学習通信060911
◎父親の役目……

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生活 ファミリー
勉強に スポーツに
熱血パパの落とし穴
一度引く度量必要

 このごろ少し父親が目立ちすぎないか。偏差値の高い学校へと子どもの尻をたたいたり、あるいはスポーツの世界で前面に出てきたりする「熱すぎる父」たちだ。父親の子育て参加は重要とはいえ、熱心さも度を越すと逆効果という専門家の声に耳を傾けてみた。

《憎しみ持つ恐れ》
 「そうなんです。最近は三十〜四十代の父親が、小中学生である子どもの勉強にすごくかかわっている。ほとんどの父親が自分で勉強を教えているというアンケート結果もある」

 変化を肌で感じているのは教育評論家で法政大教授の尾木直樹さん。中学受験に勝つためのノウハウや合格家族の様子を特集した雑誌が売れる現象も、背景に焦る父親の姿が見えるという。「格差社会での勝ち組志向というか、『うちの子だけは負け組にしたくない』という父親が、真剣になって中学受験の手助けをしている構図ですね」

 義務教育の段階から学校を自由に選べる制度が生まれ、私立中学への進学が東京都心ではご三〜四割に達するなど教育の多様化が進んでいる。「ぼやぼやしていられない雰囲気が、母親に加えて父親も出番だと意識させている」

 だが父親が子どもに勉強を教えるのは、時に危険を伴う。「家族団らんとは無縁で、父は塾講師の役割を担うことになる。しかも過大な期待を子にかける。結局ぶつかり合って、互いに憎しみだけが残る恐れがある」。頻発する親子の事件の根っこに同様の問題があると尾本教授は分析する。

《東大病の父》
 引きこもりの青年らの自立を支援する共同生活寮「はぐれ雲」(富山市)を主宰する川又直さんは、都立高校時代に東大受験を迫る父親に悩まされた経験がある。もう三十数年前のことだ。

 「生き方はいくらでもあるはずなのに高校教師だった父は東大一辺倒。『うちの学校には勉強に熱中してプロレスの力道山さえ知らない生徒がいる。おまえもそれくらい勉強しろ』って説教されたことも」。幸い母親が「力道山を知らないなんて非常識よ」と言ってくれたおかけで救われたと振り返る。

 私立の中学受験のため、夏休みに毎日十数時間勉強する小学生の話などを聞くたびに「心は育っているのか」と心配になる。「まだこの社会は受験戦争をやっているのか。おれたちの時代で終わったと思っていたのに。競争をあおるなといいたい」。川又さんはぶぜんとした表情だ。

《手放す見極めを》
 教育に熱心な高学歴の父親には大きな落とし穴がある。子どもは自分と同レベルの大学に入れるだろうという思いこみだ。もうひと頑張りすれば、自分もできたのだから子どももできるはずと「まじめに取り組んでしまう」と東京成徳大子ども学部長の深谷昌志さん。その結果、子どもをつぶすことになりかねない。

 カギを握るのは父親の賢い軌道修正だ。自分の子をよく見て、例えば難関大学への進学が無理だと思ったら「すぐに手を引く」。違った選択、生き方を認めてやることが子どもを元気にする。「とにかく、じっと見つめる。平凡だが何か凝っていること、興味が持てることがあれば、ほめて支える」と語る。

 もう一つ欠かせないのは子どもをある時期がきたら手放すこと。「特に今の高校生はやる気や社会常識、収入、学力など何でも父親に勝てないと思っている。だから父親が旗を振ると反抗せず、そのまま付いて来る。親が意識して手放さないと依存関係が続く」。子どもが十八歳になったら、学校なり会社なり外部に子どもを任せ、親は関与しない方が賢明と助言する。

《点数主義の問題》
 スポーッの世界でも勝負にこだわる父親らの存在が様々なゆがみを生みかねない。「スポーツは『良い子』を育てるか」の著者でスポーツジャーナリストの永井洋一さんはアマチュアのサッカーチームで小学生らを教えている。目にするのは、地域での優勝にこだわってチームを移籍する子どもたち。プロ選手になるわけでもないのに、なぜ、そこまでするのかと首をかしげる。

