学習通信060823
◎木は、大きくても小さくても……

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 資本もまた、一つの社会的な生産関係である。それは、一つのブルジョア的な生産関係であり、ブルジョア社会の一つの生産関係である。

資本を構成する生活手段、労働用具、原料は、あたえられた社会的な諸条件のもとで、一定の社会的な諸関係のなかで、つくりだされて、たくわえられたのではなかろうか? それらは、あたえられた社会的な諸条件のもとで、一定の社会的諸関係において、新しい生産に用いられるのではなかろうか? そして、まさにこの一定の社会的性格こそが、新しい生産に役だつ生産物を資本にするのではなかろうか?

 資本は、たんに生活手段、労働用具および原料だけから、つまり物質的な生産物だけから、なりたっているのではない。同様にそれは、交換価値からもなりたっているのである。資本を構成する生産物はすべて商品である。

こうして資本は、たんに物質的な生産物の総和であるだけではなく、商品の、交換価値の、すなわち社会的な大きさの総和なのである。

 われわれが、羊毛のかわりに綿花を、小麦のかわりに米を、鉄道のかわりに汽船をおきかえても、資本の体である綿花、米、汽船が、以前に資本を体現していた羊毛、小麦、鉄道と同じ交換価値、同じ価格をもっているということを前提しさえすれば、資本は同一不変である。資本はいささかも変化をこうむらないのに、資本の体はたえず変転しうるのである。

 しかし、どの資本も諸商品の、すなわち諸交換価値の総和であるといっても、諸商品の、諸交換価値のどの総和も資本であるというわけではない。

 諸交換価値のどの総和も、一つの交換価値である。どの個々の交換価
値も、諸交換価値の総和である。たとえば、一〇〇〇マルクの価値がある一軒の家は、一〇〇〇マルクという一つの交換価値である。一ペニヒの価値がある一枚の紙は、一〇○分の一ペニヒの一〇〇倍という、諸交換価値の総和である。他の生産物と交換できる生産物は、商品である。

諸商品が交換できる一定の比率は、それらの商品の交換価値を、または貨幣で表現すればそれらの価格を形成する。これらの生産物の分量は、それが商品であるとか、交換価値をあらわすとか、あるいは一定の価格をもつとかの、それらの規定をすこしも変えるものではない。

木は、大きくても小さくても、木であることに変わりはない。鉄を他の生産物と交換するのに、ロート〔ドイツの昔の重量単位。一ロートは一五グラム〕でしょうが、ツェントナ一〔ドイツの重量単位。一ツェントナーは五〇キログラム〕でしょうが、鉄は、商品であり交換価値であるという性格を変えるであろうか? 鉄は、その分量におうじて、価値が多いかまたは少ない商品であり、価格が高いかまたは低い商品なのである。

 ではどのょうにして、諸商品の、諸交換価値の総和が資本となるのか?

 それが資本になるのは、直接的な、生きた労働力と交換されることにより、自立した社会的な力として、すなわち社会の一部のものの力として自分自身を維持し、増殖することによってである。労働能力のほかにはなにものをももたない一階級の存在が、資本の不可欠の前提なのである。

 たくわえられた労働を、はじめて資本にするのは、直接的な、生きた労働にたいする、たくわえられた、過去の、対象化された労働の支配である。

 資本の本質は、たくわえられた労働が、生きた労働にとって新しい生産の手段として役立つ、という点にあるのではない。それは、生きた労働が、たくわえられた労働にとって、その交換価値を維持し増殖する手段として役立つ、という点にある。
(マルクス著「賃労働と資本」新日本出版社 p50-53)

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 商品生産が成立する経済的関係は、私的所有にもとづく人と人との生産における関係である。この関係は、単純な商品生産の場合、社会的分業の一環をになう私的所有者である商品生産者たちの関係である。

 資本主義的生産においては、私的所有は資本主義的形態規定をうける。

この経済的関係は、第一に、社会的分業のある一環をになう生産手段の所有者である資本家が賃金労働者を雇用して生産し、その生産物を商品として市場にだすような経済関係である。

第二に生産手段の無所有者である賃金労働者が、労働力をくりかえし資本家に売り、賃金でもって生活するような経済関係である。資本・賃労働関係が私的所有の基礎のうえにたえず再生産されるのである。

 帝国主義段階でも、資本主義的経済関係は維持され、株式会社制度が支配的になった現在でもこの基本的関係は変化していない。

株式会社が株式を相互に持ちあうという現象は私的所有を止揚したのではなく、株式会社と、株式会社に所属する生産資本、貨幣資本、商品資本の所有者は、階層的構成をなして存在する経営者の上層部である資本家であり、それらは資本主義的に共同所有されている。

また、株式会社は、上層部経営者である資本家たちによって共同的に指揮・支配されている。擬制資本である株式のたんなる所有者は、この資本主義的共同所有にもとづく生産の機能的な担い手ではなく、貸し付け資本の利子を所有する所有資本家と同質である。
(「労働価値論と現代」上野俊樹著作集D 文理閣 p103-104)

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◎「まさにこの一定の社会的性格こそが、新しい生産に役だつ生産物を資本にする」と。