学習通信060822
◎ヘーゲルの議論によれば……

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セクハラと一部メディアの姿勢

 最近いくつかのメディアが、セクハラ事件で参議院議員を辞職し後に日本共産党を離れた筆坂秀世氏を、まともな解説者のようにあつかって登場させました。セクハラ問題で事実がなかったかのように開き直っている筆坂氏の態度にあわせて、セクハラ問題を不問にしていることが特徴です。

 『週刊朝日』は、早坂氏とのインタビューで、聞き手(有田芳生氏)に「女性は嫌がっていたのですか」などと質問させて、筆坂氏に開き直りの弁を展開する場を与え、その後の別号では、「東大阪市長選の共産党勝利を……斬る」と称する記事に筆坂氏を登場させました。

 大阪読売テレピ「たかじんのそこまでいって委員会」では、筆坂氏を最初に登場させたさい、セクハラ事件にふれたものの、筆坂氏の弁明を聞いただけで、筆坂氏の姿勢をまったく問題にしませんでした。最近、同番組に筆坂氏を再度登場させるにあたっては、「セクハラ疑惑で議員辞職」などと紹介しました。セクハラはもはや「疑惑」あつかい、問題にもなりませんでした。

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 筆坂氏のセクハラが、でっち上げや疑惑のたぐいのものでないことは、二○○三年六月七日付で筆坂氏が書いた「自己批判書」で明白です。

 「(事件の翌日、被害者が)不愉快な思いをしているなら、謝罪しなければと思い、電話とファックスで連絡をとりましたが、まったく連絡がつかず、今日に至りました」

 「今回の件で思うのですが、……(あのような)行為は、程度の差こそあれ、これまでもあったことを否定できません。ただ、これまでは、誰からも訴えられることはなかったというだけです」

 「そう強く自覚していたとはおもはないのですが、たとえば『女性は可愛ければよい』『所詮、女は色取り』というような蔑視があったのかもしれません。それが今回のような行動の遠因になったのかもしれないと考えています」

 「今回の私の行為は、どうにも弁解できないものであり、また、弁解するつもりも毛頭ありません」「いかなる処分も受け入れる覚悟です」

 このように筆坂氏は、セクハラ行為を働いた翌朝から、それを気にしていたのであり、弁解できない行為、どんな処分を受けてもやむをえない行為であったことを認めていたのです。これらの「自己批判」の中心部分は、すでに四月二十日付本紙で浜野忠夫副委員長が引用して紹介しており、メディアにとっては周知のはずのものです。

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 セクシュアルハラスメント(セクハラ)は、女性の尊厳と人格をいちじるしく侵害する行為として、社会的に根絶が求められています。米国トヨタ社長のセクハラで、社長自身と会社が巨額の損害賠償金を請求され、社長が更迭されたという事件もありました。セクハラはそういう重大な問題です。

 セクハラ事件を起こし、謝罪どころか、たいしたことはやっていないと開き直っているような人物を、どんな分野であれ識者≠つかいして雑誌や公共の電波に大きくのせるなどということをすれば、そのメディアは不見識のそしりを免れないでしょう。一部メディアの基本姿勢がきびしく問われています。(Q)
(「しんぶん赤旗」2006.8.4)

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セクハラ(性的いやがらせ)根絶には何が必要か?
あらゆる性差別禁止が大事
男性の働きかたを見直すことも

労働ジャーナリスト 金子雅臣さんに聞く

 女性たちが職場で働き続けることを困難にしている問題の一つにセクシュアル・ハラスメント(性的いやがらせ)があります。根絶には何が必要なのでしょう。『壊れる男たち──セクハラはなぜ繰り返されるのか』(岩波新書)を出した労働ジャーナリストの金子雅臣さんに聞きました。(中村 万里)


 弱者に向かう閉塞感のはけ口

 私は長年にわたって東京都の労働相談に従事してきました。セクハラ相談件数は近年激増しています。これまで隠されていたものが表面化していることは間違いのない事実です。

 しかし、それだけではないと考えています。というのも身近な男性から「無意識にそうなったが、どうしよう」と相談されることがあるからです。以前はなかったことです。普通の人がセクハラをしてしまう可能性が高まっているのではないかと、危ぐしています。

