学習通信060831
◎公園デビュー……

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子育て親世代の苦悩
殺人事件に共感する母親たち

 地域の共同性がほとんど消滅した結果、各家庭が同じ不安や辛さを抱えながらも、お互いに情報交換したり交流したりすることもなく、孤立したままで不安に沈んでいます。その典型的事件が、一九九九年一一月に発生しました。世間に衝撃を与えた、東京都文京区で発生した若山春奈ちゃん殺害事件です。

 容疑者は、同じ幼稚園に子どもを通わせる母親グルーブとの人間関係の軋轢にとらわれて「心のぶつかり合い」が大きくなったと述べています。「春奈ちゃんの母親は、自分の長男と春奈ちゃんの兄を引き離したり、私の子どもを責めることもあった。春奈ちゃんのお母さんと仲がよいと見られなくてはならない、という義務感に疲れてしまった」「もう耐えられないと思い、春奈ちゃんを殺そうと思った」(読売新聞、一九九九年一二月一七日付)ので、わが子と同い年の、相手の母親の二歳になる子を殺害するという凶行に至ってしまったのです。この事件を入口に、今日の若い母親たちが抱える困難に光を当ててみたいと思います。

 私たちが驚かされたのは、事件の特異性もさることながら、その容疑者に共感するという反応が、同年代の母親たちを中心にあまりにも強かったことでした。それは、容疑者が感じていた「生き辛さ」への共感でした。

 「山田容疑者は私自身に似ている。何年か前の自分と重なってひとごとと思えない」。
 「私は「お受験」なんて全く考えたこともないけれど、地域での子育て仲間である母親たちとのお付き合いにはホトホト疲れるのよね」。
 「事件を身近に感じています。山田容疑者は突出した母親ではない。だれにでもある「心の闇」の、その扉を開けてしまっただけではないか」。

 この最後の主婦の場合、家の隣にあった公園が「大きな苦痛」だったとし、「母親の付き合いは本当に大変。何グラムで生まれた、お座りが出来た、などの競争がずっと続き、優越感やねたみが生まれる。のびのびできるはずの場が競争の場になっている」と語っています(読売新聞、一九九九年一二月五日付)。

 巷にはこんな声が溢れました。各新聞社やテレビヘの投書は、事件後わずか二週間足らずの間に千通から三千通にも及んだといいます。

三〇代の親世代が育ってきた社会とは

 では、これら三〇代の母親世代が抱える「生き辛さ」や事件の容疑者が発した「心の闇」とは一体何なのでしょうか。その背景には、親世代が育ってきた過程に一つの大きな問題が潜んでいるように私は考えています。

 まず、いま子育て中の親たちが「共通一次」試験時代の学歴社会のなかで育ってきた世代であることに注意を払う必要があります。その世代の多くは、競争主義的な一元的価値をたたき込まれ、それを内在化させています。自分の夢や希望をじっくり確かめながら自分の進路を探るよりも、偏差値という序列化された数値によって自己のポジションを確認することを優先し、進路先を決めてきた世代と言ってよいでしょう。学校や家庭などでそれが当然であると指導され続け、その中で自己の人格形成をしてきたわけですから、たえず他者や数値によって評価される自分しか実感できずに悩む人が多いのです。

 ですから、自分らしい感情形成が弱かったり、自分に自信を持つことのできない人がその世代に多く見られるのも当然ではないでしょうか。もちろん自己への不安はどの世代にも共通して感じるものでしょうが、今日の若い親の場合、たえず他人と比べては一喜一憂することになりかねないのです。あるがままの自分、それが欠点だらけの自分であっても、丸ごと受容できずに子育てしなければならないことほど辛い話はないでしょう。親自身の実感としては、まるで自立が完了する前の「子ども」のまま親業を営まされているような感じです。

 これらの世代の母親たちが、わが子の遊び相手を求めて「友だちグループ」に参加させてもらうために、その通過儀礼として「公園デビュー」をしなくてはならないのには、こうした背景があります。

 「公園デビュー」とは、九〇年代の初頭から使われ始め、半ばには流行語にまでなった言葉です。若い母親がわが子の遊び仲間を得るために、あちこちの公園ですでに近所の母親たちによって形成されている子どもが遊ぶグループに自分も参加させてもらうために、挨拶したり交流を求めることをいいます。このグループが「子育て友だち」になるのです。ここに参加できないと、完全に孤立した子育てを強いられ、子ども自身も友だちができないばかりか、母親も孤立することになります。昔の親には考えられない光景です。昔は見知らぬ親同士であっても、子育て真っ最中というだけで親近感を抱き、誰とてもうち解け合えたものです。

 だから「なぜそのようなことを」と年配者はいぶかしがるでしょう。しかし、若い親世代がこのように自尊感情(セルフエスティーム)が低い上に人間関係づくりが苦手という困難を抱えたままで親として、子育てにかかわらざるを得ないとすれば、自分の行為を規制するほど他人のことが気になり、仲間の親の同調圧力を受けてしまうのも納得できるのではないでしょうか。

思春期の延長上?

