学習通信060907
◎「ルールなき資本主義」……

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 つぎに、職場の現状をどうとらえるかについて、報告します。
 日本は、「ルールなき資本主義」といわれるように、もともと人間らしい労働のルールが、解雇規制、残業規制、有給休暇、雇用保険、男女平等、均等待遇など、どの問題をとってもないか、あってもごく弱いという異常な特質を特徴としています。

 これにくわえ、一九九〇年代後半から、財界・大企業による大リストラの推進と、それを後押しする自民党政治の「新自由主義」の経済政策のもとで、労働と雇用のかつてない悪化がすすみ、日本の社会と経済の前途を危うくする事態をひきおこしています。
(「職場問題学習・交流講座 志位委員長の報告」前衛06年8月臨時増刊号 p14)

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労働基準法の抜本的改正についての提案
 人間らしい労働と生活を取り戻すために
  一九九二年二月二十八日日本共産党

 過労死。人間らしく生き家族の幸せのために働いているはずが、ある日突然帰らぬ人に──残された家族はなんと無念なことでしょう。長時間・過密労働で、働き盛りの労働者の二人に一人が過労死の不安におびえています。ある銀行員の妻は、「私は過労死相談室の電話番号を控えるようになった。銀行よ、夫を殺すな」と新聞への投書で訴えています。こんな国は、世界のどこにもありません。

 日本の労働者は、一年に平均二千数十時間、旧西ドイツやフランスよりおよそ五百時間近くも長く働かされています。

 欧米では、法定の労働時間も八〇年代半ばには週四十時間が主流になりました。ところが日本では、一九四七年制定の労働基準法で四十八時間とされたあと、ようやく四十年後の八七年の「改正」で四十時間が法文化されましたが、実施は先送りされ、九一年度から四十四時間になったばかりです。しかも、労働基準法に残業の上限規制がないために、長時間の残業が横行し、四十四時間というこの法定労働時間は、ことばだけ。過五十五時間が当たり前という職場が少なくありません。

 年次有給休暇も、欧米では法律の規定も三週から五週が普通で、労働協約では四週から六週、長いバカンスを楽しんでいますが、日本では基準法の規定はようやく最低十日(三百人以下の事業所は八日)になったばかりです。

 世界の時短の流れから、日本だけが取り残されてしまいました。
 これにくわえ、自動車工場などでは、作業中はトイレどころか汗もふけない秒単位の労働を強いられています。諸外国にその類をみない超過密労働です。欧米の労働者・労働組合からは、「あらゆるゆとりの吸収による労働強度の増加」「エラーを許さず、ほとんど息抜きの余裕のない生産システム」と批判されています。この過密労働は、下請けの労働者にいっそうひどい形でもちこまれています。

 この問題では、国の政治が重大な責任をおっています。自民党政府は、国際的な労働基準となるILO(国際労働機関)の労働時間、休日・休暇関係の条約を何ひとつ批准していません。一日八時間労働と残業の上限を定めることをもとめた七十三年も昔のILO第
一号条約さえ批准していないのです。

 また財界は、日本の賃金は世界最高水準だと宣伝しますが、実際にその国でどれだけの商品を買えるかという購買力平価で換算すると、実労働時間当たり賃金はアメリカや旧西ドイツの三分の二にすぎません。

 長時間・過密労働と低賃金を土台とした日本の大企業の世界市場への進出は、世界中から「共通のルールがない」「不公正貿易」という非難を浴びています。

 労働基準法は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とした「憲法第二五条」にもとづき、第一条で「労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない」と定めています。過労死、一日二時間半しかない自由時間、深夜・不規則勤務、家族そろっての夕食は週二〜三回、単身赴任──世界第二位の経済カにふさわしくないどころか、「人たるに値する生活」からさえほどとおいのが、日本の労働者の状態です。