 「親は熱心に強いチームに移った方がいいと勧めるかもしれないが、移籍により失うものは大きい。同じ学校で力を合わせてきた友人との思い出はどうなるのか。勝つためには何でもやるという考え方は、子どもらしい感性も奪うことになる」と手厳しい。

 のびのびと楽しみながら「良き人間」を育てるはずのスポーツが点数主義、成績主義で余裕のないものになりつつある。父親はやはり一歩引いた方がいい。(編集委員 須貝道雄)
(「日経新聞夕刊」2006.9.8)

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思春期の子とどう向き合う
子を追い詰めていないか
親子の距離感が大事

 子どもによる相次ぐ「親殺し」のニュース。「自分もいつか、と不安になる」(東京、主婦41歳)という声が少なくありません。いま親子に何か起きているのか、どうしたらいいのか……。教育関係者や子どもたちの話を聞いて考えます。遠藤寿人記者 小松幸枝記者

 警察庁によると昨年、少年が主犯の刑事事件のうち、少年の実父母が被害者となった殺人・殺人未遂事件は「17件」。前年に比べ倍増しました。

 「犯罪白書」によると少年の刑法犯検挙数は減少傾向にあります。そのなかで「親殺し」が増加しているのです。

 最近も、▽北海道稚内市の母親殺し事件(8月)では、高校一年の長男(16)が友人に30万円で殺害を依頼▽奈良県田原本町の医師宅で高校一年生の長男が放火、全焼し妻子3人が死亡した事件(6月)──など。
 事件の続発は親の間に衝撃を広げています。

うぜ─のは親
 同じ年代の子どもたちはどう見ているのか……。
 「自分自身は考えたことないが、親殺しをした子の気持ちは分かる。やりたくない勉強を押しつけられたら家出するよ。勉強しろとか、『勝ち組』『負け組』とかいうのは父親のほうだ。うっぜ!」(私立高校一年男子)

 東京の定時制高校2年の女の子も、「殺すのは良くないけどその子に親が何をしたのか……。息苦しくなって衝動でやったのなら分かるような気がする」と話します。

 「母を殺したいんです」──。「NPO法人非行克服支援センター」(能重真作理事長)に先日、16歳の女の子が電話をかけてきました。
 女の子は、高校を辞めたいと言ったことで怒った母親ののど元に包丁をつきつけました。

 能重さんはよく話を聞き、「おとなって凝り固まっちゃって変わるのが難しい。あなたの方が賢くならなくちゃだめ。そういうお母さんとどうやってつきあっていくか」と諭すと女の子は「分かりました」と電話を切りました。

 「支援センター」には、こうした相談が後を絶ちません。
 子どもにかかわる専門家たちは、事件をどう見ているのか。
 子どもにとってかけがえのない親を殺さざるを得ない。そこまで子どもが追い詰められている──と指摘するのは前出の能重さん。

 「何が子どもを追い詰めているか、勉強だったり、いくつになっても働こうとしないことだったり個々に違うが、子どもを追い詰めているのは親だけではない。問われているのはおとなの子ども観です。子どもを人として尊重するという姿勢で向き合うことが必要」といいます。

子のプライド

 教育評論家の尾木直樹さんは、「勝ち組」とされる父親たちの間でここ数年起こっている変化に注目しています。

 「家庭で毎日子どもの勉強をみる父親が劇的に増えているんです」
 成果主義賃金が職場に浸透し「勝ち組」「負け組」と二極化するなか、「自分の子を負け組にしたくない」と考える父親が激増している。小泉構造改革の「教育販」で、学校選択が自由になり、学校を選ぶのにも「家庭の自己責任」になったこと──などが背景にあると分祈します。

 「成長の過程で乗り越えるべき対象である父親が、中学、高校になっても勉強を教える。できないと、怒鳴ったり殴ったりする場合も。思春期の子どもの最も大切なプライドに打撃をあたえていることに気がつかない。尋常じゃない」と。

