 p94-95)

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◎「だから賃金の支払額が多くなれば利潤はそれだけ少なく……反対に利潤を多くしようとすれば、賃金を引下げなければ……賃金と利潤とはこのようにたがいに、食うか食われるかの敵対関係にある」と。