 制定後四十五年間、基本的には手つかずのままで世界から大きくたちおくれた労働基準法を抜本的に改正することは、緊急の課題になっています。

 日本共産党は、これまでも労働時間の短縮、残業規制など、労働基準法の改正を要求してたたかい、最近の国会でも、昨年六月の参院決算委員会で上田副委員長が、今年二月の衆院予算委員会で不破委員長が、サービス残業や長時間労働、超過密労働の実態を取り上げ、政府に労働基準法の抜本的改正をせまってきました。日本共産党は、人間らしい生活を営むための最低労働条件をすべての労働者に保障するために、あらためて労働基準法と関係法の抜本的改正を提案するとともに、すべての労働者とその家族、すべての労働組合に、広範な討論をこころからよびかけます。
(「人間らしい労働と生活を」日本共産党ブックレット p4-7)

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内政―「ルールなき資木主義」からの脱却

 今日の本題である経済の問題についていいますと、私たちは、日本の資本主義というのは、国民の生活や権利を守るルールがなさすぎるといいますか、弱すぎるといいますか、これが非常に大きな特徴だと考え、現状を「ルールなき資本主義」という言葉で呼んでいます。

 この状態から脱却して、せめて世間なみのルールのある社会のしくみ、経済のしくみをつくろうではないかというのが、私たちの大きな改革の目標です。

 このいびつさについて、一年前(九七年)の赤旗まつりという私たちのお祭りのときでしたが、私は、あだ名をつけたことがあります。外交・安保面でのいびつさは「アメリカ基地国家」──米軍基地がすべてということです。内政の面でいうと、「大企業・ゼネコン国家」と名づけました。今年の演説では、それだけでは足りなくなって、「大企業・ゼネコン・大銀行国家」と呼びました。憲法では国民が主役になっていますが、実態としての主役は違う。そこらあたりを改革しようというのが私たちの大きな改革の基本方向なんです。

 よく、「共産党は大企業を敵だと思っているのではないか」という方がいますが、私たちは、そういう立場ではありません。私たちの改革では、大企業の横暴、特権のいびつさを直そうというのが目標で、日本経済で大企業がはたす役割は否定しないし、経済のまともな発展の一翼をになってほしい、と考えています。その立場からも、大企業の横暴、特権のいびつな現状を直すことが大事で、このことを経済改革の目標にかかげてずっとやってきました。

 日本の資本主義の特別のゆがみ、いびつさには、大きくいって二つの面があります。

 きょうは経済界のみなさんが多いので恐縮ですが、まず第一に、企業の行動のいびつさがあります。それから、第二に、政府と経済の関係にかかわるいびつさがあります。

(その一)企業の活動の面での民主的なルールづくり

 企業の活動に世間なみのルールがない──経済界のトップの論文から
 まず企業の行動についていうと、六年ほど前に、経済界のトップの方が、ある雑誌に論文を書きました。それを読みましたら、立場はまったく違うのですが、私たちの考えと非常によく似ている。その方は、いまは現役を退いていますが、論文の内容は私たちはいまも拝借してよく紹介します。それは、当時ソニーの会長だった盛田昭夫さんが、『文芸春秋』九二年二月号に書いた「『日本型経営』が危い」、サブ見出しは「『良いものを安く』が欧米に批判される理由」という文章です。

 自分が、電機関係の経営のトップとして、ヨーロッパにゆく、アメリカにゆく。その国の政府とのつきあいもあれば、財界とも会う。そうやってつきあってゆくと、日本でこれがいいと思ってやってきたことを、このままやっていると世界で相手にされなくなる=Aそういう危機感から、現状批判と改革論を提案されたのです。

 経営トップで財界の方ですから、われわれとはずいぶん違う話をされるのだろうと思ったのですが、具体的に読んでみるとそうではありませんでした。

 たとえば盛田さんは、日本の企業の活動について、これは世界に通用しない≠ニいう問題点を六つほどあげています。

 一つは、従業員との関係で、まず労働時間の面で欧米と格差が広がってしまった。イギリス、ドイツ、フランス、アメリカの労働時間と比較して、大きな格差がついているということです(盛田さんは、一九八九年の年間総労働時間の比較として、日本の二千百五十九時間にたいして、アメリカ千九百五十七時間、旧西ドイツ千六百三十八時間、フランス千六百四十六時間という数字をあげています)。いまは不況ですから日本の労働時間は平均的に減っていますが、大もとの関係では、いまもこの格差がつづいています。

