学習通信060915
◎直接には私的労働……

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 諸商品の交換価値はこれらの物の社会的機能にほかならず、これらの物の自然的性質とはなんの関係もないのであるから、われわれはまず、すべての商品に共通した社会的実体とはなにか? と問わなければならない。

それは労働である。

ある商品を生産するためには、一定量の労働がそれに投下されたり、費やされたりしなければならない。

しかも私はたんに労働というだけではなくて、社会的労働と言おう。自分自身が直接つかうために、つまり自分で消費するために、ある品物を生産する人は、生産物をつくるが、商品をつくりだすのではない。

自給自足の生産者として、彼は社会とは没交渉である。ところが商品を生産するためには、人はたんになんらかの社会的欲望をみたす品物を生産しなければならないだけでなく、彼の労働それじたいが、社会の支出する総労働量の不可欠の一部分をなしていなければならない。

彼の労働は、社会内部の分業に服さなければならない。それは、他のもろもろの分業がなければなりたたないし、またそれはそれで、他のもろもろの分業を補完するものでなければならない。
(マルクス著「賃金、価格および利潤」新日本出版社 p127-128)

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具体的労働

 しかし靴をつくる労働は、なめし革をきりなめし革を縫う労働であり、洋服をつくる労働は、型紙に合わせて毛織物を切って縫いボタンをつける労働である。靴をつくる労働と洋服をつくる労働とは、具体的労働としては、質の異なる労働である。だから、靴をつくる労働と洋服をつくる労働とは、等しい労働として交換されることはできない。

それでは、靴をつくる労働と洋服をつくる労働とが──靴と洋服とが交換されることによって──等しい労働とされるのはなぜであるか? 靴をつくる労働も洋服をつくる労働も、人間の生理的エネルギーの支出としては、人間の脳髄、筋肉、手、足などの支出としては、同じものだからである。だから、靴をつくる労働と洋服をつくる労働とは、比較されて等しいとされることができるのである。

そして靴をつくる労働と洋服をつくる労働とが等しい労働として交換されるということは、靴をつくる労働は洋服の生産者のための労働であるということ、他人のための労働であるということ、すなわち社会的性格をもつ労働であるということを意味し、洋服を生産する労働は靴の生産者のための労働であるということ、他人のための労働であるということ、すなわち社会的性格をもつ労働であるということを意味する。

すなわち、この社会では、他人のための労働であるという労働の性格が、労働の社会的性格が、人間の生理的エネルギーの支出という形態をとっているのである。このように、労働の社会的性格が人間の生理的エネルギーの支出という形態をとったものは、抽象的人間労働とよばれる。

抽象的人間労働

 抽象的人間労働は理解しにくい概念であるから、すこし詳しく説明したほうがよいように思われる。

 人間は、生活に必要な物質的財産を生産するさいには、孤立して活動するのではけっしてなく、つねに集団をなして、社会をつくって、労働する。それゆえ、生産はつねに、いかなる条件のもとでも、社会的生産である。人間はつねに、なんらかの仕方でたがいのために労働しあっている。そのため労働は、どんな社会でも社会的性格(他人のための労働であるという性格)をもっており、したがって社会的労働である。

しかし、過去の諸社会では、労働の具体的形態がそのまま労働の社会的形態であり、具体的労働がそのまま社会的労働であった。たとえば、原始共同体では狩りをする労働、魚をとらえる労働などの具体的労働が、具体的労働のままで、他の共同体員のための労働(社会的労働)であった。

また、じぶんが消費するための穀物や家畜や衣類などをつくる農民家族においても、これらの生産物をつくるさまざまな労働、すなわち耕作、牧畜、糸つむぎ、はたおり、裁縫などは、その自然形態のままで(具体的労働のままで)家族の他の成員のための労働(社会的労働)である。さらにまた、中世の封建社会では、労働と労働の生産物は、賦役(労働地代)および貢納(生産物地代)として、農奴の手から封建領主の手にわたり、労働の自然形態(具体的労働)がそのまま労働の社会的な形態であった。

 こうして原始社会でも、古代社会でも(奴隷社会でも、封建社会でも、生産者の具体的労働は、他人のために働らくというその社会的役割を、具体的労働のままで果すことができ、したがって具体的労働のままで社会的労働であった。ところが商品生産社会では、具体的労働は、その自然形態のままで直接には、その社会的役割を(他人のためになるというその役割を)はたすことができない。

この社会では、社会が存続するために必要な靴や洋服や米や機械や織物などすべての物質的財貨は、たがいに独立な・ばらばらな・私的生産者たちによって、じぶんにとっては不必要な生産物として生産されている。そのためこの社会では、すべての生産物は、たがいに全面的に交換されあわなければならない。

たがいに独立な・ばらばらな・私的生産者たちは、かれらの生産物の全面的な交換をとおしてはじめて、結びつけられている。もちろん、この社会においても、私的生産者たちは、他人のために、社会のために、労働しているのであり、したがってかれらの労働は、やはり社会的性格をもっており、社会的労働である。

しかし、この社会では、具体的労働は、直接には私的労働としておこなわれているために、具体的労働のままでは、他人のために働くというその社会的役割をはたすことができない。具体的労働が他人のために働らくというその社会的役割をはたすためには、その生産物が他の私的諸労働の生産物と交換され、その生産物を必要とする他人の手に渡らなければならない。そしてそのような交換においては、異なる種類の私的労働が、等しい労働として、等置されるのである。

だからこの社会では、具体的労働の社会的役割(他人のために働らくという役割)は、具体的労働そのものによってはたされるのではなく、生理的エネルギーの支出としてはどの労働とも等しいという、労働の性格を媒介としてはたされるのである。

 生産者の労働は、どんな社会のもとでも、人間の脳髄、筋肉、感覚などの、生産的支出であり、人間の生理的エネルギーの支出である。たとえば、封建社会では、同じ農民が、ある時は糸をつむぎ、またある時は布を織ったのであるから、糸をつむぐ労働も布を織る労働も、同じ農民の生理的エネルギーの変形にすぎなかった。

しかしこのばあいには、労働が人間の脳髄、筋肉、感覚などの生産的支出であるということ、人間の生理的エネルギーの支出であるということは、ただ生理的事実であるにすぎず、封建社会の経済的構成のなかでなんらの社会的役割もえんじなかった。労働の社会的役割(労働が他人のためにおこなわれるということ)は、むしろ、労働が糸をつむぐ労働、布を織る労働であることによって、すなわち具体的労働であることによって、直接にはたされていた。

ところが商品生産社会では、紡績労働、織物労働などは、たがいに独立な私的生産者たちによって、社会的分業の一環としておこなわれている。そのため紡績労働や織物労働などは、直接には私的労働(じぶんの利益のためにおこなう労働)であって、そのままではその社会的労働たる役割(他人のために役立つという役割)をはたすことができない。

人間の生理的エネルギーの支出として、他のどの労働とも等しい労働として、他の労働と交換されることによってはじめて、すなわちそれらの労働の生産物を交換することによってはじめて、労働の社会的性格──他人のための労働であるという性格──は実現するのである。だからこの社会では、労働の社会的性格は、質的に等しい人間の生理的エネルギーの支出という形態をとるのである。こうして、生理的エネルギーの支出という形態をとった社会的労働は、抽象的人間労働とよばれる。
(宮川実著「新経済学入門」社会科学書房 p44-47)

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◎「商品を生産するためには、人はたんになんらかの社会的欲望をみたす品物を生産しなければならないだけでなく、彼の労働それじたいが、社会の支出する総労働量の不可欠の一部分をなしていなければならない」と。