学習通信060811
◎学習と思考のスキル(技能)……

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絵本の価値を見なおそう

 先日、新宿のある大きな書店の児童図書売場で、こんな光景を見かけました。

 小学校一、二年生ぐらいの女の子をつれた母親が、本を選んでやっています。「これはどう? おもしろいわよ」などといいながら、母親は、書だなからぬきだした本を子どもの前に並べています。

 『フランダースの犬』『若草物語』など、三、四さつの本を前にして、その女の子は不満げな表情で、手にとってみようともしません。

 にえきらない態度を見てとうとうおこりだした母親に、「それじゃあ、どんな本がいいの?」といわれたその子は、すごすごと隣りの絵本の書だなの方へ歩きかけました。すかさず母親のロから、「絵本なんかダメよ、もう小学生なんだから!」というきびしいことばがとびだしました゜

 この母親のように、絵本などは学校まえの子どもが読むもので、学校にはいったら字の本を読むべきだと考えているおとながまだまだ多いようです。

 こうした考え方の奥には、子どもが文字を読みさえすればその内容が理解できるという、一見もっともらしい常識がはたらいています。これは文字への盲目的な信仰といえないでしょうか。私たちの意識の中には、文字そのものが力をもっていて、人間をかしこくしてくれるという信仰が深く根をはっているようです。

 しかし、文字が読めればかならずその内容がわかるというものではありません。子どもが文字を読んで内容がわかるようになるまでには、それなりの準備がどうしても必要なのです。

 幼児がことばをおぼえはじめるときのことを思いうかべてみましょう。親は、「オテテ」とか「ハナ」とか「オツム」とかいうことばを、かならず「手」や「鼻」や「頭」をさし示したり、手でふれさせたりしながら教えます。また、「ウレシイ」とか「イタイ」というような、感情をあらわすようなことばをも、そうした子どもの体験と結びつけながら教えます。

 何回となくくりかえされることばと事実・体験とを結びつけることによって、やがて子どもは、ことばを聞いただけでその意味するところがわかるようになります。

 だから、ことばを読むばあいにも、その意味がわかるためには、ことばがさし示す体験を豊富にもっていなければなりません。こうした体験の大部分は、子どもの遊びによってたくわえられでゆきます。

 おとなほど生活経験が豊かでない子どもには、未知のことがたくさんあります。それだけにことばだけでは不完全にしか理解できないこともたくさんあります。

 しかし、子どもは、実際に自分の目で見たり、聞いたりしたことのないものごとでも、絵本で理解することができます。

 たとえばおとなでも、川のあれこれの特定の場所に行ったことはあっても、水源池から河口まで切れ目なく自分の足でたしかめたことのある人はごくまれでしょう。そういう体験のない人が、川の始まりから終わりまでの一貫した、イメージを描くことは不可能です。

 しかし、『かわ』(加古里子作・福音館)という絵本を読む子どもは、山に降った雨や雪が山奥の谷間に小さな流れをつくり、他の流れと合流してだんだん大きな流れとなり、平野を通りぬけ、やがて海にそそぐさまをあざやかに理解することができます。同時に人間の営みと川とのつながりをも、はっきりとつかむことができます。

 また、『うんがにおちたうし』(ピーター=ヌパイアー絵・ポプラ社)を読む子どもは、運河におちた牛のヘンドリカの後を追いながら、オランダの農村風景や町の景観と、そこに働いている人びとの生活を手にとるようにながめることができます。おそらくテレビや映画でも、これだけ生きいきと、しかも典型的にオランダの人びとの生活を描くことはむずかしいでしょう。

 こうした絵本を読む子どもたちは、未経験のことがらを知る喜びといっしょに、自分の断片的な知識や経験を、より商い知識の中に位置づける喜びをも知るでしょう。

 ここでとりあげたのは、主に子どもの知識をひろげ、より豊富なものとするうえでの絵本の役割ということですが、絵本、とくに物語の絵本はこのほか、想像力を豊かにするというだいじなはたらきをもっています。

 小学校二、三年生ぐらいになると、子どもはそれまでに集積した経験をうらづけにして、あまり絵にたよらなくても、文字を読んでイメージを描けるようになります。それまでの間によい絵本をたくさんあたえられた子どもは、たのしみながら本格的な読書生活にはいっていけるでしょう。
(代田昇著「子どもと読書」新日本新書 p110-113)

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■言葉の定義にたちかえって考える

 ひとまず,ここまでのやりとりで見えてきたK子ちゃんの学習の問題点は何だろうか.ぼくの考えではこうだ.まず,「1メートルが100センチだから,1平方メートルは100平方センチメートル」というように,意味を考えずに素朴に考えて思い違いをしているということだ.ただし,それはしかたがない面もある.勘違いはだれにでもあることだ.

 より重要な問題は,それが間違っているかもしれないというときにどうするかである.K子ちゃんは,自分から「1平方メートルとは,どういうことか」にたちかえって考え直そうとはしていない.「1平方メートルが何平方センチメートルか」という答えを聞き出して修正すれば,それでことたりると思っているように見える.実際,それで「20平方メートルは何平方センチか」に答えることはできる.

 しかし,これでは,「1平方キロメートルは何平方メートルか」とか「1リットルは何CCか」とか,似たような換算が出てきたとき,とたんにゴチャゴチャになり,間違えてしまう.1平方メートルとはどういうことかという言葉の意味,これを1平方メートルの「定義」ということは,君たちなら習ったと思う.いったん定義に戻って考えるようにしていれば,たくさんの公式を丸暗記する必要はないし,応用もきくのである.