 尾木さんは、このことを「敏感」に反映しているのが、昨年来、発刊が続く子育て月刊誌だといいます。
 『プレジデントファミリー』24万部、『日経キッズプラス』6万部、『アエラウィズキッズ』8万部の売れ行きです。
 『プレジデントファミリー』は、父親をターゲットに「受験に勝つ親子の40日間夏休みスケジュール」「頭のいい親子の勉強法」などを連打しています。

 思春期の子どもにどう向き合うのか。尾木さんは「親子関係で思春期は大変な時期だという認識をもつことが一番大切」と強調します。「子どもの人格、人権を尊重する。プライドを傷つける行為は絶対にいけません。父親の弱点、失敗談を話してください。そして、子どもとの距離感が大事」といいます。

 能重さんはこう指摘します。「親の思いを優先するのではなく、親と子の思いを通い合わせることが大切です。子どもの人生は子どものもの。子どもがどんなふうに生きたいのか、将来どうしたいのかを尊重してサポートする。そのためにも親だけで問題を抱えないこと。同じ課題を抱えた親同士が、『非行』と向き合う親たちの会などで、悩みを共有し支え合い助け合うことも大事です」
(「しんぶん赤旗」日曜版 2006.9.10)

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二人母親状態≠脱し
今こそ父性を発揮しよう。
京都大学霊長類研究所教授
正高信男

 キレる子どもが育つのは、きちんと子育てをしていないからという批判があるが、子育てでの親の努力は欧米に比べ遜色はない。

 イジメ、暴力など、さまざまな問題、事件を子どもは起こすが、引きこもりという現象は欧米にはない。これは父性の力が足りないからとわたしは感じている。

 恐れ、危険に満ちた外界から守り、安全基地の役割を果たすのが母性で、外の世界に出て行くことを後押しし、社会のルールを教えるのが父性である。もちろん、母親が父性を発揮することもあるが、母性と父性、相反する力をバランスよく子どもに与えていかなくてはいけない。

 高度成長期に入るまでの日本では、子どもはいろんなおとなと接する機会があり、社会性や多様な価値を学んだ。しかし核家族化が進み、地縁社会が崩壊し、親と教師以外のおとなと話すことがなくなり、そうした機会が減った。

 最近は、運動会や授業参観など、子育てに参加する父親が増えているが、二人母親状態≠ニいう家族も見られる。家の外へ連れ出し、自然の力を体験させ、つらい思い、悲しい思いをさせる。父親にはこうした役割を担ってほしい。

 日本の親は、優しさ、思いやりのある人間に育ってほしいと願うが、欧米では、自立を促し、公正であることを子どもに求める。踏み越えるべきハードルがあるため、いらだちを感じ、それを周りの子どもに向けるため、欧米の子どものほうが攻撃性が高い。

 いい子≠ノ育てようとする日本では、子どもが親の顔色を読む。そのツケが引きこもりであり、困難を乗り越える力が足りない子どもの増加につながっている。

 社会のルールを教え、自立を後押しするる父性∞父親力≠ェ、今こそ求められている。(談)
(「週間 ダイヤモンド」2006.9.9 特集「父親力」」ダイヤモンド社 p35)

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ヘーゲルの家族論の意義と問題点

 以上から、ヘーゲルの家族論の意義と問題点を整理しておきたい。

 第一に、ヘーゲルの家族論は、近代的家族の思想を的確に表現したものである。一九世紀初めのドイツでは、旧来の家父長的な「家」制度がくずれ、近代的な「家族」制度が成立しつつあった。「家」制度では、家父長が妻と子どもと奉公人を従え、一族の土地や財産などの資産を管理している。婚姻はあくまでも「家」を保持するためのものであり、性愛とは別のものとされた。

そして、「家」が封建社会の経済的・政治的な制度の基礎となり、諸身分を構成し、国家を構成するものとされた。そのような「家」制度は、それが基礎となっていた封建的領主制や封建的国家体制とともにくずれていった。それに対して、新興階級であるブルジョアジーや教養階級を中心に新しい「家族」制度が成立した。それは、「プロイセンー般ラント法」などによっても制度化された。これが、まさにヘーゲルの描いた「家族」であった。