 彼女たちの「子育て友だち状況」は、どこか思春期の中・高生期に似た行動を連想させます。思春期の友だちどうしの世界では、子どもたちは自分の本心は見せずに「仮面友だち」を演じます。気遣いばかりしてしまうために、みんなと一緒にいると精神的にグッタリ疲れるのです。U章の1節で見た小学六年生の調査では、「いらいら、むしゃくしや」する理由として、最も多い回答が「友達との人間関係がうまくいかない」ことを挙げていましたが、このように友達との関係にストレスを感じるとしても、それでも子どもたちは一人にはなれません。不安で仕方がないからです。

その結果、たえず似たもの同士がグループ化して、仲間への依存関係に陥ります。行動も持ち物も会話もすべてを自分の属するグループや同世代間の流行りモノに合わせることになります。似たもの同士のグループという小さな閉鎖社会ではストレスが高まり、当然いじめが発生しやすくなります。いじめはその緊張から生じるウサを晴らす、一種のガス抜き効果にもなっているのです。

 母親たちの「公園デビュー」現象を生み出す「子育て友だち状況」は、ちょうど思春期のそうした同調圧力の延長上にあると考えられます。「共通一次」世代の競争主義的生活のために、今日の若い親たちは、中・高生時代にトラブルを克服したり、誤解を解消しながらお互いに信頼を築くというダイナミックな体験に乏しかったのではないでしょうか。ですから人間への不信感と対人関係における自分への自信のなさが影響して、思春期の発達課題を、大人になってもそのまま色濃く引きずって自立しきっていない状況と言えるでしょう。

 もちろん今日の母親たちすべてがこうだと言っているのではありません。一つの「世代」としての共通体験を考えたときに、同じような傾向を指摘できるということです。

「子育ては自己実現」

 若い親たちの特性としてもうひとつ、自己実現を歪んだ形で求める傾向があることに触れておく必要があるでしょう。校内暴力やいじめ、管理主義などで辛い学校体験をしょい込んできたあげくに、高校の出口で共通二次試験のふるいにかけられ、他者への信頼が築けないまま育ったのでは、自己が空虚に感じられるのは当然かも知れません。

 しかし、仕事の第一線で活躍し自己実現できていた女性ほど、出産と同時に母親としての「子育て役割」を一身に受け持たされてしまうために、これまで「他者から評価」され続けてきた自己をいきなり喪失することになります。その喪失態は大きいでしょう。

 どんなに仕事ができる女性であっても、専業主婦になってしまったとたんに「○○ちゃんのママ」としか呼んでもらえなくなります。すると、一転して今度はこれまでの仕事にとってかわって、いかに「良いママ」になりきるかが自己実現の目標になりかねません。先の文京区音羽の春奈ちゃん殺害事件に共感する母親たちの告白にもあったように、他の赤ちゃんよりも早く歩ける、しゃべれる、トイレトレーニングに成功するなどといったわが子の些細なことに競争的な喜びを感じる親も多いのです。

 ですから結果がランク付けされて「合」か「否」かはっきり示される「お受験」は、若い母親にとっては相手が手強いだけに挑戦のしがいも大きいのです。うまくいけば、自己陶酔に浸ることができ、共通一次で挫折を強いられた体験のある親には自分の心の傷を癒すことさえ可能です。もちろんこれらは子どもの成長の喜びというよりも、いびつな自己愛、自己満足にすぎません。

こうして、専業主婦たちは、それぞれの自己実現をかけて子育てに打ちこむことになりますが、だからこそ、子どもとのトラブルだけでなく、育児仲間との関係も「憂うつ」の種になってしまいます。そこでうごめく「心のぶつかり合い」は、まさしく他人には踏み込めない「心の闇」に見えるのです。

(尾木直樹著「こどもの危機をどう見るか」岩波新書 p133-140)