 ニつ目は、従業員にたいする成果の配分──賃金の問題になりますが、この割合が欧米とくらべてたいへん悪い(盛田さんがあげているのは、一九八〇年〜八四年の五年間平均の労働分配率で、日本の七七・八%にたいして、アメリカ八〇・二%、旧西ドイツ八八・八%、フランス八九・二%という数字です)。

 三つ目は、株主の配当が非常に低い。

 四つ目は、取引先・下請け企業との関係が対等・平等でない。「セットメーカーと部品供給企業の関係を例にとると、欧米では両者の関係が対等であるのに対して、日本では一般的には長期継続的取引が行われて両者に安定的な関係が築かれる半面、納期や納入価格等の取引条件の面でセットメーカー側に有利なように決定されることが見受けられます」(盛田)。ずいぶん遠慮がちな言い方ですが、要するに親企業が下請け企業をいじめすぎている、ということでしょう。

 五つ目が、地域社会との関係で、「日本の企業は地域社会への貢献に積極的とは言いがたい」(盛田)。

 六つ目に(これは、改革提言の部分でですが)、盛田さんは、「環境保護および省資源対策に十分配慮しているか?」「環境、資源、エネルギーは人類共通の財産であることを強く認識するべきではないか」という問題をあげています。やはり、日本企業が環境の汚染や破壊に無関心である
ことを、痛感しているのでしょう。

 このような問題点をあげ、ここを解決しないと、いくら「よい製品を安く」つくっても、世界から「ルール破りだ」と叩かれるだけ、そこをなんとかしないと、世界のなかでやってゆけなくなる、こういうことで一連の改革の提案をしていました。

 盛田さんのこの提案は、私たちが「ルールなき資本主義」から脱却し、国民の利益にかなうちやんとしたルールを確立しようではないか≠ニいっていることと、ほとんど合致しています。

ルールづくりは社会全体のしくみの改革が大切

 盛田さんの議論でもうひとつ共感したのは、そうした改革を、ではどのようにやったらよいのか、ということについての考え方の問題です。「日本の現在の企業風土では、敢えてどこか一社が改革をやろうとすれば、その会社が結果的に経営危機に追い込まれてしまうような状況が存在しています」(盛田)。まわりがやらないのに自分だけがやったら、かならず失敗してしまうということです。実は私は、この文章を読んだあとでソニーの職場の労働者に会ったとき、「盛田さんはこんな論文を書いているけど、会社はどんな調子?」と聞きました。「いやぜんぜん変わってません」というのが答えでしたが、やはり、一社では無理だということですね。

 一社では無理だから、社会全体のしくみとして変えなくてはならない。盛田さんの主張では、ここで提案しているような「日本企業の経営理念の根本的な変革は、一部の企業のみの対応で解決される問題ではなく、日本の経済・社会のシステム全体を変えていくことによって、初めてその実現が可能になる」。一社ではできない改革も、こうすればできるようになる、ということです。

 この意見は、私たちが、政治と社会の側できちんとしたしくみとルールをつくり、これを社会的に守ってゆく体制をつくろうではないか、といっていること──大企業にたいする民主的規制──と、いわば方法論がよく似ていることを痛感しました。

 このように、私たちが感じていることを、ぜんぜん別の側にいる企業のトップの方が同じように感じている。私は、そのことをたいへん印象深くくみとりながら、この論文を読みました。

 率直にいって、いまの国会は「規制緩和」ばやりです。もちろん、官僚的な古い規制を撤廃したり直したりすることは当然のことですが、日本では、いまあげたような、企業の行動にかかわるいちばん大事な問題で、社会的コントロールが弱いのが実態です。欧米にはあっても日本にはルールがないという問題がいっぱいある。

残業時間ひとつをとっても、その上限が法律で決まっていない。そうした問題について、世界を見渡しながら、日本の資本主義のルールづくり、世界に通用するルールの確立を、企業の活動の面でも考えたいというのが、私たちが考えている民主的改革のひとつの柱です。
(不破哲三「日本共産党は、民間企業に何を期待し、何を約束するか」私たちの日本改革論$V日本出版社 p14-19)

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◎「私たちが、政治と社会の側できちんとしたしくみとルールをつくり、これを社会的に守ってゆく体制をつくろうではないか、といっていること──大企業にたいする民主的規制」と。