 第二に、ヘーゲルの家族は、両性の同意による婚姻、一夫一婦制、夫婦と子どもからなる小家族、男女の性的役割分担、子どもの教育権、離婚の権利など、近代家族の特徴をそなえている。しかし、近代家族だからといって、男女が平等になったわけではない。ヘーゲルの議論によれば、家族を代表し、家族の資産を管理するのは、男性である。ここにすでに男女の差別がある。

また男女の性的役割分担において、社会的な労働にたずさわって収入を得るのは男性である。女性は、子どもを生み育て、家族の世話をする仕事に閉じこめられて、経済・政治・文化・学問などの社会的活動から排除されてしまう。ここにいっそう重大な男女差別がある。

ヘーゲルは、男性と女性の資質や能力には生まれながらの差異があるかのように言う。しかし、男女の資質や能力に差異があったとしても、それは社会的活動への参加の有無や程度の差異の結果とも考えられる。男女の資質や能力の差異を理由として女性の社会参加を排除すれば、女性差別はいっそう広がってしまうであろう。

 第三に、家族を代表し、「家族の長」として市民社会に参加するのは男性である。そのことは、女性は市民社会のさまざまな活動の場から排除されるということである。ヘーゲルが重視する「職業団体」も女性を排除したものであろう。また、ヘーゲルは、市民社会の厳しい労働が人間を教育し、陶冶すると言う。このことは、女性にはそのような市民としての陶冶の場が保障されないということである。そのような陶冶の場を与えないで、女性の社会的能力は低いと言うのは明らかに偏見であろう。

 また、市民社会と国家との関係では、参政権の問題がある。女性が市民社会の構成員とならないということは、国家の政治にも参加できないということである。しかもヘーゲルは、市民社会の代表が議会に参加するべきだと考えたが、それは「職業団体」の代表制などであって、選挙制度の主張ではなかった。その意味でも、女性の政治参加には重大な障害がおかれていたと言うべきであろう。

 以上のように、ヘーゲルにおける家族と市民社会は、確かに近代的ではあったが、まさに近代的な男女の役割分担と女性差別を含んだ体系でもあったのである。
(牧野広義「第三章 マルクスのおける家族と市民社会 ──ジェンダーと史的唯物論」学習の友社 p73-74)

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父親の役目

 さいきんとくに母親の育児責任がやかましくいわれ、子どもの「非行」や事故、健康から学校の成績にいたるまで、母親の責任であるかのようにとりあげられています。子どもに関しては、まだまだ父親の影はうすいようです。

 子どものしつけというと、なんだかそれは母親の専売特許として理解される風潮がまだありますが、子どものしつけ、とりわけ働く者の家庭におけるしつけには、父親の役割を欠くことができません。子どもの家庭教育について大切なことは両親の考え方の一致です。

 子どもには、父親も母親も必要です。今日、一般的に家庭教育といわれているしつけは、母親偏重でこまかすぎます。父親がもっと育児責任を自覚し、育児に参加することによってとかく口うるさい日常のこごとばかりつづくといったしつけから、一歩、前進するでしょう。つまり、子どもの成長の基本線と将来への方向づけをふまえた、おおまかではあるけれどきちんとした目標がとくに父親によって語られ、示されることがのぞましいように思われます(もちろん、母親によってされてもいいのですが)。

 社会のなかでの父親のはたす役割や、働く者としての父親の生き方を、子どもは子どもなりに観察し、せいいっぱい理解しようとしています。そして理解できたことは、自分のモラルとして身につけようとします。そこに、父親にたいする尊敬や愛情がつちかわれていくのです。

 さいきんは、残業や労働強化で帰宅がおくれたり、休日にも子どもと一緒に遊んでやれないなどの問題がおきていますが、それだけに父親の役割はかえって重要になっているといってもいいでしょう。

 働く者としての芯のとおった父親の生き方(共働きならもちろん両親そろって)を軸に、両親の一致した考え方と一貫した生活態度はしつけに欠くことのできないもののひとつです。
(近藤・好永・橋本・天野著「子どものしつけ百話」新日本新書 p20-21)

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◎「問われているのはおとなの子ども観」「親の思いを優先するのではなく、親と子の思いを通い合わせること……。子どもの人生は子どものもの」と。