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人間は人問のなかでこそ育つ
 ──孤立した母と子をなくすために

 さくらんぼ保育園は、一九八〇年の五月から、歴史的な民家での〇歳児保育に終止符をうち、〇歳児室専門に設計した保育室に移った。

 これは、年々私たちのまわりにふえつづける障害児の出生にともない、なんとか早期治療を、と願って、終日太陽がはいり、涼しい風もはいり、広い、這い這いのできる檜材の床面と、段差のあるつくり、斜面の部分もある広い芝生、涼しい木かげをつくる林をもつ保育室が必要、と考えたからである。

 難点といえば、敷地の関係で、他の保育室と道路をへだてている点である。

 今までのように気軽に大きい園児たちがのぞいたりして接触できない点である。

 今までのO歳児室からは、庭の高い山をのぼりおりしてあそぶ大きい子どもたちの姿が目の前にみえた。ある保母は「O歳児が、竹馬にのる年長児がみえなくなるから移転には反対だ」といった。O歳児がすぐに竹馬をみて模倣するわけではないが、実はこうした子ども集団の中で育つことが、ヒトの子を人間に育てるのに重要なことだ、と皆考えているからである。そこで、首が座れば、毎日お天気が良いと散歩車で、大きい子どもたちのあそぶ庭に出かけてくる。そしてアヒル、にわとり、うさぎや、山羊、めんよう、ガチョウをみたり、コリー犬をみたり、大きい子どもたちに声をかけられたりしてかえってゆくのである。もっとも歩行が確立するとすぐ一歳児たちの部屋にうつってくるのだが。

 本園のさくら保育園の方も、環境の変化がすすみ、散歩に出られなくなったことから、園舎の引っこし問題が議題になり、第二さくら保育園を農村部のさくらんぼの地つづきに建設し、三歳児以上の子どもたちを毎日農村部につれてこよう、という話がおきたときも、大きい子どもたちがいなくなると小さい子の発達上好ましくない、という反対意見が出た。しかし止むを得ず実施し、その後は始終さくらから小さい子どもたちもさくらんぼや第二さくらにあそびにつれてくるようにしている。

 もう大部以前になるが、三鷹市にはじめてO歳児の専門保育所を建てたことが話題になった。私は実際に見にはゆかなかったが、外部からの見学者をなかに入れるときは、白衣にきがえるなど、危険な雑菌の侵入をおそれているときいた。ソビエトでも乳児の保育所の保母さんたちも白衣をつけ、見学者である私たちも白衣をつけ、病院風であった。

 私はこの考え方には反対意見をもった。ソビエトはともかくとして、そこにつれてゆくまでにこんだ電車にのる人が当時は多かった。無菌状態はむしろ抵抗力を弱めるとさえ考えたからである。長く車にのせる害を考えると、大きい乳児施設を一つつくるより、各保育所に二、三人でもよい、その弟妹たちのO歳児を預かってくれる方がずっとよく育つと思われる。

 埼玉でも初めて越ケ谷に公立のO歳児保育所が誕生、評判になった。何十人もの赤ちゃんが、玄関で、園のそなえつけのオムツにかえられて、ずらり並ぶ鉄製のべッドにねる。ところが週末になると子どもたちが神経熱を出す、と発表があり、だからO歳児の保育は無理だと、新聞にも出たことがある。私たちはさっそく職場全員で見学を申し入れた。

 どの部屋も厚いじゅうたんがしきつめられ、大きい玩具が一杯揃っていたが、ほとんどが密閉された状態の孤立した部屋で、窓が高く、庭にも直接出られないようになっていた。少し大きくなった子どもは、なんとか机や椅子を窓ぎわに運んで外をみようとしていた姿をみて、私はとても心がいたんだ。

これでは週末に熱を出すのもあたりまえだと感じ、こうした多額の金をつかってのコンクリート建ての病院風の〇歳児専門室には私は反対意見を表明したのである。子どもの食事をする椅子も、三対一という保母定数からか、三人の子どもの椅子が横につながっていて、保母はそれに向かいあって食事をたべさせている。一人ひとりの子どもが自分の椅子を押したり、ひっぱったり、子ども同士向かいあったりの自由はなかった。