 背景には、仕事がスピードアップして成果主義が強まっていることからくる閉塞(へいそく)感の高まりがあると思います。一般的ないじめの場合と同様に、閉塞感のはけ口は通常、弱者に向かいやすいものですからね。

 例えば急いでいるときに、もたもたしている車があったとして、それが軽自動車でしかも女性が運転していたら「ププッ」とクラクションを鳴らしてしまうかもしれない。ところが高級車やトラックなら鳴らさないでしょう。それと同じです。

他人の痛み共感
できるかどうか

 この差別感を、加害者が意識していないことも、気になっています。
 相談を受けて私は、被害者の気持ちを加害者に伝えて、お互いに共通の理解を求め、謝罪し、和解してもらおうとします。

 被害者の彼女は、意に反する性的言動をされた屈辱と苦しみで、仕事ができず、夜も眠れなくなって、生活を壊されています。

 ところが加害者の彼は、「魔が差した」「お酒の上だ」「合意していたはずだ」などと言って、彼女の苦しみを理解しようとしない。痴漢やレイプなら捕まるけれど、セクハラは合意だと言い張っていれば、のがれられると思ってます。

 加害男性は、心の底では女は誘う性で、男は挑発される≠ニ思っている。

 彼女が「嫌だ」と言っても、本当は「良い」のだと信じています。はんらんしているポルノのストーリーが刷り込まれているんですね。

 しかし、男性はみんな加害性があるかというと、そんなことはない。分けるのは他人の痛みを共感できるかどうかだと思います。

男女平等への
大きな流れを

 セクハラをなくすには二つのことが大事だと考えています。
 一つは、法律であらゆる性差別を禁止することです。男女雇用機会均等法二一条は、女性労働者だけを被害者だとしていますが、男性も被害にあっており、自殺した男性もいます。今国会に提出されている均等法改正案は、男女双方の差別を禁止する内容になっています。セクハラ防止については事業主の配慮義務から措置義務(相談や苦情処理の体制整備はじめ必要な措置を講じる義務)に強化しています。将来的には禁止規定にし罰則を科する必要があると思います。

 もう一つは、男性たちの働き方をもっと楽にすることです。男だってたいヘんなんだよ。女は優遇されている≠ニ男性が思っている間は、なくならないでしょう。均等法が求めているのは「男並み均等」ですが、過労死するような働き方をやめ、働き方を男性も女性に近づけて平準化していけば、セクハラの理論はなりたたないと思います。

 働き方と生活の分野から、男女平等をつくる大きな流れをすすめるなかで、性についての意識も変えていけると思います。
(「しんぶん赤旗」2006.4.11)

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 第二に、ヘーゲルの家族は、両性の同意による婚姻、一夫一婦制、夫婦と子どもからなる小家族、男女の性的役割分担、子どもの教育権、離婚の権利など、近代家族の特徴をそなえている。

しかし、近代家族だからといって、男女が平等になったわけではない。

ヘーゲルの議論によれば、家族を代表し、家族の資産を管理するのは、男性である。ここにすでに男女の差別がある。また男女の性的役割分担において、社会的な労働にたずさわって収入を得るのは男性である。

女性は、子どもを生み育て、家族の世話をする仕事に閉じこめられて、経済・政治・文化・学問などの社会的活動から排除されてしまう。ここにいっそう重大な男女差別がある。

ヘーゲルは、男性と女性の資質や能力には生まれながらの差異があるかのように言う。

しかし、男女の資質や能力に差異があったとしても、それは社会的活動への参加の有無や程度の差異の結果とも考えられる。男女の資質や能力の差異を理由として女性の社会参加を排除すれば、女性差別はいっそう広がってしまうであろう。
(牧野広義「第3章 マルクスにおける家族と市民社会 ─鰺坂真編「ジェンダーと史的唯物論」」 学習の友社 p73-74)

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◎「男性はみんな加害性がある……そんなことはない。分けるのは他人の痛みを共感できるかどうかだ」と。