 では,中学生や高校生の場合どうだろうか.食塩水の濃度の間題を解こうというときに,「濃度」の定義を知らない,言えない,という生徒はじつに多いのである.君は大丈夫だろうか.(あやしければ,数学や理科の教科書を読み返してみよう.[溶質の質量]/[溶液の質量]というのが定義として出ているはずだ.)簡単な問題なら,なんとなく問題文の中の数値をいじくって答えらしきものを出してしまうが,少し複雑な問題になると,定義があやふやなものだから,考えの出発点となるとっかかりがなくなってしまう.

 日常生活では,ことさら言葉の定義をはっきり意識していなくても,それほど困らないことが多い.そもそもはっきり定義できないこともあるし,無意識のうちに,みんなが了解していたりするからである.しかし,話が込み入ってくると,そうはいかなくなる.「文明の進歩は人々を幸福にするか」などという議論になったら,「文明」とは何か,「幸福」とは何かを定義しないと混乱するばかりである.

 科学では,定義をはっきりさせて,問題を解いたり,研究者どうしのコミュニケーションをはかる.もちろん,人により,時代により,同じ言葉を違ったふうに定義することはある.だから,定義はつねに固定したものではない.しかし,それだけに,「今,ここではどのように定義しているか」をはっきりさせることにこだわる.はっきりした定義をつくろうとすることが,学問の進歩となることもあるのである.

 K子ちゃんは,1平方メートルの定義を知らなかったわけではないことに注意しよう.聞かれれば,答えられたのである.しかし,定義にたちかえって問題を考え直すことに慣れていないようだ.まるで辞書のように,定義が頭の中にはいっているだけだ.肝心なときに使わないのでは価値が半減してしまう.「学習における定義の重要さがわかっていないこと」,これがぼくがK子ちゃんの学習観について感じた1つの問題点である.

■手を動かしながら,頭を使う

 ぼくが感じた2つ目の問題点は,K子ちゃんが考えるときに,頭だけを使っていることだ.この本で,このあと詳しく書いていくつもりだが,人間が頭だけを使ってできることというのには限りがある.たしかに,人間はほかの動物に比べるとすぐれた脳をもっている.しかし,知的なはたらきという点から見て,飛躍的な進歩をとげたのは,知的な道具を使い出してからである.

 人類の歴史で言えば,まず文字の発明である.文字として残しておけば,簡単には消えないから,大量の情報を長く保存できる.さらに,書かれた文章を何度も読み直しながら考えを進めることができる.文字は,記憶の道具だけではなく,思考の道具にもなるということだ.話し言葉だけしか使えなければ,長編小説も,科学論文もとても書けそうにない.アイデアは,書いてみてそれを吟味するからこそ,豊かになり,洗練されるのである.

 数式や図にしても同じような役割をもっている.どんな優れた数学者でも,頭の中だけで考えて,定理を発見したり,証明したりはできない.やはり紙の上に図や式を書きながら考えているのである.ところが,「簡単な問題なら,頭だけで考えてポンと答えを出す.むずかしい問題なら,頭だけで考えて,結局わからない」というパターンに陥ってしまっている生徒は,ぼくの見たところものすごく多い.

 むずかしい問題は,ジタバタしてみなければ解けない.その問題解決の過程は,要点をメモして整理してみたり,図を書いて書き込みを入れたり変形したり,ということで,頭だけで考えるのとは比べものにならないくらい促進される.「あいつは,勉強がよくできる」とか「仕事ができる」とか言われている人が,むずかしい問題を考えているとき,どれくらい手が動いているか見てみるといい.何も書かずにうなっているだけの人は,まずいないはずだ.

 K子ちゃんの場合,自分から図を書こうとはせず,考えがいきづまってしまった.図を書くと,あとは自力で正解にたどりつくことができた.一般的には,図を使いながら算数や数学の問題を考えようとしない子どもが少なくないのは,すでに述べたとおりである.なぜだろうか.理由は簡単で,「めんどうくさいから」か,「どういうふうに書いていいのかわからないから」である.

 図の効用は認めるが,それは先生がわかりやすい説明のために使うもので,自分が問題を解くときの道具だとは考えていない人もけっこういるようだ.これも一種の学習観である.学校の先生も,よほどていねいな人でないと,問題を解くときの図の使い方などは,指導してくれないようだ.図を書いて考えるなんてアタリマエだと思って,わざわざ教えない先生もいるだろう.

 「人の話を聞いたり,自分の考えをまとめるときにメモをとる」「数学の問題を図を使いながら考える」などというのが「手を使いながら,頭を使う」ということだ.これらは,一見めんどうなようだが,大きな威力を発揮する.しかも,慣れればそれほどめんどうではなくなる.その有効性を肌で感じて,習慣にできるかどうかは,中学校や高校時代に習得してほしい大切な課題であるとぼくは思っている.それは,単なる勉強のテクニックを越えた学習と思考のスキル(技能)なのである.
(市川伸一著「勉強法が変わる本」岩波ジュニア新書 p6-12)

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◎「絵本を読む子どもたちは、未経験のことがらを知る喜びといっしょに、自分の断片的な知識や経験を、より商い知識の中に位置づける喜びをも知る」と。