 その他、私は病院付属保育所なども最近よくみるが、子育ての仕事が第一義ではないにしても、もっとも裏側の、日もあたらない一室、なかには地下室をO歳児室にあてている病院(しかも大きい国立なり公立病院である)が多く、安全というたてまえから、子どもの背丈よりはるかに高い柵で外とくぎり、子どもたちは終日牢に入れられている感じのところが多い。なんという無知、なんという手前勝手であろうか、と、経営者側もだが、そこに働く大人たちにも私はいきどおりを感じてしまうのである。

 ものがいえない乳児である。その子どもたちが、口にはいえないが目で訴えていないだろうか。自分の要求をきちんと主張できない乳児や障害児の、その心の中が察しられない大人たちに対し、私は子どもたちにかわって訴えつづけなければならないのだ。

 最近、上野動物園のパンダが、多額の金をかけて庭をひろげてもらうことになったときく。
 政治家が、おどろくほどの多額な土産品との交かんでおくられたパンダも、次々と死なせてしまったうえでの反省として、遊び場が小さがった、というわけである。

 パンダではなく人間の子どもには沢山沢山の犠牲者が出ているではないか。しがし子どもの育成の責任はその子の親にある、という見方が支配し、共同の大人たちの責任で子育てをする、という人間社会の歴史的なしきたりはもうほとんどみえなくなってしまった。子育てに失敗したり、疲れたりした父母たちと子どもの悲劇は毎日のように報道される昨今となってしまっている。この狭い農村都市深谷でも、ごく私たちの身近なところに二件、母子心中がおこってしまった。

 とびおり自殺とガス自殺であった。どちらも二人の幼い子どもを道づれにしてしまったのであった。

 よくよくのことであったろう。すぐ隣りのアパートの人たちにも相談しながったという。

 今から三十年前、私の担任の子どもの家も、一家九人心中をしたのであった。
 神式景気といわれた朝鮮戦争の特需の景気も、戦乱がおさまると同時にあえなくきえ、そのしわよせは下町の零細企業にまずおしよせた。町工場の経営者のその一家は、双子に年子、双子と七人の幼い子どもがおり、二人が私の勤務する保育園に入所していた。若い母親はさらにその下の小さい子を背負い、いつもおくりむかえをしていたが、私たちが若かったせいか、なにも相談をしてくれなかった。

 その数日前、体重測定をした折、シャツの破れがひどく、つくろいの糸もきれ、どこに手を通してよいやらわからないふうであったことが職員間で話題になり、ひそかに胸を痛めてはいたが家庭訪問にまでいたらなかった。

 朝おきてラヂオをつけたとき、そのトップに一家の心中が報道され、主任の先生ととるものもとりあえずがけつけたときは、近所の人たち、報道人などの大変な人たちであった。
 年の下の二人だけは青酸カリの量が少なかったらしく一命をとりとめたが、両親と五人の兄姉はすでに死んでいた。
 米びつはカラであったという。

 私は自分の非力を心からはじ、わびたがもうおそいことであった。幸い二人の幼い子どもたちには世間がらの大きい同情が集まり、親せきの人たちが引きとって育ててくれることになったが、すでにこの頃がらもう核家族化はすすみはじめていた。

 前頁の写真は、最近私たち北埼玉保問研の仲間たちで訪れた、大阪の国立民族学博物館に展示されている木彫である。

 母系社会を今に、というつもりはさらさら私はもってはいないが、人間の子どもは、生まれおちるとすでに、人間の社会の中でこそ育ってきたし、そこに助け合いがあったと思われる。孤立した母、と子、を私たちはなくしたい。このおもいが、今までの保育所づくりの芯であった。これは、私の担任の子どもの家の心中事件の反省もあってのことである。
(斉藤公子著「子育て」労働旬報社 p102-108)

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 生まれたばかりの子どもは、手足をのばしたり、動かしたりする必要がある。長いあいだ、糸玉のようにちぢこまっていた麻痺状態から手足を解放する必要がある。なるほど、子どもは手足をのばさせてもらえるが、それを動かすことをさまたげられる。頭も頭巾でしめつけられる。まるで、子どもが生きているように見えるのを、人は心配しているようだ。

 そこで、大きくなろうとしている体の内部のカは、もとめている運動にたいして、うちがちがたい障害をみいだす。子どもはたえずむなしい努力をして、力をつかいはたし、そのため発育がおくれることになる。産衣にくるまれているよりも母の胎内にいたときのほうがそれほど狭くるしい思いをせず、拘束もされず、しめつけられもしなかったのだ。これではなんのために生まれてきたのか、わたしにはわからない。

 子どもの手足を動けないようにしばりつけておくことは、血液や体液の循環を悪くし、子どもが強くなり大きくなるのをさまたげ、体質をそこなうだけのことだ。こういうむちゃな用心をしないところでは、人間はみな大きく強く、均整のとれた体をしている。子どもを産衣でくるむ国には、せむし、びっこ、がに股、発育不全、関節不能など、あらゆる種類のできそこないの人間が、うようよいる。

人は、自由な運動によって子どもの体がそこなわれることを心配し、生まれるとすぐにかれらをしめつけることによって、体をそこねようとしている。かたわをこしらえまいとして、好んで手足のきかない人間をこしらえている。

 こういう残酷な拘束が気質や体質に影響せずにすむだろうか。子どもたちが感じる最初の感情は苦痛の感情である。子どもはもとめているあらゆる運動にたいして、それをさまたげるものをみいだすにすぎない。鉄鎖につながれた罪人よりもっとみじめなかれらは、むなしい努力をし、いらだち、叫ぶ。かれらが発する最初の声は泣き声である、とあなたがたは言われるのか。まったくそのとおりだと思う。あなたがたは子どもが生まれたときからかれらに逆らうようなことをしている。

かれらがあなたがたからうけとる最初の贈り物はかれらの身をしばる鎖だ。かれらがうける最初の待遇は責苦だ。声のほかには自由になるものをもたないかれらは、どうしてそれをもちいて不平をいわずにいられよう。かれらはあなたがたがあたえる苦しみにたいして泣き叫んでいるのだ。そんなふうにしばりつけられていたら、あなたがたはかれらよりもっと大きな声をあげて叫ばずにはいられまい。

 こういう不条理な習慣はどこから生じたか。自然に反した習慣からである。母たちがその第一の義務を無視して、自分の子を養育することを好まなくなってから、子どもは金でやとった女に預けなければならなくなった。そこで、ぜんぜん愛情を感じない他人の子の母になった女は、ひたすら骨の折れることをまぬがれようと考えた。子どもを自由にしておいては、たえず見はっていなければならない。

ところが、しっかりとしばりつけておけば、泣いてもかまわずに隅っこに放りだしておける。乳母の怠慢の証拠になるようなことさえなければ、乳飲み子が腕や足を折ったりするようなことさえなければ、あとは子どもが死んでしまおうが、一生病弱な人間になろうが、どうでもいいではないか。そこで、子どもの体を犠牲にしてその手足を保護し、あとはどんなことが起こっても、乳母には責任がないということになる。

 子どもをやっかいばらいして、陽気に都会の楽しみにふけっているやさしい母たちは、そのあいだに産衣にくるまれた子どもが村でどんな扱いをうけているか知ってるのだろうか。ちょっとでもことが起こると、子どもは古着かなんかのように釘にひっかけられる。乳母がゆうゆうと用をたしているあいだ、みじめな子どもはそうして釘づけにされている。こういう状態で見られた子どもはいずれも顔が紫色になっていた。かたくしめつけられた胸は血液の循環をさまたげ、血は頭にのぼる。そしてみんなは子どもがたいへん静かになったと思っているが、子どもには声をあげる力もなくなっていたのだ。そんな状態でどのくらいのあいだ子どもが無事でいられるものか知らないが、長いことそうしていられるかどうか疑問だ。思うに、こんなことが産衣のもっとも大きな効用の一つなのだ。

 身うごきができるようにしておくと、子どもは好ましくない姿勢をとり手足の健全な発育を妨げるような運動をする、と主張する者がある。これもわたしたちのあさはかな知恵からくるくだらない議論の一例であって、どんな経験によっても確認されていることではない。わたしたちよりも分別のある民族のあいだでは、子どもは手足を完全に自由にすることができる状態で養育されているが、そのたくさんの子どものなかの一人としてけがをしたり、かたわになったりする者は見られない。子どもは危険になるほどはげしい運動をすることができない。たとえはげしい運動をする姿勢をとったとしても、すぐに苦痛を感じて、やめてしまう。
(ルソー著「エミール 上」岩波文庫 p34-37)

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◎「子ども集団の中で育つことが、ヒトの子を人間に育てるのに重要なことだ」と。

◎「他人の子の母になった女は、ひたすら骨の折れることをまぬがれようと……子どもを自由にしておいては、たえず見はっていなければならない」と。
……21世紀の日本ではどういう現実の中で子どもが育ってられているのか。子どもが親を、親が子どもを殺す……こうした犯罪が小泉政治とともに急増している。